ひょうきちの疑問

新聞・テレビ報道はおかしい。
2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

「室戸へ」 お遍路記 6日目 大日寺(13番)

2020-09-30 10:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【6日目】 晴れ
 【札所】大日寺(13番)
 【地域】神山町(鍋岩 → 玉ヶ峠 → 広野) → 徳島市(一宮町)
 【宿】 なべいわ荘 → かどや旅館


 午前7時半、なべいわ荘を出発しました。山の空気はちょっと冷たかったですが、いつものように半袖シャツ一枚とその上に白衣を着ただけで出発しました。もちろん背中には汗取り用にタオルを入れています。足のマメはまだテーピングするほどではありません。肩にはタオルを掛けています。頭には菅笠です。いつものように金剛杖をついて歩きます。

 宿の出入口の橋を渡ると、同宿した70歳の男性がちょうど町営のバスに乗りかけているところでした。道路横から出ている玉ヶ峠への遍路道を「あっち、あっち」と教えてくれました。バスを見送りながら頭を下げて別れました。フランス人親子は、まだ出発はしていないようです。
 今日は13番札所の大日寺を目指して歩きます。約20キロの道のりですが、まず玉ヶ峠を越えなければなりません。これには2つのルートがあり、一つは遠回りして神山町の中心部を通っていくコース、もう一つは鮎喰川(あくいがわ)に沿った近道です。しかしこの近道コースは険しいコースで、まず標高450mの玉ヶ峠を越えなければなりません。なべいわ荘との標高差は250mあります。私は玉ヶ峠のコースを選びました。


●写真 7時58分 迷った先の民家


 午前8時15分、30分ほど歩くと道に迷ってしまいました。ポツンとあった一軒家の敷地に入ってしまいました。


●写真 8時7分 大日寺への標示


 戻って道路標示を探しました。わかりにくい遍路標示でしたが、その標識を見落としていたようです。


●写真 8時20分 玉ヶ峠への遍路道


 玉ヶ峠は標高455mで、宿のなべいわ荘の標高が200mですから、標高差は250m程度なのですが、登ってみるとこれがかなり険しい道でした。昨日の焼山寺への遍路ころがしと同じようなところを登っていかなければなりませんでした。息が切れ、汗が噴き出してきます。何度も小休止をしました。


●写真 8時33分 車道との合流地点 右の小道が玉ヶ峠の遍路道


 玉ヶ峠の遍路道とアスファルトの車道とが合流したところで、また背中のタオルを取り替えて休憩しました。するとそこへフランス人親子の2人連れが同じ遍路道を登ってきました。母親は「足を石で滑らせて痛かった」と言ってました。彼女たちはその近くで休憩を取り始めましたので、私は先に出発しました。


●写真 8時49分 玉ヶ峠付近から下界を見下ろす



●写真 8時50分 玉ヶ峠付近の集落



●写真 8時50分 玉ヶ峠付近の風景



●写真 9時1分 玉ヶ峠を過ぎて下界の集落を見下ろす


 30分ぐらい歩いて、私が休憩所で休んでいるところで逆にフランス人の2人に抜かれました。


●写真 9時56分 風景 フランス人親子2人が先を行く


 しばらく歩いていくと、通行止めの標示があったため彼女たちは立ち止まっていました。「歩行者は可」と書かれてある文字が分からなかったようです。それを彼女たちに伝えると「オーケー」と安心したようでした。そこからは一緒に歩いて行きました。
 途中で母親が「足が痛い」と言って立ち止まりました。玉ヶ峠で転んだとき足をくじいたようです。母親は靴を脱ぐと足の腫れを見ていました。私はザックの中の冷感湿布を取り出して母親の左足首に当てました。母親は湿布に慣れていないのかちょっと心配そうでしたが、「サンキュー」と言って、また歩き出しました。

 娘の名はジャンヌ(仮名)と言うそうです。母親の名は難しい名前で何度聞いても覚えられませんでした。仮にナンシーとしておきます。ジャンヌは27歳のようです。それにしては若く見えます。学校を卒業して来年1月から働くようです。今はその間のバケーションだと言っていました。フランスは9月卒業なのかな、と思いましたが、よく分かりません。
 しばらく行くと石柱があって、もしかしたらそれが鏡大師かなと思いましたが、3人で何か話していたこともあって通り過ぎました。娘のジャンヌは英語が話せるようですが、私の英語は単語を並べるだけのブロークン英語なのでうまく伝わりません。母親も少しは英語を話せるようですが、娘のジャンヌと比べるとフランス語訛りが強いのか、私には聞き取りにくいものでした。私の英語力では、彼女たちと話すのにかなり骨が折れます。日本に来たばかりなので日本語はほとんど通じません。
 そのあと交通止めのところの作業員さんに「鏡大師はもう過ぎましたか」と聞いたところ、その作業員さんも「わからない」と言われました。そのあとも鏡大師はありませんでしたので、通り過ぎたところが鏡大師だったようです。

 2日目から3日目に板野町から上板町にかけていくつかの神社の前を通ったときも、村々の人々は神社の秋の大祭の準備に非常に忙しく、神輿の飾り付けやノボリを立てたりして、家々にはお灯明の提灯を飾り付けてありました。地域の人々は村々の神社のことに忙しいのであって、八十八ヶ所の札所はいわば私みたいな他所の人間がそれを尋ねている、という構図があるようです。地元の人たちは正式な札所はともかくとして、ゆかりのある小さなお堂や祠のことまでは知らないことが多いようです。神社が日常の信仰だとすれば、山中にある霊場はやはり異界のようで、そこに神と仏の住み分けがなされているような気がしました。
 私は明確な目標があってこのお遍路にやって来たわけではないのですが、でもどこかにそういう異界に誘われているところを感じます。

 橋を渡ったところで自動販売機でジュースを買ってタバコを一服したあと、遍路道の分岐点がありました。地図を見ると植村旅館の近くでした。ここから車道と遍路道に分かれます。「私は遍路道を行くけど、お母さんの足には遍路道はきついから、ちょっつと遠回りになるけれども、アスファルトの道を行ったほうがいい、そんなに時間は変わらないから」という意味のことをなんとか伝えて、フランス人親子と別れました。それだけでもカタコトの英語で伝えるのには、かなりの苦労が必要でした。
 するとジャンヌが、地図の合流地点を指さして「ハロー、ハロー」と言いましたので、ここで合流するつもりかなと思って軽く「オーケー」と答えて、別々の道を歩きました。この遍路道は大したことはなかったのですが、途中で写真を撮ったりしてゆっくり歩いたので30分ぐらいかかりました。


●写真 10時40分 川を渡る(下流)



(上流)



●写真 10時45分 遍路道の人形



●写真 10時45分 遍路道の人形



●写真 11時2分 沈下橋を渡る



●写真 11時5分 渡ってきた沈下橋



 11時すぎに、例のフランス人二人と落ち合う予定の場所に着きましたが、誰もいませんでした。1キロぐらいさかのぼって探しに行きましたが姿が見えないので、待ちながら昼食を済ませました。昼食は昨日焼山寺の自販機で買ったカロリーメイトと水筒の水です。まわりには店も食堂もありません。
 それを食べ終わっても二人は来ないので、意味を取り違えたのかな、と思いました。母親が左足の足首を痛めていたので、通りがかりの誰かの車に拾ってもらったのかも知れません。もう先に行ったのだろうと思いました。しかし、何かあったのかも知れない、と気になります。でも連絡のとりようがありません。


●写真 11時23分 駒坂東のバス停



●写真 駒坂東バス停横の民家

家の横に墓がある


 ここにも家の横に墓がありました。よく見る風景で、私にはこれが非常に珍しいものです。墓は檀家寺にあるか、村の共同墓地にあるとばかり思っていたからです。檀家寺はないのでしょうか。それとも家の横と檀家寺の両方にお墓があるのでしょうか。
 もっともお寺にお墓が建てられるようになるのは、江戸時代の檀家制度ができてからだと言われます。それ以前にはお寺にお墓はありませんでした。そういえば、今めぐっている札所のお寺にも境内にお墓はありません。お寺はもともと信仰の場所か、そのための勉強するところで、祖先崇拝のお墓とは関係のないものだからです。
 でも考えてみれは家の横でご先祖様を供養するというのは、そのほうが自然といえば自然であるような気がします。


●写真 12時48分 街並み



街並み



 2時間近く歩いて、午後1時半、神山町の広野というところで休憩しました。自動販売機でペットボトルを買い、一口飲むとそのまま自動販売機の横に座り込んでしまいました。足はかなり疲れています。まわりには、JA平野出張所、ガソリンスタンド、広野郵便局があります。
 その自動販売機の横で、目立たないように壁にもたれて座り込み、ペットボトルを飲み、いつものように汗に濡れた背中のタオルを取り替えました。電動のツボ押しマッサージ機で足の裏のツボをほぐします。休憩を取らずに歩くとそのあとの反動が来そうです。少しずつ歩くことにしました。
 いくら目立たないようにしているとは言え、自動販売機の横に座り込んでジュースを飲むなど普段はできませんが、白衣を着ているとあまり気にならなくなります。周囲の人も、あまり気にせずに通り過ぎていきます。約30分ぐらい休憩を取ったあとまた出発しました。

 この広野から宿まであと約7キロです。今までと同じく鮎喰川(あくいがわ)の北側の道を下流に向かって歩きます。川向こうの南側の対岸に小学校と中学校が見えました。その後も、鮎喰川の北岸をずっと歩きました。


●写真 13時39分 鮎喰川の橋(上流)



 午後2時、徳島バスの下地というバス停の近くで休憩しました。ここは県道20号線です。この道は1日5本のバスが通ります。これでも増えました。カロリーメイトで昼食を取ったところでは、1日2本でした。ここは1日5本です。ここもまだ神山町です。焼山寺からずっと神山町を歩いています。
 神山町の鮎喰川の北側の道は非常になだらかな下り坂で交通量も少なく、アスファルトの歩きやすい道です。道の左側には家が道路沿いに点在しています。右側の川岸には竹林がありその先に鮎喰川が流れています。川の対岸には小高い山が迫ってきています。ここは山と山に挟まれた一種の谷の状態です。その谷筋を鮎喰川が流れています。
 この道の北側にも山は迫ってますが、対岸の南側に比べると迫り方は急ではなく、その斜面に家々が並んでいます。一つの集落をなしているようです。

 ここから車で焼山寺に上るとすれば、この道をさかのぼって、今朝出発した鍋岩を経由して焼山寺まで行くのでしょう。それに連れて、だんだん人家はまばらになって細い山道になります。そこは里人にとっては異界のはずです。
 しかし私は昨日の朝から2日間ずっと山の中にいたせいか、今の頭の中の地図は、いつの間にか焼山寺が中心になっています。焼山寺から降りていくに従って下界が賑やかになっていきます。次にはもっと賑やかな道に出るでしょう。そこは待ちに待った便利なコンビニがあり、必要なものを何でも買うことができます。しかし焼山寺の景色からだんだんと遠ざかるのは、何か後ろ髪を引かれる思いがします。もう下界に降りて来ている。山の上から下界を見ると、下界が異界に見えてきます。

 下り道のせいか歩きながらだんだん調子がでてきました。30分前に平野の自動販売機の横で休憩を取り、ツボマッサージャーで足をマッサージしたのがかなり効いたようです。休む前に比べると足取りが軽やかに感じます。

 行く手の右側は綺麗な鮎喰川です。1車線の道を歩いています。左側は山がせり出してきて、木が道のほうに垂れ掛かっています。右手には綺麗な青い鮎喰川が流れています。鮎喰川の水は青いです。

 午後2時10分、公衆トイレがありました。ここは徳島バスの名西高瀬のバス停です。ここで急に、さっきジュースを飲んだせいか、急に差し込んでくる腹痛に襲われました。急いでトイレに駆け込みました。まるで示し合わせたような、ちょうどいいタイミングでした。こんなことが私にはよくあります。これも私の持病の一種です。もしこの公衆トイレがなければ、どこか林の中に分け入って用を足すしかなかったでしょう。男の私でも、草むらに分け入って用を足すのは抵抗があります。まして女性の場合は大変でしょう。そういうリスクが私にはあります。これも自律神経失調症の一種でしょう。旅の途中ではいろいろな体調の変化が現れます。
 もし体調を崩して高熱でも出した場合には、そこら辺にうずくまるしかなかったでしょう。昔はそんな行き倒れも多かったようです。行政の管理も行き届かない当時、そういう人を葬るのは地元の人の仕事でした。

 とにかくたまたまトイレがあって事なきを得ました。10年ばかり前に「トイレの神様」という歌が流行りましたが、このお遍路の世界には本当にトイレの神様がいます。札所の売店にはそのシールが売ってあるところもあります。なんとか大明王という神様です。この世界にはいろいろな神様がいます。そしていろいろなお仕事を分担しています。その分担によりこの世が成り立っているのです。この点がキリスト教のような天地創造神とは違います。絶対的な神様が1人いると、他の神様はすべて死んでいきます。
 トイレがちゃんとできるというのはありがたいことです。お陰で便秘気味だった体調もよくなりました。キリスト教の神様も便通をよくしてくれるのだろうか、とまた余計なことを考えました。


●写真 14時45分 鮎喰川の景色(下流をみる)



 3時ごろ、神山町から徳島市に入りました。山をぬけて平野に下りてきた感じがします。


●写真 15時13分 鮎喰川の景色(上流を見る)


午後3時10分、入田春日橋を渡って、鮎喰川の対岸(南側)の道に出ました。


●写真 15時23分 おやすみなし亭


午後3時20分、遍路休憩所のおやすみなし亭が見えてきました。


●写真 15時25分 おやすみなし亭



●写真 15時26分 おやすみなし亭



●写真 15時37分 おやすみなし亭



●写真 15時37分 おやすみなし亭



 私は以前、地元の恵比寿さんの祠を見てまわったことがあります。恵比寿さんは遠くからやって来た神様です。今の私は地元の人にとってはその恵比寿さんのようなものだろうと思いました。そういう異界からやったきた神様に対する信仰は、八十八ヶ所の信仰とどこか似ています。恵比寿さんは神様で、八十八ヶ所は仏様です。それぞれ違うものと受け止められていますが、土地の人たちから見れば、どちらも同じではないかと思います。どちらも、どこか遠くからやってきた見知らぬ人たちです。
 恵比寿信仰はどこか遠くからやって来た神様を、地元の人間が祭って信仰したものですが、私のようなお遍路も
地元の人にとってはどこか遠くからやって来た異界の人間です。でも土地の人たちは普通に接してくれます。時にはこうやって歓迎さえしてくれます。それがお接待の風習です。四国にはこんな風習が根づいています。

 でも他の土地では、なかなかそこまでの風習にはならないのです。逆に漂泊者は差別の対象にさえなります。そのことを一番分かりやすく強烈に描いたのは、松本清張の「砂の器」ではないでしょうか。でももう若い人は知らないかもしれません。あの映画を見ると、お接待の風習が決して当たり前のものではないことが分かります。お接待の風習がなぜ四国にだけ根づいているのか。四国には何か別のものがあるのかも知れません。四国はちょっと不思議なところです。感謝してありがたく頂戴します。


●写真 15時38分 おやすみなし亭を後にする



●写真 15時52分 三日ぶりに見たコンビニの看板



●写真 16時2分 かどや旅館近くの鮎喰川(南岸から)



 午後4時10分、大日寺の山門に着きました。大日寺は県道21号線の道沿いにありました。後ろを振り向くと、その道の反対側には「阿波一宮」と書かれた立派な神社がありす。さらにその神社の入り口近くには、「一宮城跡」の案内板があります。神社の横の山に大きな中世の山城があったようで、もともとここはその城下町のようです。「大日寺」と「阿波一宮」それに「一宮城跡」、その3つが一ヵ所に集中しています。その目の前に「かどや旅館」がありました。

 中世の山城跡は全国にいっぱいありますが、その多くは跡形もなく消え去っています。私が住んでいる地域にも中世の山城跡はありますが、そこに行ってみても、今は一面の田んぼです。どこに町の跡があったのかと思うほどです。わずかに地名に、それらしきものが残るのみです。


 ここの裏手の山にあった一宮城は1338年の築城で、その250年後、1585年の豊臣秀吉の四国攻めでは、ここが主戦場になったようです。ということは、ここは古戦場でもあるわけです。その翌年にお城がここから徳島に移って、今の徳島城ができます。そして江戸初期の1638年に廃城となった、と案内板に書いてありました。
 でもこの一宮町は、お城が滅んだ跡も、この阿波国一宮の神社とそれに隣接する大日寺の町として残ったのでしょう。私の地域の何も残っていない一面が田んぼの山城跡と比べて、神社や仏閣の力はすごいものだと思いました。政治的な力を失っても、信仰が町を機能させる力をもっていたのです。


●写真 16時11分 大日寺の山門



●写真 16時25分 大日寺の本堂



●写真 16時25分 大日寺の太師堂



●写真 16時12分 道向かいの阿波国一の宮の門



●写真 16時26分 阿波国一の宮の鳥居



●写真 16時26分 阿波国一の宮の拝殿



●写真 16時29分 一宮城跡



 しかし考えてみると、ここは阿波の徳島県です。1番札所の霊山寺の近くにも阿波一宮がありました。初日に訪れた大麻比古神社です。すると一の宮が二つあることになります。地図を見ると確かにここは「一宮町」です。でも一の宮が二つあっても誰も気にしないようです。二ノ宮、三ノ宮はどうなっているのでしょうか。それこそ気にしなくてもいいみたいです。
 そんなことを言い出せば、一昨日の最後に打った11番札所の藤井寺は真言宗の寺院ではなく臨済宗の寺院ですが、私はそこで平気で「南無大師遍照金剛」と唱えました。本来「南無大師遍照金剛」は真言宗だけの御宝号ですが、そんなことは誰も気にしません。お遍路ではどこの札所も「南無大師遍照金剛」でいいのです。
 また今お参りしたお寺は13番札所の大日寺ですが、2日目にお参りしたお寺も同じ名前でした。4番札所の大日寺です。13番の大日寺と4番の大日寺、どっちが本物の大日寺なのか、どういうつながりがあるのか。でもそんなことを気にする人もまたいません。それはここでは些細なことです。

 確かに八十八ヵ所巡りは歩き遍路にとって厳しいものですが、誰も細かいことは言いません。ここでは現世の細かさなどどうでもいいことなのです。八十八ヵ所巡りは、ある種の厳しさと、ある種のあいまいさで成り立っています。

 しかしここはインスピレーションの宝庫です。「お四国病」もそのことに関係しているのでしょう。7番札所の十楽寺で会った田代さんも「遍路はおもしろくないけど、クセになる。なぜか何度も来てしまう。不思議だ。」と言われました。ここでは、良いものも、悪いものも同時に顔を出しそうです。何が出てくるか歩いてみないと分かりません。いつもの自分と違うことは、私もうすうす感じています。


●写真 16時27分 かどや旅館



●写真 16時28分 隣の名西旅館



 4時半過ぎ、かどや旅館に入りました。かどや旅館では各部屋での夕食でしたので、同宿の人とは会いませんでした。フスマ一枚隔てた隣の部屋には歩き遍路の外国人男性が泊まるようですが、まだ到着していません。
 宿の女将さんが心配していました。それは安否の心配と同時に、キャンセルの心配でもあります。「遍路宿はいつもキャンセルのリスクと隣り合わせですよ」と女将さんはサラリと本音を話してくれました。気さくな女将さんです。この時間にキャンセルされても、準備した夕食はどうにもなりません。それですべてがパーになります。

 宿に着いていつものように洗濯と風呂を済ませると、昼間別れたフランス人親子が気になって、この近くの宿に泊まるといっていたので、試しに一番近い宿に電話しました。事情を言って宿の主人にそのことを尋ねると、「そのフランス人ならもう来てますよ」ということでした。それだけ聞くと安心して、すぐに次の電話をしました。
 明日の宿の予約です。電話をしてみると、おかしなことに次々に満室で断られます。こういうことは初めてです。明日は木曜日です。日曜日でもないのになぜなのか。明日は徳島市中心部の徳島駅近くに泊まろうと思いましたが、5~6軒電話してすべて満室でした。理由を聞いてみると、何かイベントがあっていて、駅周辺のホテルはすべてふさがっているようです。
 徳島駅から3キロほど手前にある「歩き遍路宿びざん」に予約しました。ただそこは夕食がなく、朝食のみということでした。明日の夕食は自分で調達しなければなりません。しかし近くにコンビニがあるのでどうにかなりそうです。

 午後7時頃、やっと隣の外国人男性が到着したようです。お遍路としてはかなり遅い時刻です。
 午後8時頃、家内から「近所で不幸があった」という連絡を受けました。今朝亡くなったそうです。私と同年代で子供のころからの知り合いです。明日がお通夜、明後日が葬儀だということです。家内に代理で出席するように頼みました。

コメントを投稿