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「室戸へ」 お遍路記 7日目 常楽寺(14番)から

2020-09-30 09:00:00 | お遍路記 「室戸へ」
【7日目】 雨
 【札所】常楽寺(14番) 安楽寺(15番) 観音寺(16番) 井戸寺(17番)
 【地域】徳島市(一宮町 → 国府町 → 佐古)
 【宿】 かどや旅館 → 歩き遍路宿びざん


 朝は6時半から朝食でした。まだ雨は降っていませんが、これから降る予定です。今日の午後から明日の夜中まで大雨になる予報です。
 昨日の夕食は各部屋でとりましたが、朝食は玄関横の応接間でとりました。そこではじめて隣の部屋の外国人男性に会いました。宿泊客は私とその外国人の2人です。41歳の2mを超える大柄な男性ですが、優しそうな顔をしていました。1日40キロぐらい歩いてるそうです。今日の宿もまだ決めていないようです。外国人お遍路はたいがいそんな宿の取り方です。
 彼は、お遍路は今度で3度目だと言っていました。3度ともオランダからわざわざ日本にやってきたようです。2回目は3年前の2016年だそうです。その時は別格霊場も含めて回ったそうです。別格霊場はかなりの山奥にあるところが多いので、歩きのお遍路としてはかなりハイレベルな回り方です。昨日も鮎喰川の南の山中にある番外霊場の建治寺(こんじじ)を打ってきたと言ってました。自分で撮った、建治寺近くの滝の動画をスマホで見せてくれました。私は建治寺近くにそういう滝があることを知りませんでした。外国人だと思っていたら、私よりも詳しいようです。
 「どこから来たのですか」というと「オランダ」といいました。

 7時半頃、出発しました。薄日がさしてますが、これから雨になる予定です。
 今日は4つの札所がかたまっていて、
宿から2キロ先に14番札所の常楽寺、
その1キロ先に15番札所の国分寺、
その2キロ先に16番札所の観音寺、
その3キロ先に17番札所の井戸寺、と連続して打ちます。
 そして徳島駅の3キロほど手前の「歩き遍路宿びざん」に泊まる予定です。

 宿を出て歩いていると、途中で一の宮城の山の写真を撮ろうと思って横道に逸れたところで、出勤しようとアパートから出て車を運転していたおばさんが、ピピッと警笛を鳴らして「遍路道はそっちじゃないですよ」と教えてくれました。「ありがとうございます。でもちょっと寄り道をしますので」と答えました。みんなけっこう親切に教えてくれます。ちょっと道を逸れて一宮城の山の写真を撮りました。一の宮城は徳島、阿波の拠点です。山上の一宮城跡まで登る余裕はありませんが、せめてその周辺の景色を見ようと思いました。


●写真 7時44分 一宮城の山城遠景



 14番札所の常楽寺にいく途中で雨がパラつきだしたので、民家の車庫の軒下に入り雨宿りをしながらカッパに着替えました。カッパを着ると急に蒸し暑くなります。
 14番札所の常楽寺の近くに来たところで、今朝のかどや旅館の奥さんが車で追いかけて来て、私が宿に忘れていた洗面用具をわざわざ届けてもらいました。風呂場にあったそうです。中には歯ブラシと歯磨き粉と髭剃りの三つが入っているだけですが、これがないと困ります。「このためにわざわざ届けに来てもらったのか」とありがたい限りでした。
 8時半頃、14番札所の常楽寺に着きました。雨の中でカッパに着替えたものの、蒸し暑くて、汗が体にこもり、サウナの中を歩いているようでした。
 14番札所の常楽寺の境内に入ると、宿でいっしょだったオランダ人男性もそこにいました。
 本堂に行くと赤いジャンバーを着た男性がお参りをされていました。その赤いジャンパーの男性と喫煙所のところでまたいっしょになりました。タバコを吸いながら話していると、彼はバイクで回っているということでした。年齢は52歳、「昨日12番札所の焼山寺に行く途中で、道に迷ってしまい、12番は打てなかった」ということでした。


●写真 8時40分 常楽寺



●写真 9時00分 常楽寺の納経所の入り口にいた猫



9時10分、14番の常楽寺を出発しました。


●写真 9時17分 常楽寺の奥の院入り口

ここは通り過ぎました。今日は終日雨の予報で、かなり苦戦すると思いましたので先を急ぎました。


 午前9時30分、15番の国分寺に着きました。国分寺は修復中でした。でも奈良時代の国分寺が今もお寺として生きているということが分かりました。それだけでもすごいことです。私の地元の国分寺は、荒れた果てた敷地が残っているだけで、建物は何もありません。千年以上、こんな田舎でどうやって生き残るのだろうかと、それが不思議でした。現在は曹洞宗のお寺となっているようです。曹洞宗といえば禅宗です。奈良時代の宗派でもなく、お遍路にゆかりの真言宗でもありません。千数百年の間には色々な紆余曲折があったのだと思います。
 四国にはよく国分寺が残っていて、4つの県すべてに国分寺があり、それがすべてこのお遍路の札所になっています。その4つのなかで「真言」の名のつかない宗派は、この阿波の国分寺だけです。(ただ59番札所の愛媛の国分寺は真言宗ではなく真言律宗です)
 真言宗を日本にもたらした弘法大師(空海)は四国の香川県の人で、その住居跡には75番札所の善通寺が建っています。四国は空海ゆかりの地ということもあって、真言宗人口の比率が高い地域です。札所の多くは真言宗のお寺です。でも我々お遍路にとって、それは気にしなくても良いことです。そうでないと、外国人お遍路などはありえないことになります。


●写真 9時25分 国分寺の参道

正面が国分寺


●写真 9時26分 国分寺の山門



●写真 9時28分 国分寺の修復中の本堂



●写真 9時38分 国分寺の仮本堂



 このあたりは国府町といいます。国府があったところのようです。国分寺から北に約2キロ行くと、尼寺(にじ)という地名もあります。国分尼寺があったところでしょう。国府、国分寺、国分尼寺、このあたりが奈良時代の阿波国の中心だったところのようです。その構図は私の住む地域と同じです。昨日打った大日寺は、この南側の山手にありますから、そこに城下町があったということは、戦国期には国の中心が平野部から山側に移ったわけです。確かに一宮城下町は山に囲まれた盆地のような所にあります。それが豊臣秀吉の四国攻めのあと、今の徳島城に移ったようです。

 午前9時40分頃、国分寺にお参りを済ませて出ようとしたところで、昨日別れたフランス人親子と会いました。昨日は途中で車に乗って宿に向かったようで、「ホスピタル(病院)?」と聞いたら、「ノー、ドラックストア-」という答えが返ってきました。ドラッグストアーで薬を買ったようです。どうやってそこに行ったのかは分かりませんでした。母親はどうにか歩けそうな感じです。「ゆっくりがいい(スローリー)」と私が言うと「オーケー」と応えました。
 彼女たちは国分寺へ入っていきました。私は国分寺を出発しました。


●写真 10時00分 国分寺方面遠景

左隅に修復中の国分寺が見える


 16番札所の観音寺は分かりにくくて、一度通り過ぎてしまい、近くのスーパーまで行ったところでそのことに気づいてまた戻ってきました。観音寺の近くに来たところで、反対側からフランス人親子が観音寺に向かって歩いているのが見えました。


●写真 10時24分 観音寺の山門



●写真 10時28分 観音寺の本堂



 10時半、16番札所の観音寺(かんおんじ)に着きました。こんな分かりにくいところになぜ札所があるのか分かりませんが、あとで調べると、この地は阿波国府のあったところのようです。国府のあとは何も見当たりません。町があり、家々が続いています。この町が古代から続いているのかどうかは知りませんが、ここは畑にならずに町があります。町の人たちの信仰が続いているのでしょう。

 フランス人親子もすぐに来ました。今日はどこまで行くか聞いたところ、ジャンヌが「ビザン」と答えました。私と同じ「歩き遍路宿びざん」」でした。また同じ宿に泊まることになりそうです。

 ジャンヌはもっと速く歩きたがっているようでしたが、母親が足を痛めているため母親のペースに合わせているようでした。私は健脚ではなく1日20キロの歩くのがやっとですから、自然と彼女たちと同じペースになるようです。
 遍路宿は各所に点在はしていますが、札所の近くとか、登山口の近くとかのポイント、ポイントにある程度集中していて、そのことに合わせて1日の歩く距離を考えると、1日で歩く距離はおおまかに20キロのパターンと30キロのパターンに分かれるようです。
 もちろん宿の場所次第で、どうしても1日に30キロ歩かなければならないこともあります。20キロ以内にこだわっていると、宿の場所次第で翌日に10キロしか歩けないこともありますので、その宿の事情次第で多少きつくても30キロ近く歩くことになります。
 若い健脚の人は、1日に40キロ歩く人もいますが、私は足に自信がなく、室戸岬まで行けるかどうかさえ半信半疑ですから、無理をせずゆっくり歩きたいと思っています。そのほうが寄り道もできそうだと思います。と言っても今まで寄り道をしたのは3日目の別格霊場の大山寺ぐらいで、それでも十分きついものでした。

 しかし一昨日は最大の難所である12番札所の焼山寺を越え、昨日は13番札所の大日寺まで歩けたことで、最初の難関は突破できたような気がしています。
 歩き遍路の半分以上は、焼山寺を打ったあたりで、足を痛めたり体調を崩したりして、徳島駅から自宅に帰ることが多いようです。焼山寺を越えたことで「どうにか室戸まで行けるかな」という望みが出てきました。いつとはなく空海が修行したといわれる室戸岬が私のなかの第一目標になっていました。

 しかし明後日には、1日で二つの山を越えなければなりません。一つ目の山に21番札所の鶴林寺(かくりんじ)があり、二つ目の山に22番札所の太龍寺(たいりゅうじ)があります。その間に宿はありません。野宿するなら別ですが、そうでないなら1日で二山を越えて、そこを下りて宿のある山の麓までたどり着くしかありません。疲れたからといって、近くの宿に泊まろうにも宿がないのです。焼山寺越えの辛さをまた味わうのかと思うと、気持ちがちょっとブルーになります。こんなことをなぜやっているのでしょうか。それがよく分かりません。
 3日目の宿の十楽寺宿坊で会った田中さんが、「お遍路はぜんぜん楽しくないがクセになる。また来てしまう。不思議だ」と言っていたのを思い出します。私はまだ焼山寺を越えただけですが、少し分かるような気がします。
 今まで会った人の中でも、お遍路2回目、3回目の人が多いのには驚きました。聞くところによると、「不思議だ、不思議だ」と思いながら何回もお遍路にやってくる人のことを「お四国病」というそうです。そういうことはあるかも知れません。

 11時ごろ、観音寺をジャンヌ親子と一緒に出て、雨の中を3人で井戸寺へ向かいました。駅近くの町中で道が分からなくなりました。その駅は府中駅と書いて、「こう」駅といいます。府中を「こう」と読むようです。これは読めません。誰かが、「府中」は「不忠」だから、親孝行の「孝」の意味で「こう」にしたと言っていましたが、本当かどうかは知りません。


 そこに緑色のカッパを着た男性のお遍路さんが通りかがったので道を尋ねると、「私はちょっと寄り道して別の道を行きますが、井戸寺は向こうですよ」と教えてもらいました。
 その男性が着ていた緑色のカッパは、ポンチョと違って袖は通っていましたが、背中のザックをまるごと包み込むもので効率的に見えました。私は「ワークマン」で買った普通の雨ガッパを着ていて、ザックにはザックカバーをしています。しかしこれでは、背中のところから雨がザックの中に浸みてきます。
 今まで私は、カッパがザックまで包み込むポンチョ式のカッパでは、雨のなかでザックの荷物を取り出そうとするとき、カッパまで脱がないとザックの中の荷物が取り出せなくなるので不便だろうと思っていました。でも実際に雨のなかを歩いてみると、ザックの中の物を取り出すことはまずありません。多少のことは我慢しても歩き続けるものです。
 緑色のカッパを着て、颯爽と歩いている男性の姿を見て、カッパでザックを包んだほうがかえって便利だと思いました。しかしこの種のカッパはあまり出回っていません。

 雨の中では地図を出すことさえ面倒で、遍路道の標示を頼りに歩いていました。すると途中で通りがかりのおじさんに「違う、違う」と呼び止められて、また道に迷っていたことが分かりました。私たちの後ろを歩いていた60代の女性のお遍路さんも交じって、「どこで間違ったんだろう」とみんなで言いながら、そのおじさんに教えられた道を歩いて井戸寺に向かいました。後ろにいた60代の女性のお遍路さんはさっき観音寺で会った人で、傘をさしながら歩いて、かなり疲れた様子でした。神奈川から来たということでした。
 道すがら、ジャンヌに「今日は昼過ぎから雨で、午後3時以降は大雨になる、明日の朝まで大雨になる」と言うと、ジャンヌは困った顔で頷いてました。
 ジャンヌはパリに、お母さんはドイツ国境近くのフランスの町に、別々に暮らしているそうです。

 12時ごろ、16番札所の井戸寺に着きました。


●写真 12時21分 井戸寺の山門



●写真 12時20分 井戸寺の本堂と太師堂



●写真 12時51分 井戸寺横のおんやど松本屋



●写真 12時53分 井戸寺横の八幡神社



 午後12時45分、井戸寺を打ちおわりました。カッパは着たままです。今日はこれが最後の札所です。井戸寺の納経所のところで例のジャンヌが「ランチ?」と聞いたので、「カロリーメイト」と答えると、彼女たちは「コンビニ」と言いましたので、そこで別れました。

 彼女たちはなぜお遍路をしているのでしょうか。彼女たちの場合、何らかの信仰というよりも、一種の観光なのかも知れません。彼女たちは納経帳の記帳はしてもらってますが、お参りはしないようです。ただ境内を散策しています。日本の文化が珍しいのかもしれません。「東洋の文化に興味がある」と簡単にジャンヌは言いました。「なぜ興味があるの」とさらに聞きたいとも思いましたが、これは日本人が「西洋の文化に興味がある」と言った場合、「なぜ興味があるの」と聞かれても答えられないのと同じだと思って、聞くのをやめました。でも彼女たちの目に、日本の文化がどう写っているのかは気になります。

 井戸寺の横にある民家の小屋の軒先で、蒸気で湿った背中のタオルを交換し、ついでにそこでカロリーメイトを立ったまま頬張りました。
 ザックカバーもかぶせていましたが、ザックにはやはり水が浸みていました。雨の日のことを考えると、ザックの荷物は一度大きなビニール袋に入れ、それをまるごとザックに詰め込んだ方がいいと思いました。ザックカバーだけでは中の荷物が濡れます。それに私のザックカバーは大き過ぎました。ハイカラなお遍路さんも多いですが、私のように不格好なお遍路姿でも誰も気にしません。人それぞれです。
 30分ぐらい休憩を取って、1時過ぎに井戸寺を出発しました。ここから宿の「びざん」までは約5キロですから、2時半過ぎには宿に着くと思います。雨がだんだん激しくなってきました。

 井戸寺を出ると、すぐ近くのバス停にさっきの60代の神奈川から来た女性のお遍路さんが傘をさしながら立っておられました。「今日は今から家に帰ります。また出直してきます」と言われました。体調も悪そうでした。雨は大敵です。バスはあと30分待たないと来ないようです。雨のなか傘をさしてバスを待つのは大変だろうと思いました。「お気をつけて」と言って別れました。

 その後、雨のなかをずっと歩き続けました。カッパを着ているので、汗が発散できずに蒸気が体中にたまります。かといって立ち止まると雨の冷たさで体が冷えそうです。着替えれば良いのですが、着替える場所も見当たりません。県道30号線を東に歩いていますが、軒先を借りるような所がないのです。ザックの中にも水が浸みています。
 立ち止まるきっかけもなく、歩き続けることしかできません。写真を撮ろうとする気さえ起こりません。マラソン選手が一度止まると走れなくなると言いますが、そんな感じです。途中、般若心経を唱えながら歩きました。命の危険を感じるというと大げさですが、歩き続けるしかないというのはある意味で危険なことです。これが山のなかだったらなおさら危険です。
 さいわい私は徳島市の中心部に向かって歩いていて、周りには人通りがあります。助けを求めることはできます。でもそうでなかったらと思うと、やはり命の危険が頭をかすめます。雨のなかは、とにかく歩くしかありません。予報ではこの雨は明日の朝までやむことはありませんから、雨宿りしていても雨は降り止みません。
 歩きながら、自分だけ宙に浮いて、まわりの世界とは別の空間を歩いているような気になりました。

 今日、最初の札所の常楽寺で赤いジャンパーの52歳の男性と会ったときに、私が自律神経失調症だというと、「自分にもそういうところがある」と言っていました。彼はなぜバイクでお遍路をしているのでしょうか。彼は何をしたいんだろうか、オレは何をしたいんだろうか、そんな雲をつかむようなことが頭をよぎります。
 赤いジャンパーのバイクに乗った男性にも日常があります。数日後にはまたハードな仕事に戻るのでしょう。「四国一周旅行のついでに、どうせなら遍路をして四国一周しようと思いました。般若心経もまだ言えませんけど」と言っていました。
 彼は四国一周のついでにお遍路に出たのではなく、本当はその逆だろう、と思いました。お遍路を四国一周のついでのように言ったのは彼独特のカモフラージュでしょう。52歳の男性は少し悲しそうでした。そして控えめに言葉を発していました。メガネは尖っていてジャンパーは真っ赤でしたが、何か胸に抱えているものを感じました。彼はそれ以上何も言いませんでした。

 午後からはますますひどい雨です。昨日から見ている鮎喰川の橋を越えたあたりで宿への見通しがつきました。国道30号線を進み、道を右に曲がり国道192号線に入りました。
 汗がひどくて、雨が背中に浸みているような気がします。体温が吸い取られています。動かないと死んでしまいそうな感覚に襲われましす。必死で黙々と歩きました。立ち止まっていつもの悪寒がくれば死んでしまいそうな気がしました。雨をしのげる屋根がどれだけありがたいのか、これほど思ったことはありません。

 宿の近くのコンビニで今日の夕食を買いました。非常食としてカロリーメイトも買いました。コンビニの中は外からはいると蒸し暑く、よけいに汗が噴き出してきて、支払いを済ませるまでの2~3分間が妙に長く感じられました。体温調節が苦手な体には、急な温度変化は応えます。

 2時半過ぎに歩き遍路宿びざんに着く予定であったのが、必死で歩いて2時過ぎに宿のびざんに着きました。体は汗なのか雨なのか分からない湿気がたまっていて、暑いのか寒いのかよく分からないような状態でした。
 民宿びざんに着いた時は、本当にホッとしました。1回インターホンを押して返事がなかったので不安になりました。2回押すと宿のご主人が出てきました。1階はガレージで、2階と3階が宿です。

 ご主人はもともとお遍路をしていた人で、それがきっかけで他県からここに移住してこられた人だそうです。そのことはご主人には聞きませんでしたが、遍路の途中で別の人からそう聞いていました。
 「びざん」のご主人は入口のガレージで、親切に世話をしてくれました。カッパの脱ぎ方、拭き方、干し方、靴の乾かし方、洗濯の仕方、至れり尽くせりといった感じです。部屋に入り着替えを済ますと、やっと雨から解放された気になりました。コンビニで買ったビールを一口飲んでやっと一息つきました。
 主人が好意で4時からの予定の風呂を3時からにしてもらいました。風呂に入ると思わず「アアァ」と声が出ました。体の奥底から沸いて出てくるような太い声でした。本当に生き返るようでした。極楽のようでした。極楽とはこういうのを言うのかも知れません。このお遍路には、地獄と極楽が隣同士であるような気がします。
 しかしそれは現代のお遍路の環境の中でのことであって、野宿したり善根宿に泊まったりすればお風呂にはありつけません。それでも夜露がしのげれば、どんなにありがたいか知れません。還暦すぎた私にはもうそんな泊まり方はできませんが、「橋の上で杖をつかない」というお遍路のルールも、橋の下でお遍路(弘法大師)が寝ているかも知れないからだと言います。それはまんざらウソではなさそうです。

 風呂からあがると、井戸寺で分かれたジャンヌ親子が到着していて、食堂にいました。「お風呂あがりました」と告げて、自分の部屋に戻りました。
 妻にメールを打たなければなりません。毎日必ずメールを打つというのが、このお遍路の条件でした。それが日課になりつつあります。


●写真 歩き遍路宿びざんガレージと入口



●写真 歩き遍路宿びざん外観



 夕食はない宿でしたが、代わりに「お接待」でコーヒータイムがあって、宿泊者全員がご主人と奥さんをまじえてテーブルを囲みました。
 ここに泊まっているのは、ジャンヌ親子2人、それから70歳前後の男性で茨城県から来たという人、それに私の4人でした。70歳前後の男性は、お遍路は3回目ということでした。今回は、高知の先の足摺岬まで行くそうです。
 ジャンヌは司法試験の発表が今日あって合格したということで、とても喜んでいました。来年の1月から仕事が始まると言ってました。私が「司法試験は難しい、すごいな」と言おうとして、サプライズという単語がでてこなかったので、手を上げてビックリだ、と言ったら通じました。私はもっと色々なことを尋ねてみたくなりましたが、日常会話以外は単語が出てこずに会話にならなかったので諦めました。
 ジャンヌは、会話が分からなくなると、持ってきたタブレット端末でフランス語を日本語に翻訳して話していましたが、便利なようで、タブレットでの会話は意外と白けるようです。結局、当たり障りのない日常会話が一番いいようです。
 ジャンヌはシャープな目をしています。弁護士に意外と向いているのかも知れません。

 明日は20番札所の鶴林寺の登山口まで歩きます。そこに一軒宿があります。途中、徳島城周辺を迂回し、18番の恩山寺(おんざんじ)、19番の立江寺(たつえじ)を打ちます。約27キロの道のりです。私にとってはかなり長い距離です。
 明後日は、20番の鶴林寺(かくりんじ)の山を登り、そこを下ってさらに次の21番の太龍寺(たいりゅうじ)の山を登ります。1つ目の山の鶴林寺を打ち、2つ目の太龍寺の山を降りるまで宿がありません。1日で鶴林寺の山と太龍寺の山の2つの山を越えなければなりません。ここが2つ目の遍路ころがしです。そのためには明日、どうしても鶴林寺の登り口までたどり着いておかないといけません。
 27キロと明日は長い道のりですが、かといって20キロあたりに宿を取ると、次の日が中途半端になります。私にはちょっときついですが27キロ歩くことにしました。

 今日は晩方、徳島市中心部や、徳島城、阿波踊りが行われる通りなども歩いてみたいと思っていました。予定では今日、徳島市中心部に宿をとる予定でしたが、あいにく宿が満室で取れませんでした。明日は多少無理でも30キロ近くを歩くことにしました。平坦な道なのでどうにかなるだろうと思います。
 食堂のテーブルでコーヒーを飲みながら、その場で登山口近くの金子やに電話し、明日の予約をしました。ジャンヌ親子もいっしょに予約して欲しいと言うことでしたので、そこに3人いっしょに予約を入れました。予約ができてホッとしました。でも「6時に到着しないと夕食は出せない」ということでした。彼女たちにもそのことを伝えました。もう一人の70歳ぐらいの男性は、すでに別の宿を予約されていました。

 何かあったときの連絡のために、ジャンヌのスマホの番号を聞いて試しに電話してみましたが、つながりませんでした。国際電話の仕組みがよく分かりませんが、ジャンヌがフランスから持ってきたスマホに、日本から電話を掛けることはできないようです。国番号を入れてもダメでした。ジャンヌがフランスから持ってきたタブレットはネットにつながるのに、電話回線はつながらないというのがよく分かりませんが、どうもそうなっているようです。

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