新説・日本書紀⑧ 福永晋三と往く - 古代史マガジン【KODAiZiNE】 (scrapbox.io)
2018年(平成30年)4月28日 土曜日
神武東征③ 筑豊で激戦、倭奴国滅ぼす
宇佐から田川を攻略
日本書紀の記述と嘉麻市上山田の射手引神社社伝などの現地伝承を擦り合わせて[第2次東征]を解いた。
118年2月、神武は大船団を組んで東に進む。
速吸之門(はやすいのと)(関門海峡の西端)に至り、
※関門海峡の西端 → 豊予海峡に変更
珍彦(うずひこ)を海の道案内とし、豊国の菟狭(うさ)(宇佐)に至る。
菟狭津彦(うさつひこ)・菟狭津媛(うさつひめ)が菟狭(うさ)の川上に一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)(宇佐市安心院(あじむ)町の妻垣神社)を造り、神武を供応する。
こうして、[1次東征]に大敗した神武は、宇佐へ大きく迂回し、
中洲(なかつくに)の[皇都]を「日を背にして影に従って討つ」2次東征に着手した。
数カ月、狭野嶽(さのだけ)(豊前市求菩提山 くぼてさん)に通い、「頭=英彦山大天狗[豊前坊]」および「八咫烏(やたがらす)=求菩提山八天狗」一族と同盟を結ぶ(求菩提山縁起)。
また、「吉野(大分県中津市山国町)の国樔(くず)(大分県玖珠、九重町)部らを巡回し安心させた」。
同年6月、「天皇独り、皇子手研耳命(たぎしみみのみこと)と軍を帥(ひき)いて進む。既にして皇師(みいくさ)中洲(なかつくに)に赴かんと欲す」。
八咫烏一族の案内で英彦山から帝王山(川崎町と嘉麻市の境にある摺鉢(すりばち)山)に至る。
東麓の川崎町木城の「大王」に降り、「菟田(うだ)の穿邑(うかちのむら)(川崎町天降(あまふり)神社辺り)」に入る。
8月には、「天皇、兄猾(えうかし)および弟猾(おとうかし)を徴(め)さしむ」。
菟田の県(あがた)の長だった2人のうち弟猾は参上したが、兄猾は来ず、神武を新たな宮に圧殺するしかけを造って待ち構えた。
これを察知した神武は、逆に兄猾をそのわなに追い込み、兄猾を圧死させた。
勝利の宴で「菟田(うだ)の 高城(たかき)に 鴫羂(しぎわな)張る」で始まる来目(くめ)歌が歌われた。「高城」という言葉から、その場所は、現在の川崎町にある田原遺跡を臨む台地ではないか。
神武は「9月、菟田の高倉山(田川、飯塚両市の境にある金国山(かなくにやま)。東西山麓に「高倉」の地名がある)の頂に登り、
国見丘(倭奴国の要衝、赤村の岩石山(がんじゃくざん)。天忍穂耳(あめのおしほみみの)尊に由来する国見石がある)の上に、赤銅(あかがね)の八十梟帥(やそたける)の軍勢を見る」。
ここで天香山(香春岳)攻略の作戦を練り、
「10月に赤銅の八十梟師を国見丘に破り」、天香山を奪取した。
※ のち訂正 「天香山を奪取」は、まだ
神武は英彦山を降り、まず倭奴国の鷹羽(田川)を勢力下に収めたことが分かる。
※ のち訂正 上記もまだ
嘉穂、鞍手の決戦制す
帝王山に戻った神武は、西の馬見神社(嘉麻市足白)に入り、天神降臨の際に従った馬見物部の子孫、駒主命から足白の馬を献上された。
神武は彼を案内役とした。
11月には「皇師(みいくさ)大きに挙りて、磯城彦を攻めむとす」とあり、いよいよ倭奴国の主力軍との決戦を迎える。
神武は八咫烏(やたがらす)を派遣して、兄磯城を召すが彼は承知せず、弟磯城は帰順する。
※(古代に真実を求めて 第22集 倭国古伝 正木裕 古田史学の会編 明石書店 2019.3月 P163)
(古事記の神武東征には)「鵜養(うかい)」の「久米歌」もあります。・・・・・・(管理人注 そこに「伊那佐山」がでてきます)
奈良大和では「伊那佐山」はどこか不詳ですが、佐賀県の有明海に面した杵島山地に「稲佐(有明町稲佐)・稲佐山」があります。奈良の吉野の山中で「島つ鳥鵜養が伴」に助けを求めるのは不自然ですが、糸島半島北端はウミウの捕獲地であり、怡土平野を平定して後の時代に、佐賀平定に進んだ時の歌なら自然なのです。
(管理人注) 佐賀の稲佐山には、百済の聖明王を祭る稲佐神社があります。
兄磯城との決戦となり、神武軍は烏尾(からすお)峠を越え、鹿毛馬(かげま)(飯塚市)を経て、
当時「沼田」と呼ばれた遠賀湾の湿地帯「鯰田」(同市鯰田)を迂回し南下。
勝負坂(同市の旌忠(せいちゅう)公園内)で兄磯城軍と交戦し撃破。
勢いに乗じて「熊野の神邑(同市熊野神社)」に進撃し、兄磯城らを討った。
神武は「天の磐盾(いわたて)(立岩神社)に登り」、天祖に東征成就の祈願をしたと伝わる。
境内には現在、天神降臨のモニュメントと考えられる「天の磐船」の船体が二つに折れた形で残っている。神武が制圧後に破壊した跡ではないか。
1964年に発掘された遺跡からは前漢式鏡・鉄戈・鉄剣・絹などが出土している。
12月には「皇師(みいくさ)遂に長髄彦(ながすねびこ)を撃つ」とある。
神武は再び遠賀湾の浅瀬を徒歩で渡り、飯塚市片島に上陸。
同市幸袋の撃皷(げきこ)神社で軍を整え、
鳥見野(直方市頓野(とんの))に進み、
倭奴国最後の王、長髄彦の軍を討ち、滅亡へと追い込んだ。
※(ニギハヤヒ 戸矢学 河出書房新社 2016.2月 P110)
ニギハヤヒは降臨に際して、子の天香山命を同道していた。32供奉衆の第一に連なっている。
大王(おおきみ)ニギハヤヒが死ぬならば,アメノカグヤマがただちに後継として立つのが当然である。しかも異母弟のウマシマジは、父の死後に生まれた乳児にすぎない。
長髄彦(ナガスネビコ)は、妹をニギハヤヒと娶(めあわ)せ、子を産ませることで天神の王位を奪おうとしたのではないか。
生まれた子の名「ウマシマジ」とは「産ましまじ」であって、子が生まれる前にニギハヤヒが死んだことは、さらに疑念を抱かせる。
ウマシマジは乳児であるが、伯父、長髄彦が後見人となることで、大王位の継承者として立てられたのではないだろうか。天香山は、長髄彦の力の前に屈することになる。一度は天神に帰順した長髄彦が、みずからの妹に生ませた乳飲み子を立てて大王位を簒奪したのではないか。しかも、ニギハヤヒの死後に生まれた子によって。・・・・・
「父の死後に生れた子」という経緯に、胡散臭さを感じるのは多くの人に共通するものだろう。長髄彦による大王位(天皇位)の簒奪と、そのための偽装・カムフラージュは成功した。
しかしそれから時を経て神武が東征してきた際に、長髄彦はみずからが立てた子に殺されることになる。
ウマシマジが本当にニギハヤヒの子であったかどうか、きわめて疑わしいとすでに述べたが、少なくとも長髄彦の甥であることは間違いないだろう。みずからの手を汚してまで立てた血族の子に裏切られるという悲劇は、あたかもニギハヤヒの呪いのようだ。
※(オオクニヌシ 戸矢学 河出書房新社 2017.8月 P55)
ニギハヤヒ裏切りのくだりは、「国譲り」の比喩であろうかと思われる。
日本書紀や現地伝承に現れる地名と、筑豊地域の地名や位置関係が、あまりに符号することに改めて驚かされる。
神武即位の約2年前、筑豊地域はまぎれもなく東征の主戦場だったと考えるのが自然ではないか。
(記紀万葉研究家)
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