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「室戸へ」 お遍路記 9日目 鶴林寺(20番) 太龍寺(21番)

2020-09-30 07:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【9日目】 曇りのち晴れ
 【札所】鶴林寺(20番) 太龍寺(21番)
 【地域】勝浦町 → 那賀川 → 阿南市(阿瀬比 → 大根峠 → 新野)
 【宿】 金子や → 山茶花


 宿の金子やを7時半ごろ発ちました。出発時に、金子やの玄関でジャンヌ親子が「先に行く」と英語で言いましたので、私も英語で「オーケー、あとから行く」と言いました。宿のすぐ横に登山道がありました。


●写真 7時42分 登りはじめの山から見た勝浦町の様子



●写真 7時43分 登りはじめの山の花



●写真 7時46分 茅葺きの遍路休憩所



●写真 7時46分 茅葺きの遍路休憩所の中の様子



 20番の鶴林寺への山道は思ったよりも険しく、急こう配が続きました。途中に水呑み大師がありましたが水は枯れていました。しかしあとで鶴林寺の納経所の女性が言うには、そのすぐ下に水がちょろちょろと流れていて、その水が非常においしい、ということでした。惜しいことをしました。


●写真 8時7分 水呑み大師



●写真 8時40分 鶴林寺の山の中腹から見た太龍寺の山と、そこに架かる橋

この山を登ったあと、川を渡って、むこうの山に登ります。



●鶴林寺~太龍寺



鶴林寺に9時過ぎに着きました。


●写真 9時9分 鶴林寺の山門



●写真 9時15分 改修中の鶴林寺の本堂

鶴林寺は改修中でした。木造の寺院は、こうやってときどき人の手を加えながら、何百年もの風雪に耐えてきたのでしょう。両脇に二羽の鶴がいます。鶴林寺の名前の由来です。



●写真 9時19分 鶴林寺の塔



 鶴林寺に着くと、ちょうどジャンヌ親子が、鶴林寺を打ち終えて出発しようとしているところでした。私は「きつくて、ゆっくり歩いてきた」と言うと、ジャンヌは「母もゆっくり行きたがっている」と言いました。鶴林寺の山は思った以上にきつく、私はしばらく休まないと動けそうにありませんでしたので、彼女たちを待たせるのは悪いと思い、「私は今着いたばかりだし、ここでゆっくり休んでいくから、先に行ってていいよ」と言いました。
 その後、すぐお経を唱えてお参りしたあと、例によって靴を脱いでしばらく休んでいると、宿で一緒だったオーストラリア人夫婦二人が登ってきて、男性が「お接待」と言ってミカンを一つくれました。その場で食べました。咽が渇いていて、非常に美味しかったです。
 そのオーストリア人夫婦と一緒に登ってきた別の男性がいたので、「途中からご一緒されたんですか」と聞くと、「私、日本語わかりません」という言葉が返ってきました。てっきり日本人だと思っていたら、韓国人のお遍路さんでした。

 その韓国人のキム(仮名)さんとしばらく話をしあと、いっしょにトイレの場所を探したりしていると、自然とそのまま鶴林寺の山を二人で降り始めました。お互い言葉が分からず、共通語はお互いのカタコトの英語になりました。日本人と韓国人が英語で話すというのも変なものだと思いました。英語はヨーロッパ人とだけ話すものだと思っていましたが、こうやって日本人がヨーロッパ系以外の人と話すときもやはり自然と英語になるようです。

 日本語と韓国語はかなり似た言葉ですが、英語とフランス語よりは遠い言葉のようで、意思の疎通はできません。だからお互い学校で習ったカタコトの英語で話します。でもキムさんの顔を見ると日本人と変わらないので、つい話しながら日本語が出てきます。ジャンヌたちと話すときはそうはならないのですが、相手の顔つきというのは無意識のうちに言葉まで変えてしまうようです。相づちもジャンヌたちとは「イエス」というところを、思わず「そうですね」と日本語になってしまいます。何となくキムさんが日本語がしゃべれるという錯覚に捕らわれてしまうのです。キムさんは覚えたての日本語を少ししか話せませんでした。

 キムさんは外科医だそうです。キムさんはソウルに住まれているようで、ソウル市内の大きな総合病院に勤めたあと、そこを定年退職で辞められたようです。私よりも若いと思っていたら、64才ということで私よりも年上でした。かなり若く見えます。
 キムさんは昨日、徳島駅に着いたばかりだそうですが、お遍路はこれで3回目だそうです。数年前から区切り打ちをされていて、すでにかなりの札所を回られているようです。あそこは良かった、ここは良かったと、前回のお遍路のことをよく話されました。
 いっしょに鶴林寺の山を下っていると、キムさんは途中で「ちょっと休憩します。下り坂はもっとゆっくり行きますので、お先にどうぞ」と言われたので、私は「私もゆっくり歩きましょうか」というと、「いえいえ、あなたは自分のペースで歩いてください」と言われたので「それではお先に」と言って、私は鶴林寺の山を先に下っていきました。私は登りがダメなのに対して、下りは早いようです。


●写真 11時4分 鶴林寺から下る道



 鶴林寺の山を下ると、前回の焼山寺の山と違って、ここははっきりと鶴林寺の山と太龍寺の山が分かれていて、その間には那賀(なか)川というかなり大きな川が流れています。山と山の間を流れるその川のそばに休憩所がありました。そこが標高40mです。標高500mの鶴林寺から一気に460m下ってきたわけです。このあとまた標高520mの太龍寺に登らなければなりません。下ってきたのが何だかもったいない気がします。

 二山越えるのですから当然ですが、歩いてはじめて「二山越えるとはこういうことだったんだ」と思い当たりました。「分かっているようで、本当は分かっていない」とはこういうことを言うのでしょう。頭で分かっていても、体で理解できていなかったのです。これは予想以上にきついです。

 これからその那賀川の橋を渡り、次の太龍寺の山に向かいます。その川のそばの休憩所で休んでいると、キムさんが山から降りてきて「お先に」と手を上げて歩いて行かれました。私も軽く手を上げて挨拶をしました。若い外国人男性も通り過ぎていきました。


●写真 11時9分 鶴林寺から降りたところの遍路休憩所



●写真 11時19分 橋方面の景色

あの山を越えます。



●写真 11時20分 太龍寺の山への橋 前方にキムさん



●写真 11時21分 太龍寺への山への橋



●写真 11時22分 太龍寺への山への橋から見た那賀川(上流)



●写真 11時22分 太龍寺への山への橋から見た那賀川(下流)



●写真 11時22分 太龍寺への山への橋を渡って後ろを振り向いたところ

あの山を降りてきました。



 那賀川に架かる橋を渡って太龍寺の山を登り始めるとすぐに休憩所があって、そこでキムさんが休んでいました。私は登りでヘトヘトですが、キムさんは「下りよりも上りがいい」と言っていました。私よりも年齢は上なのに元気です。先にキムさんが出発して、私は15分ほど遅れて12時に出発しました。
 メドにしていた1時に太龍寺に着くのは無理です。


●写真 11時47分 太龍寺への山の遍路道



●写真 11時59分 太龍寺への山の途中の遍路休憩所



 21番の太龍寺への山道は、さっきの鶴林寺への山道に比べて緩やかです。登りやすい道です。

 12時50分、21番の太龍寺へ向かう途中、誰もいない山の中で、1人昼飯を食べました。ちょっと前に見た標示に太龍寺まであと2キロと書かれてあったのを見てガックリときました。あと2キロもあります。

 休憩している登り坂のちょっと上方にベンチが設けられてありました。今日は何度も背中のタオルを取り替えていて、ザックの中のタオルしか余りがなかったので荷物を取り出そうとしたところ、もう1時近くになってるので、このベンチで昼飯を食べました。回りは鬱蒼と木が茂っています。昼飯は金子屋にお願いしていたおにぎり2個です。太龍寺で食べる予定のおにぎりを、山のなかのベンチに座りながら1人食べました。

 背中のタオル交換はもう6度目か7度目か、数え切れないぐらい替えました。使わないはずの奥にしまったタオル2枚のうちの1枚をいま取り替えたところです。これで使ったタオルは5枚目になります。残り一枚はこの先何が起こるか分からないので、使わずに取って置きます。途中で2~3回タオルを使いまわしました。使ったタオルは4枚まとめて首に掛けて歩いていますが十分に乾きません。でも汗で濡れた背中のタオルよりも良いので、そうやって使い回しをしています。
 ここは2番目の遍路ころがしといわれています。つらさの質が、焼山寺の遍路ころがしとは違いますが、やっぱりきついです。

 ふと「こんなところで道に迷えば大変だ」と思いました。周りに人がいないので心細い気もします。
 宿を一歩出ると、大海原を1人で歩いているような気になります。自分の足だけが頼りです。自分が大海に浮かぶ小舟のようです。それは町中であろうと、こんな山中であろうとたいして変わりません。宿を一歩出ればそこはもう異界です。見た目には、町中も山の中もふだんの世界と変わりませんが、お遍路をしていると、自分がいつもの世界とは違って世界にいることを感じます。日常の世界が恋しく思えます。しかしここでは日常に住む人たちが、自分とは違った遠い世界に住んでいるように感じます。

 そういう世界を歩いているからこそ、トラックの運転手さんが信号機もない交差点でわざわざ止まって私を先に通してくれたり、2人乗りをしながら爆音を立てて猛スピードで走ってきた大型バイクのお兄さんが私の姿を見て頭を下げたりしてくれるのでしょう。
 それは私への尊敬というよりも、私が彼らとは違う異界の人間だからです。身にまとっている白衣(びゃくえ)は死に装束です。「どこで死んでも仕方がありません。亡骸はご迷惑ですが近くに葬って下さい」。それが白衣(びゃくえ)の意味です。
 不思議と死が遠いものではなく、身近に感じられます。でもそれは「死にたい」という感覚とはまったく別で、日常が自分とは遠い存在であり、むしろ異界である死の世界がいつも隣にあるような感覚です。「死んでしまいたい」というのではなく、「もともと自分は死の近くで生かされているにすぎない」ような感覚です。死が身近に感じられるとはそういう意味です。「死にたい」とは思いませんが、たとえ死んでも今とそれほど変わらないのではないかという感覚です。それほど死の近くにいるからみんな必死で生きているのでしょう。色即是空の「空」とはこんな感覚かも知れません。身体感覚がいつもとちょっと違います。

 私がホッとできるのは宿にいるときだけです。そこから一歩外に出ればそこは異界です。異界のなかでは、宿にたどり着くことだけを考えています。あとどれくらい歩けば宿に着けるか、そればかり考えています。お遍路にとって宿はホッとできる唯一の場所です。洗濯をし、風呂に入って、夕食を食べる。そういう世界にたどり着くことだけが1日の唯一の目標になります。そこだけが別天地です。

 まだまだ歩かなければなりません。太龍寺に着いたとしても、そこから宿までまた10キロ歩かなければなりません。その途中に宿はありません。次の宿までこの道を歩き続けるしかありません。


●写真 13時31分 太龍寺の山門



●写真 13時49分 太龍寺の山門



 2時ちょっと前に太龍寺の山門に着きました。しかし、その山門から本堂に行くまでに長い階段があり、これが非常に長く感じました。10番の切幡寺もそうでした。これが予想外にきついのです。知らないと余計きついのです。山門を見ると反射的にホッとします。ホッと気を緩めたあとに、また急な坂道を登らねばならない。これがきついのです。もうヘトヘトになって本堂のある境内に着きました。


●写真 13時53分 太龍寺の境内



 ここは標高520mです。本堂の下には太龍寺ロープウェイの乗り場がありましたが、そんなロープウェイも今の私にとっては無関係な世界のことです。
 太龍寺から山を下りるには、舎心ヶ嶽を登って標高590mの「ふだらく峠」を越える遍路道があります。その道のことを納経所の女性に尋ねたところ、「その遍路道はロープウェー乗り場の先にありますが、その道はめったに人が通らないし、この時間ではおすすめしません。何かあったとき携帯の電波も届きませんし」ということでした。人がめったに通らないというのは今までと同じですが、いろいろ遠回りや寄り道をしながら遍路道を歩くことは、今日の私の体力では無理なようです。残念ながら、お寺を出て車道を下ることにしました。



●太龍寺~舎心ヶ嶽

白く薄い線はロープウェー


 午後2時35分、太龍寺の山門を出ました。ここから平等寺までまだ10キロあります。
 途中で平等寺まで約11.3キロという表示が出ていました。10キロより短くならずに逆に長くなっています。これは国道を行った場合の距離でしょう。5~6キロ先の阿瀬比というところで国道195号線と遍路道に別れます。距離的にはその遍路道が近いのですが、途中に標高200mの大根峠があります。大したことはないと思いますが、どっちの道を行こうか、悩みつつ歩きました。国道を行くと楽ですが、かなり遠回りになります。


●写真 14時56分 太龍寺の山を下る



●写真 14時57分 太龍寺の山を下る



●写真 15時11分 太龍寺の山を下る



 午後3時10分です。まだ3時過ぎですが、21番の太龍寺を下る山道は、ほとんど光がささず、もう夕方のような感じがします。急いで歩きつづけてもなかなか民家が見えません。夕暮れのような景色のなかを、ひたすら歩きました。


●写真 15時20分 太龍寺の山を下る途中の川(下流)



●写真 15時20分 太龍寺の山を下る途中の川(上流)



いまやっと家が見えてきました。


●写真 15時21分 太龍寺の山を下る途中の家



●写真 15時23分 太龍寺の山を下る途中の水田と農作業する人



●写真 15時26分 太龍寺の山を下る途中にあった廃業した民宿坂口屋



 阿瀬比からは国道195号線には入らずに、国道を渡ってその奥の小さな遍路道に入りました。人の通らない寂しい山道です。阿瀬比の村の標高が140mぐらい。その先に大根峠があります。標高200mと地図に出ていたので、そんなにきついことはないだろうと思っていましたが、これが登ってみるとかなりきつい山道でした。たった60mの標高差がこんなに辛いとは思いませんでした。山の形状と道の造りによって、体に感じるきつさはかなり違います。最後の最後でかなりきつい遍路ころがしに遭いました。写真を撮る余裕もありません。



●太龍寺~阿瀬比~平等寺



 やっとの思いでその峠を越えると下りもまた急な坂道で、かなり汗をかきました。今日は手持ちの6枚のタオルのうちの1枚を残すのみです。1枚は残しておかないと何かあった時に困ると思ったので残しましたが、残りの5枚のタオルを使い、繰り返し使ったのも含めて7回か8回、背中のタオルを取り替えました。最初の遍路ころがしが12番の焼山寺で、二番目の遍路ころがしが今日の20番の鶴林寺と21番の太龍寺の遍路ころがしです。どちらも変わらないぐらいきついです。特に、大したことはないと思っていたこの小さな大根峠が、疲れた体には応えました。


●写真 16時40分 大根峠を下り民家が見えてきた



午後4時50分、やっと麓に下りてきました。


●写真 16時58分 大根峠を下った集落



●写真 17時6分 平等寺近くの桑野川のほとりを歩く



●写真 17時14分 平等寺が見えた



 午後5時、ここは山の麓ののどかな農村です。22番札所の平等寺のすぐ裏には山が迫っています。前には桑野川が流れています。その川のほとりの道を歩いてきました。日が暮れかけています。
 22番の平等寺の前を通ったのは午後5時20分頃で、5時を過ぎていたので今日は打てません。納経所は5時までです。明日最初に打ちます。平等寺のすぐ横に民宿山茶花(さざんか)がありました。そこに泊まります。


●写真 17時15分 宿の山茶花



 ジャンヌ親子はすでに着いていました。彼女たちは15分ぐらい前に宿に着いたと言ってました、横の平等寺は打たずにそのまま宿に入ったようです。私と同じように、明日の朝一番に打つようです。
 今日途中で出会った韓国人のキムさんもいました。
 一昨日、民宿びざんでいっしょに泊まっていた男性もいました。茨城県から来た70歳ぐらいの男性です。大石(仮名)さんと言われるようです。昨日の宿は別でしたが、今日またいっしょになりました。
 それからもう1人は3日前の17番の井戸寺のところで道を教えてもらった男性がいました。背中からザックをそのまま包める緑のカッパを着ていた70歳前後の男性です。名前はわかりませんが、滋賀県から来られてるそうです。この男性は明日帰ると言われていました。

 キムさんは3回目の遍路なので、今回はあちこち回り残したところを、徳島とか香川とか、いろんな所を回って帰るということでした。韓国では四国遍路はかなり有名だとも言ってました。キムさんは、アメリカにも住んでいたことがあるということで、英語がかなり上手です。そして自分は仏教徒ではなくてカトリックのクリスチャンだけれども、四国のお遍路が大好きだと言われていました。「韓国人の7割は仏教徒だから、お寺巡りのお遍路には抵抗感はない」と言われてました。残り3割がクリスチャンだそうです。韓国は儒教の国だと思っていましたが、キムさんの話だと儒教は宗教のジャンルとは別のようです。儒教は宗教ではなく、生活文化の一部なのかもしれません。それは儒教の力が弱まっているということなのか、逆に気づかないほど強く生活の中に入り込んでいるということなのか、よく分かりませんでした。


 ジャンヌと話していると、日本人とはもともとが違うなかで何か共通点を見つけて話しているという感じですが、韓国人のキムさんと接していると、日本人と基本的に同じだけど、どこか違うという感じがします。日本人との違いはジャンヌたちとのほうが大きいのですが、感覚的にはキムさんとの違いがより目につきます。もともと違うと思っていると違いが気にならないけど、同じだと思っていると小さな違いがよけい気になる、そんな感じです。

 キムさんはけっこう周りに気を遣う人で小回りがききます。そういう点でも日本人に近いのですが、意外とストレートです。顔立ちが日本人と同じなだけに、よけいそのストレートさを感じるのでしょう。

 夕食のあとで談笑している時に、明日の宿のことが気になって、宿の女将さんに明日の宿のことを聞いてみました。その場で女将さんが紹介してくれた宿に電話を入れました。明日は23番札所の薬王寺(やくおうじ)のある日和佐町の「きよ美旅館」に泊まることにしました。それを聞いていた茨城県の大石さんが「私もそこですよ」と言われました。ジャンヌ親子とキムさんは、同じ日和佐町の別の旅館に泊まるようです。


 大石さんとはそのあと納め札を交換しました。それを見ると大石さんの名前の横に女性の名前が書いてあったので「奥さんですか」と思わず聞いてしまいました。「妻は亡くなりました。いっしょにお遍路に行きたいといってましたので、供養にと思って回っています」と言われました

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