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宗教の世界史(参考文献1)

2019-07-22 02:00:00 | 宗教の世界史
宗教の世界史(参考文献1)


 はじめに 

●無宗教性とは宗教があること 日本人が無宗教という言葉で済ますことができるのは、この日本列島の中での、いわば内部了解に属することであり、他の文化伝統の中で生活している人には通用しない考え方であることを、改めて認識せねばならないであろう。大切なことは、無宗教という言葉にとらわれることなく、その言葉が指し示している現実を正確に理解することから始めることではないか。(日本人はなぜ無宗教なのか 阿満利麿 ちくま新書 P13)



【1】ヘレニズム世界


1) 乾いた世界 

●地中海性気候 
和辻の「風土」より ○夏の乾燥  ヨーロッパには雑草がない。夏の乾燥は夏草を生育せしめない。草は主として冬草であり牧草である。 イタリアのように太陽の光の豊かなところで夏草が茂らない。それは全く不思議のようである。しかし事実はまさにその通りなのである。 日本の農作業の核心をなすものは「草取り」である。これを怠れば耕地はたちまち荒蕪地に変化する。 夏の乾燥は昆虫類にとって有利な条件でない。日本のように昆虫の多い国から見れば地中海沿岸といえども物さびしいくらいに虫が少ない。地中海地方の雨量は日本の3~4分の1である。夏は褐色、冬は緑。


○痩せ海 
地中海は海であるかも知れぬが、しかし黒潮の流れている海とは同じものではない。黒潮の海には微生物から鯨に至るまで無限に他種類の生物が生きている。しかるに地中海は死の海といってよいほどに生物が少ない。黒潮の海は無限に豊穣な海であるが、地中海は痩せ海である。農業も発達せず、漁業も発達しない。


○海は交通路 
地中海は古来「交通路」であり、それ以上の何物でもなかった。それに比して我々の海は何よりもまず食物を獲る畑であって、交通路ではなかった。地中海は交通に便なのである。島が多い。港湾が多い。霧などはなく、遠望がきく。7ヶ月ぐらいは好天気がつづき、天体による方位の決定が容易である。風は極めて規則正しく吹いている。陸風と海風との交代も極めて規則正しい。もし地中海が太平洋のごとき湿潤な海であり、無数の生物を繁茂せしめえたならば、沿岸地方の人々はあれほど動き回りはしなかったであろう。(風土 和辻哲郎 岩波文庫 P86)



2) 植民活動 

●近代に至るまで日本は、島国として、日常生活の場では基本的に異文化・異民族との深刻な対立を経験してこなかったことも、日本人の精神風土を考える際に見落とすことは出来ない。(教科書 倫理 東京書籍 P72)


●対立と抗争の世界 
前1000年前後の東地中海世界はすさまじいほどの激動期であった。安定と秩序をもたらす大きな覇権国家はなく、都市国家や部族集団が激しくせめぎ合うばかりであった。とりわけメソポタミアとエジプトの狭間にあるカナン地方は、弱小勢力が群立し攻防をくりかえしていたのである。 平穏であれば神々の声に従いながら、ささやかな安堵感に満たされて生きることができたかもしれない。しかし、次々と戦乱と天変地異がつづき、あまりにもめまぐるしい変動に襲われたのである。このような多難な状況に生きる人々はもはや神々の声に従ってばかりではいられなかったに違いない。このような危機と抑圧の時代には、人々は神々の喪失を嘆かざるをえない。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P178)


・チグリスの巨人とナイルの巨人 
『日本と比べて、パレスチナは一体どうだったか。昔から陸橋といわれたこの地は、常に戦場であった。 チグリスの巨人は北から攻め下り、ナイルの巨人は南から攻め上った。 海の民は海岸に侵攻し、あるいは海岸沿いにエジプトに進み、一方ヨルダンの彼方からはたえず遊牧民がなだれ込んだ。これが実に四千年にわたって間断なくつづけられ、これを詳述すれば、一冊の膨大な書物になってしまうだろう。』 (『日本人とユダヤ人』 角川文庫 P63)


●征服か植民か 
種族の移動や再編成によって起こった動揺がおさまって、落ち着いた生活が続くと、やせた小平野と乏しい資源しか持たない国家には、増加してきた人口を収容する限界がすぐにやってくる。その解決策は2つしかない。本土には余分な未開地がない以上、境を接する隣国を征服するか、海外に植民するか、いずれかであった。 だが隣国を征服するといっても、ギリシャ本土自体がそう広くはないのだから、この方法には、すぐ行き詰まりが来る。そこで第二の方法としての海外植民が考えられ、大規模な植民運動が始まるのである。 (世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P112)


ポリスという形にしろ小国家の分立状態にあったということは、狭い土地をめぐってのポリス間の争いが絶えなかったということでもある。紀元前776年には、第1回のオリンピア競技会が開かれている。四年に一度戦闘をやめ、オリンピアの地に集まって体育競技を楽しむということは、それ以外の時期は戦闘をしていたということだ。とはいえ、誕生直後のポリス群の勢力は互いに伯仲していて、戦闘に勝っても、それは直ちに領国の拡大にはつながらなかった。自国内で生活の糧を得ることができなかったり戦争に敗れた人々には、海外に雄飛するしか道は残されていなかったのである。この時期のギリシャの植民が、ギリシャの一地方に限らず、全ギリシャの規模でなされたのも、ギリシャでは植民活動が、ポリスの形成と表裏の関係にあったからであった。 (ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P142)


耕作地に恵まれないギリシャでは、これらの人々には国外に出るしか生きる道がない。 紀元前8世紀は、ギリシャ人による植民地運動が最も盛んであった時期にあたる。 (ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P43)


・棄民の植民 
国を捨ててきたのだからここで失敗すれば帰るところもない。母国であるにもかかわらず、ターラントの人々にとってのスパルタは他国であり、シラクサの人々にとってのコリントは他国だった。それでもなお、交流は盛んだった。 (ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P47)



3)ギリシア・ローマ神話 

●ローマの建国神話 
レア(建国者ロムルスの母)は、神殿に必要な水を汲みに、森の中の泉に行ったところで、疲れて森で眠っている間に戦争の神アレス(マルス)に犯され、ロムルスとレムスの母になった。 ロムルスがローマの初代王になった。ロムルスは、カピトリウムの丘の上に、犯罪人のための避難所を開くなどして、ローマの人口を増やした。しかし女性の数が少なかった上に、近隣の人々がみなローマ人との婚姻を拒否したので、ロムルスは一計を案じ、近隣の人々を祭りの見物にローマに招いた。そしてその祭りの最中に、合図してローマの男たちに、サビニ人たちが連れて来ていた娘たちを略奪させ、各人の妻にさせた。この無法がきっかけで、ローマ人とサビニ人との間に、戦争が起こった。ローマ人の妻になり、子をすでに産んでいたサビニの女たちが、泣きながら両軍の間に割って入って、戦闘をやめさせ、和睦を成立させた。(世界神話事典 角川書店 P410)


・ローマのはみ出し者 
ロムルスと共にローマの建国に参加したのはどのような人々であったのだろう。 王になる前のロムルスに率いられた羊飼いや農民たちが、ラテン人とよばれる民族であったのは分かっている。ラテン語を話した人々である。だがラテン語を話す民族のうちの1部族が、家族ともどもテヴェレ河沿いに移住してきて、新国家を建設したわけではない。どうやら誕生直後のローマの市民の大部分は、独り身の男たちであったようである。なぜなら、政体確立に続いてロムルスが行った第二の事業は、他民族の女たちを強奪することであったのだから。 暴力に訴えてまでして他民族から女を補充しなければならないような男たちの集団が、ロムルスとその配下の男たちであったならば、彼らの素性にも疑いを持たざるを得なくなる。おそらく、ロムルスも彼らも、それぞれの部族のはみ出しものではなかったかと思われる。部族の移住ならば、妻子を伴うのが普通だからだ。 (ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P54)


●妻の略奪 
(ギリシアでは)人口の増加などによって、部族と部族との間の争闘を引き起こしたはずである。 かくして始められた人間の争闘が漸次熾烈になってきたときに、はじめて農民の民を海へ追いやるという情勢が現れてくる。海からの移住は何らかの切迫した事情のために男たちがその女子供や家畜を捨てて小舟をこぎ出すというような事件に始まっているらしい。それは集団的な移動ではなくして、しわば部族的共同態の「断片」が海にさまよい出たのである。そうしてこれらの「断片」は、必要に迫られておのずから「海賊」に変化する。 一度海に出れば、掠奪のみが生存の基礎であり、従って生活全体が闘争になる。 戦って勝てばその土地を占領し、家畜と女たちを自分たちのものにする。彼らがその夫や親を殺したところの女を、妻とするのである。その妻が、夫や親の敵である新しい夫に対してどんな復讐をするかもしれないという危険は、日夜彼らの生活につきまとう。今や彼らは力によって屈服せしめた土着人に労働せしめ、自らはただその成果を味わう。だから彼らの新しい仕事はその力を練って自らを守ることである。 (風土 和辻哲郎 岩波文庫 P101)


●家の意識の低下 
牧場的文化のはじまりはギリシア人の海賊的冒険であった。その郷土の牧場を離れた男たちが、地中海沿岸の諸地方を征服して、原始的ポリスを形成し始めたとき、被征服地の女をとって妻とした。すなわち家族から脱出してきた男と、殺戮によって家族を破壊せられた女とが、ここに新しく家族を形成した。ギリシアの古い伝説に残虐な夫殺しの話が多いのは、このように史的背景に基づくと言われている。 だからギリシア人がもと強い祖先崇拝の上に立っていたにもかかわらず、ポリス形成以後においては、家の意義はポリスに対してはるかに軽くなっている。(風土 和辻哲郎 岩波文庫 P169)


●王権と血統と司祭権 
ゲルマン人の世界では、氏族団体が部族を形成する単位である。部族というのは、共通の祖先を持っていると彼らが考えたまとまりである。むろん共通の先祖というのは神話であるが、にもかかわらず言語をはじめとして、衣服の習慣や髪形、装身具、さらに武器の形や宗教とか伝説などを共にし、それが部族の一体感を支えていた。 部族社会の上層には、優れた祖先の血を引いているとみなされ、多くの家畜を所有する貴族層が君臨していた。その中でもひときわ高貴な血統のものが王と呼ばれる存在である。王は法と豊穣と平和の守護神ティワズの祭司でもあった。 (世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教 弓削達 河出書房新社 P39)


・子孫が死に絶える恐怖 
ゲルマン人も昔はそうであった。ヴァイキングの男は、死ぬときに手に剣を持って死ぬと、大威張りで先祖の霊の集まっている静かな北の海に帰れること、また自分の子孫に再生してくることができると信していたと言われる。ヴァイキング版の靖国神社である。さればこそゲルマン人も名誉を重んじて勇敢であり、家を重んじ、子孫の絶えることを何より怖れたのであった。 キリスト教になると北の海が天国になり、先祖の霊に会見するよりも、神とかキリストに対面するということが、強調された。死後に自分が対面するのは、全能の神と一対一であることを原則とするという信仰は、家族中心であったゲルマン人を、心の底から個人主義者に変えてゆく作用があった。 (日本史からみた日本人・古代編 渡部昇一 祥伝社 P84)


●戦争の日常化 
古代ギリシアには、戦争に行って血を流す覚悟のないやつに参政権は与えられないという原則がある。なぜかというと、当時は人口が常に食料生産を上回るという状況がある。だから、働いて、耕して、種を蒔いて実りを待てばみんな無事に生きていけるというやわな世界ではない。戦争が、食料を得るための日常生活の一部となっている。 (世界史講義の実況中継上 青木裕司 語学春秋社 P18)


●ヴィーナス 
ヴィーナスに関するもっとも有名な伝説は、トロイア戦争の原因にかかわるものである。王ペレウスと海のニンフのテティスの結婚式にただひとり招待されなかった女神エリスは、おこって「いちばん美しい女のために」ときざんだ金のリンゴを神々のいる中にほうりなげた。それをヘラ、アテナ、ヴィーナスの3女神がうばいあったため、ゼウスはトロイアの王子パリスに判定を命じた。すると、それぞれがパリスを買収しようとして、ヘラは権力のある支配者にするといい、アテナは軍事において偉大な名声をあたえるといい、ヴィーナスは世界でいちばん美しい女性をめとらせるといった。パリスはヴィーナスをえらび、ギリシャ王メネラオスの妻ヘレネとの結婚をのぞんで彼女を誘拐するが、これがトロイア戦争勃発の遠因となった。(エンカルタ百科事典 ヴィーナス)


●子殺し・父殺し神話 
クロノス(ゼウスの父)は子供たちを、生まれるはしからレア(クロノスの妻)から取り上げては、自分の腹の中に呑み込んでしまった。それは(父母である)ウラノスとガイアから、息子によって天上の王位を奪われる運命にあると、宣言されていたからだった。ゼウス(クロノスの子)は兄弟と協力し、自分の味方になる神々を、オリンポス山の頂上に集めた。そしてそこを本拠にしてクロノス(父)と戦った。(世界神話事典 角川書店 P400)


・クロノスに代わって神々の王になったゼウスは、メティスと結婚した。ところが妊娠すると彼女を、腹の中に呑み込んだ。それは、もし結婚を続ければ次には男の子が生まれ、その子に神々の王の位を奪われると予言されていたからだった。(世界神話事典 角川書店 P400)


・オイディプス伝説  
「オイディプス王」(ソポクレス) エディプスはその出生に先立って、自分の父を殺し、母を妻とするという運命を予言されていた。彼は、この神託から逃れようとあらゆる手だてをつくすが、結局は、知らなかったためとはいえ、この二つの大罪を犯してしまう。エディプスは、殺したのが自分の父、通じたのが自分の母という二つの罪を犯していたことを知るに及んで、その罰として、逆に我とわが目を抉り、放浪の旅に出る。(モラトリアム人間の時代 小此木啓吾 中公叢書 P209)



4) 奴隷制

 ●ドーリア人の南下 
ミケーネ文明の崩壊の原因はどこにあるのか。古くは、ギリシャ人の第二次侵入、すなわちギリシア人の一派であるドーリス人の侵入によって破壊された、という説明がなされていた。これは今日ほとんど否定されている。それに代わって、「海の民」説が注目されるようになった。時を同じくしてアナトリアでヒッタイト王国が崩壊(前1190)している。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P34)


●ミケーネ社会 
ミケーネ社会には、王のほかに神官がいた。また奴隷も多かった。 (世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P61)


・ミケーネの滅亡 
「10年もの間、家を留守にして遠いトロイで戦争ごっこに熱中していたものだから、その間に国内の秩序が乱れ国力も衰え、外来民族に簡単に征服されてしまったのだ」 当たらずといえども遠からず、ではないかと思う。十年にわたったトロイ戦役を終え(前1184頃)、山ほどの戦利品を持って帰国したギリシャ軍の総大将アガメムノンは、王妃と王妃の愛人によって浴室の中で殺されたのである。ミケーネ文明を滅ぼしたのは、北方からギリシャに南下してきたドーリア民族であった。 ミケーネ文明の担い手であった人々が、殺されたり奴隷にされたりして、まさに徹底して排除されてしまったからである。ドーリア人のもたらした破壊はすさまじく、ギリシャ全土は、この後400年もの間、完全に沈黙してしまう。(ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P140)


・ギリシア神話の原型 
英雄はその行為によって、祖先であることを超えて次の世代に語り継がれ、伝説の中で崇められる。その物語が叙事詩である。残念ながらミケーネ時代の叙事詩は失われて今はないが、ギリシャ人の英雄伝説の原型がミケーネ時代に存在したことは、のちのギリシャ文学、ことにホメロスの詩から推定できるし、ホメロスの詩に描かれた舞台や道具や装身具などが、発掘された遺物と一致することを考古学も明らかにした。伝説の数は少なくはないが、最も大きなものとしては、「トロヤ戦争」、「テーベの攻囲」、「ミケーネ王家の運命」の3つを挙げることができよう。アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスらの作品は、全くの空想による創作ではなくて、以上の物語をそれぞれに脚色し、解釈して創作したものである。(世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P72)


●人間も戦利品 
ゲルマン人の戦利品の中には人間も多く含まれていて、戦争には労働力の補充という側面もあったらしい。 (世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教 弓削達 河出書房新社 P68)


・ギリシア人の創造は、競闘の精神に基づいている。そうして競闘の精神は、物質生産のための奴隷の使用を前提とする。人間はここで、神々のごとく生きる市民と、家畜のごとく生きる奴隷とに分裂する。 (風土 和辻哲郎 岩波文庫 P106)


・スパルタの奴隷 
紀元前1200年ごろに南下してきたドーリア民族が、先住民を征服しててきたのがスパルタである。征服者であるドーリア人は、このスパルタでは先住民と同化しなかった。支配階級と被支配階級が、スパルタほどはっきり分離したままで続いたポリスは他にない。都市国家スパルタのカーストの最下層は、ヘロットと呼ばれる農奴たちだった。この人々こそ、ドーリア人が来襲する以前のスパルタの住人であったのだ。 (ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P170)


・のちには借金を返せないための自由な市民も奴隷化(新世界史B 山川 P35)


●ヴィーナス 
ホメロスの「アデュッセイア」によると、ヴィーナスは鍛冶神バルカンの妻となったが、軍神アレス(マルス)を恋人にした。(エンカルタ百科事典)


・ヴィーナスの誕生 
クロノスは、ウラノス(父)がガイア(母)と交合しようとして降りてきたとき、その男性器を左手で掴み、右手にもった鎌で刈り取って、背後へ投げ捨てた。男性器は、海に落ち、海面を漂ううちに、周りに精液の白い泡が湧き出て、そのなかに、美と愛の女神アフロディテ(ヴィーナス)が誕生した。(世界神話事典 角川書店 P399)


●ギリシア文化に飲み込まれたローマ 
ローマの支配はギリシャ語の文明を変えることなく、逆にギリシャ語世界に帝国は飲み込まれていった。また3世紀以降は、政治的中心も中東に移動してきた。ローマ帝国もまた、しょせん中東の帝国なのであった。当然、ギリシャの神々がローマの神々となった。それらはまだ愛の神、戦争の神のように特定の機能を持つ神であった。 (都市の文明イスラム 佐藤次至・鈴木董 講談社現代新書 P42)


・捨て子の奴隷化 
紀元前2世紀の歴史家ポリュビオスは「人々は結婚したがらず、結婚しても子供を育てたがらない」と嘆いている。平和で繁栄した時代が訪れても、嬰児遺棄の風習は衰えるどころか、さらに広がった形跡すらある。捨て子は奴隷人口のかっこうの供給源でもあった。こうした捨て子が奴隷商人の手で集められ、奴隷として訓練される。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P374)


・神の声の聞こえない社会 
ローマ帝政期の地中海世界にあって大きな潮流、何かしら現世を軽視し肉体を憎悪するとでもいえる衝動が広がっていたのではないだろうか。これこそが人々が自己の中に漠然と罪として感じていたものの別称ではないだろうか。かつて神々の声は人々にあれこれの示唆を与えてくれた。今やそれらの声が聞こえなくなったところに内なる世界がぽっかり姿を見せる。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P196)



5)ギリシアの暗黒時代   前12C~前8C

 ●英雄への転落 
部族の全体性を表現する神々は神話のつくられるころすでに「英雄」の地位に落とされていた。 (風土 和辻哲郎 岩波文庫 P69)


・ヴィーナスと軍神アレス 
(妻ヴィーナスと軍神アレスの不倫の現場を取り押さえた夫の)バルカンは、こんな不埒な娘を押しつけた親のゼウスに、婚資として与えた品々を、せめて返してくれ、と迫る。(ギリシア神話 上 呉茂一 新潮文庫 P244)


・喜劇に落ちた神々 
ローマ人の間でもでデメテル、デュオニュソス、コレ、ヘルメス、ポセイドンなどのギリシャの神々が一般化した。しかし、注意しなくてはならないのは、ギリシャの宗教はローマに到来したとき、本国では変質していたことである。人々はすでに、人間なみの生活をするオリンポス山の神々を信じなくなっていた。ギリシャ神話は人間と同じ不道徳を行う、主神ゼウス以下の神々にあふれており、哲学者たちの批判を受けたり、喜劇の対象となったりしていた。 他方ローマ人の社会は、第二次ポエニ戦役(紀元前218~前201年)の後には、貧富の差が大きくなり、政治的・軍事的混乱が起こったため、ローマ古来の宗教も、ギリシャ伝来の宗教も信仰する者がなくなった。 (ローマ帝国の神々 小川英雄 中公新書 P26)


・ギリシア哲学と神話の影響力は反比例 
ギリシャ人はすでにミケーネ時代からオリンポスの神々のうちの幾柱かを信じ、やがてそれらの神々について神話体系を持つようになった。ギリシャでは次第にオリンポスの神々は人間世界と同じような振る舞いをするものとして描かれるようになった。他方、ギリシャでは哲学を中心とした学問体系が早くから発達し、神話の支配力はそれと反比例するように低下していった。(ローマ帝国の神々 小川英雄 中公新書 P21)


・神としてのロゴス 
神々の声が消え去った時代を凝視し、誰よりも透徹していった哲学者がいる。イオニア生まれのヘラクレイトスはその必然なるものをロゴスと呼んでいる。「ロゴスに聞く」とは「神々の声に聞く」ことの名残かもしれない。ギリシャ人の中にあって、神々の声が消え去ってしまった人々がいたことは間違いない。その喪失感のただよううつろな世界には、まさしく自分自身しか残っていなかったのである。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P184)


●神々の処刑 
未開の諸民族は、彼らの神々が彼らに勝利と幸運と安楽を提供する義務を果たさなかった場合、彼らの神々を排除するのを慣習としていた。それどころか神々を処刑することすら慣習としていた。 王たちはいつの世にあっても神々と同じように取り扱われてきた。この太古における王と神の同一性は、両者が共通の根から生じてきた事実を明瞭に示している。(モーセと一神教 フロイト著 ちくま学芸文庫 P188)


・駄目な神の発生 
古代の戦争も、国と国、民族と民族、軍隊と軍隊の戦いである。しかし古代の戦争には、神と神の戦いとしての意味もあった。戦争に負けて、国や民族が滅びると、そこで崇拝されていた神も死ぬ。 このことは戦争での勝利という「人の側の要求」について、神は当てにならない、頼りにならないということを意味する。つまりこの神は、いわば駄目な神である。そのことが戦争の敗北・民族の滅亡という動かしようもない厳然たる事実によって、証明されてしまったのである。(一神教の誕生 加藤隆著 講談社現代新書  P60)


●2世紀後半のゲルマン社会 
2世紀後半にゲルマン社会は、マルコマンニ戦争と呼ばれる戦乱と激動の時代を迎える。その結果、多くの伝統的な部族が解体し、新しい部族が誕生した。フランク族やアラマン族などがその例である。社会は完全に戦士中心に編成されたし、また王の性格にも変化が生じた。王となる者は血統より、むしろ軍隊の指揮者としての才能が求められるようになる。信仰の対象である神もまた交替した。彼らが豊穣と平和をつかさどるティワズを退けて、新しく拝跪しはじめたのは戦争の神オーデンであった。(世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教 弓削達 河出書房新社 P41)


・軍事指揮者としての王 
ゲルマン人の間で「王」は、何よりも軍隊の指揮能力に優れた人物が、王位につくことが望まれた。 血統の原則は全く棄てさられたわけではなかったが、背景に退く。 戦士であった部族民を率いて戦い、定着するための豊かな土地を彼らに与えることができた王のみが、成功した指導者として生き残った。(世界の歴史5 ローマ帝国とキリスト教 弓削達 河出書房新社 P53)


●原始社会にあっては闘争が絶えず繰り返され、また武力的な統一によって、国が形成せられてきたことを説いているが、私はそれのみで国家が統一されていったとは思わない。むしろ戦争によらずして社会の拡大が見られていった場合も多いかと思う。(開拓の歴史 宮本常一 未来社 P80)


・大和朝廷の国家統一には今一つの変わった方法が採られている。「古事記」や「日本書紀」の記すところによると、天皇や皇子はしばしば地方を巡幸し、その間に地方豪族の娘と婚を通じている。 「日本書紀」の記事は崇神天皇のころから史実に近いとみられているが、皇后および妃の出身が地方豪族の家である場合が多いのは注目に値する。かくて一種の婚姻政策によって国家の主権が確立していっていることの中にも、稲作を中心にした農業国家のあり方を見ることができる。(開拓の歴史 宮本常一 未来社 P82)


●シンクレティズム 
多種多様な宗教が混在し融合したり離反したりしていたのである。こうした諸宗教の融合や重層関係は、しばしばシンクレティズムと呼ばれる。シンクレティズムは古来さまざまな時代や地域に見られる現象である。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P416)


●神殿建立 
ギリシャの大規模な神殿は、特定個人に所属するものでも特定個人の権力を誇示するものでもない。それは、あくまでも建立の当事者である共同体の成員たちが、神の信仰に基づいて進めた共同体の営為であった。つまり神殿建立は極めてポリス的な性格をもつものだったのである。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P53)

 

 


【2】王の消滅


1)ギリシア 
●王権の消滅 
叙事詩の中の王たちは、線文字B文書(ミケーネ時代)にうかがえるような貢納を課す王とは違い、それほど強い権力を持ってはいない。(世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P42)


●アテネ 
紀元前8世紀になると、王制は退けられて、多くの国が貴族制に移っている。 王権は次第に小さくなって、王という名称は残るけれども、実権はなくなり、主として、宗教上の役目だけが残された高官にすぎなくなる。彼は、実際の政治や軍事権を委任されている他の高官たちとともに選挙される役人である。 (世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P88)


●平民の台頭と貧富の差の拡大 
貴族も商工業に従事したけれども、他の平民たちも富の所有者となれば社会の上層に入り込んでくる。土地所有のみに頼る貴族の富は相対的に低くなる。そうなると、貴族だけの特権は独占的に維持しにくくなり、社会には新しい秩序が必要になってくる。一方では、農民の没落が激しくなる。こうして、貴族と平民との差は縮まるが、今度は富者と貧者との差が大きくなる。(世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P122)


●民会とロゴス 
民主政の進んだアテネでは、一般の市民も、公衆の前で弁論をふるう能力を要求されるようになっていった。民会や評議会はもちろん、法廷などでも、まず自分の主張を明らかにし、また聴衆を沸かすことが、何よりも自分自身も他人に認めさせ、同時に我が身を守る不可欠の条件だった。 (世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P256)


●プラトンの哲人政治 
現実の民主政を、無知な大衆の支配するものと落胆していたプラトンは、「国家論」の中で、理想国家の姿を描いた。それによれば、国歌や人類一般の悪を根絶するためには、哲学者が君主になるか、あるいは現在の支配者が本当の意味の哲学をなして、政治と哲学を結合させなければならない。その国家の究極の使命は、善のイデアを実現することにあり、個人はその国家目的に全く適用しなくてはならない。財産も妻も共有であり、教育、身分および職業の選択、芸術や科学活動すべてが支配者の指導によって行われる。結婚をして子供産む年齢までが、その指導者によって定められる。 (世界の歴史4 ギリシア 村田数之亮・衣笠茂 河出書房新社 P324)



2) ローマ
 ●王・元老院・市民集会 
紀元前753年、ローマを建国し、初代の王となったロムルスは、何もかも自分1人で行う王にはならなかった。 国政を、三つの機関に分けたのだ。王と元老院と市民集会。この3本の柱が、ローマを支えていくわけだった。宗教行事と軍事と政治の最高責任者である王は、市民集会で投票によって選ばれると決まった。 羊飼いや農民の頭領であったロムルス自身、自分で勝手に王になったのではなくて、彼らから選ばれて王になったのだと思っていたのに違いない。市民集会による王様の選出という、あまり王政的ではないこの制度も、当時のローマではごく自然な選択であったろう。(ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず 塩野七生 新潮文庫 P52)


●ローマのプリンケプス 
崩御の年にアウグストゥスの正式の肩書は「最高司令官・カエサル・神の子・アウグストゥス・大神祇官・コンスル13回・最高司令官の歓呼20回・護民官職権行使37年・国父」であった。これらの肩書は名誉称号を除けば、いずれも共和政の公職として慣例に従っているにすぎない。元首はただそれを兼任しているだけなのだ。元首つまり皇帝に呼びかけるのには、最初の最高司令官と訳されたインペラトルか、次の称号カエサルが用いられるようになる。英語のエンペラーはインペラトールに由来し、ドイツ語のカイザーはカエサルに由来する。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P325)


・オクタウイアヌスはプリンケプスと称えられたが、何のことはない、元老院議員名簿の最初にあげられるだけ、つまり筆頭ローマ市民であるにすぎないのである。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P323)


・無宗教時代の元首政 
オクタウィアヌスが紀元前27年にアウグストゥスとして元首政を始めたとき、宗教は存在しないも同然であった。 (ローマ帝国の神々 小川英雄 中公新書 P27)


●血のつながりのない元首政 
ネルウァはすでに70歳近い老人だった。軍隊にも元老院にも気に入ってもらえそうな後継者を探しておかなければならなかった。白羽の矢はその頃、ゲルマニアに遠征中のトラヤヌスに立つ。たまたまネルウァに実子がなかったこともあるが、優れた人物を後継者として養子にするという先例が生まれた。ネルウァに始まる5人の元首は五賢帝と呼ばれた。98年、老齢のネルウァが亡くなると、トラヤヌスが帝位に就く。トラヤヌスはスペイン南部の名家に生まれ、属州出身者としては最初の皇帝である。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P362)


・捨て子の奴隷化 
紀元前2世紀の歴史家ポリュビオスは「人々は結婚したがらず、結婚しても子供を育てたがらない」と嘆いている。平和で繁栄した時代が訪れても、嬰児遺棄の風習は衰えるどころか、さらに広がった形跡すらある。捨て子は奴隷人口のかっこうの供給源でもあった。こうした捨て子が奴隷商人の手で集められ、奴隷として訓練される。 (世界の歴史 5 ギリシアとローマ 桜井万里子・本村凌二 中央公論社 P374)


・神の声の聞こえない社会 
ローマ帝政期の地中海世界にあって大きな潮流、何かしら現世を軽視し肉体を憎悪するとでもいえる衝動が広がっていたのではないだろうか。これこそが人々が自己の中に漠然と罪として感じていたものの別称ではないだろうか。かつて神々の声は人々にあれこれの示唆を与えてくれた。今やそれらの声が聞こえなくなったところに内なる世界がぽっかり姿を見せる。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P196)

 


 

【3】ヘブライズム世界

1) イクナートンの一神教

 ●一神教というのは最初は多神教 エジプトの例でも分かるように、一神教というのは最初は多神教であったのが、1つの神が特別に尊崇されるようになり、それと同時に他の神様が整理されていくという形で作られていく。 「古代ユダヤ教」を著したM・ウェーバーも、最初の頃はイスラエルの民がさまざまな神様を拝んでいたことを旧約聖書の記述の中から指摘している。(イスラム原論 小室直樹 集英社 P205)


・エジプト人たちは相互に矛盾する色々な伝承、神話があっても気にしなかった。後に述べるが、全国各地に散らばった宗教的中心地には、それぞれの神話体系があり、神々があったらしい。 ただ1人それに挑んで、日輪のアトン神以外を認めずに、一神教宗教革命を起こしたのが第18王朝のイクナートンである。(古代エジプト 笈川博一 中公新書 P45)


●アメン神官団 
・原則として祭祀はファラオによって行わなければならないが、彼はその役割を諸神殿の神官たちに委任した。 (世界宗教史1 エリアーデ ちくま書房)


・王権の強化と平行して、首都テーベの市神アメンの神殿や神官も富強となり、政治や社会に重大な影響を及ぼすようになった(チャート世界史 数研)


●唯一神 
第18王朝のもと、オン(ヘリオポリス)の太陽神の祭司たちの影響のもとで、さらにおそらくはアジアからの刺激によって強化されて、特定の地域や特定の民族との結びつきにはもはやこだわらない普遍的なアートン神の理念が突出してくる。若いアメンホーテプ4世はアートン教を国教にまで高め、この若い王によって普遍的な神は唯一神とされる。この若い王は徹底した厳格さでもってあらゆる魔術的思考の誘惑に対抗し、エジプト民衆にとって特別に大切であった死後の生命という幻想を切り捨てる。これは人類史上における最初にしてもっとも純粋な一神教の例である。この宗教が成立した歴史学的ならびに心理学的な諸条件をさらにふかく洞察することは、はかりしれない価値を持つだろうと思われる。(モーセと一神教 フロイト著 ちくま学芸文庫 P104)


・ユダヤ教への影響 
ユダヤ教がエジプトの影響を受けているとすれば、エジプトで生まれたモーセによるらしいことは想像できる。 (古代エジプト 笈川博一 中公新書 P31)


・あの世の消滅 
エジプト文化は現代のわれわれには信じられないほど、死と死後の世界に真剣に取り組んでいたようだ。それは時代こそ少し下がるものの、すぐ隣のヘブライ文化が死を全く無視したのとよい対応を示している。古代のユダヤ人の世界観には、「あの世」は存在しない。しかもエジプト人は、後のキリスト教徒のように死を霊の問題とはみなかった。エジプト人にとって死後の世界は生前の世界と全く変わらない。(古代エジプト 笈川博一 中公新書 P74)


・部族神との断絶 
ヘブライ人の宗教的伝統と族長の部族神とのあいだには断絶があり、前者はむしろ紀元前14世紀前半のエジプトのイクナートン王の宗教改革に発するアマルナ時代に行きつく。 (世界の歴史 4 オリエント世界の発展 小川英雄執筆 中央公論社 P63)


●契約による解放 
神と人とが契約するという発想は何とも独特であり異様ではないだろうか。現実には多神教世界の中でデキモノのように突起した一神教信仰だった。神との契約が結ばれ、人々は永遠の義務を負わされることになる。しかし、その契約によって彼らは抑圧と差別からの解放を得ることができるのである。(多神教と一神教 本村俊二 岩波新書 P74)

 


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