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「土佐へ」 お遍路記 20日目 国分寺(29番) 善楽寺(30番)

2021-09-24 05:33:03 | お遍路記 「土佐へ」

【20日目】 晴れ
 【札所】国分寺(29番)、善楽寺(30番)
 【地域】南国市(後免町 → 国府 → 岡豊町) → 高知市
    【宿】 南国市のホテル → スーパーホテル


 昨夜は10時から5時まで眠ることができました。旧友と会って酒を飲んで、心も落ち着いたようです。
 7時半、宿を出発しました。素泊まりなので、近くのコンビニでおにぎりを二つ買って食べました。29番札所の国分寺と30番札所の善楽寺を打って、高知市内のホテルに入ろうと思います。



●写真 7時40分  南国市の小さな山




●写真 7時47分  南国市の小さな山




●写真 8時00分  南国市の水田(北を望む)




●写真 8時32分  国分寺への道(北を望む)


「国分寺」の表示


●写真 8時33分  国分川と鴨(西を望む)


川のまん中で鴨が泳いでいました。


●写真 8時39分  土佐国衙跡の標示




 国分寺の東約1キロのところに国衙(国府)跡があるようですが、遠回りが辛くて行きませんでした。その近くにそこの国司として赴任し「土佐日記」を書いた紀貫之の住居跡があるようです。

 そういえば紀貫之は土佐まで船で行ったのでした。あの室戸岬までの海岸を歩いて行ったのではありません。道もないのですから当然と言えば当然ですが、それとほぼ同じ平安時代に室戸岬で修行しようとした空海という男は一体どういう男だったのでしょうか。並の男ではありません。
 今思い返しても、道のない海岸線を室戸岬へ向かって歩いて行くなど、正気の沙汰ではありません。あそこは近代的な道路がなければ、都からは決して歩いて行けない場所なのです。エリート官僚への道を捨て、誰も行かない室戸岬で修行をした空海はきっと命がけだったのでしょう。そこにはすさまじいエネルギーがあるはずです。

 一説によると空海はそこで求聞持法(ぐもんじほう)という記憶術を手に入れたようですが、それだけではないような気がします。空海は、命がけで自分の命よりも大事なものを体得しようとしたのではないでしょうか。命よりも大事なものがあるという直感がなければ、命がけであのような室戸岬へ行けるはずがありません。

 私は、空海という名前の「空」には、般若心経にある色即是空の「空」と同じものを感じます。空海の名は室戸岬の洞窟で「空」と「海」だけを見つめていたから「空海」としたと言われています。

 室戸岬はある意味、死の場所です。空海とは、「空」が死の「海」のうえに乗っかっている。それは「悟り」が「死」のうえに乗っかっているということです。室戸岬という死の海で、命をかけた修行をしながら空と海を見続け、彼は「空」を体得したのだと思います。

 空海はあくまで生きることを選びました。そして生きたままで仏になれることを信じたのです。「即身成仏」です。これは、生きた人間を生き埋めにしてミイラにすることではありません。彼は、生きたまま仏の心を持てることを信じたのです。「一切衆生、悉有仏性」(生きとし生けるものすべてに、仏の心がそなわっている)です。空海の時代の室戸岬は普通の人が行けるところではありません。そこは命を越えるための場所だったのです。



●写真 8時40分  コスモス畑




●写真 8時40分  コスモス畑




●写真 8時41分  国分寺と花一輪


正面の林の中に国分寺があります。


 室戸岬を過ぎたあとは妙に綺麗な花が目に飛び込んでくるようになりました。この世にも浄土はある、という気になります。



●写真 8時48分  国分寺の山門


国分寺は集落の中にありました。


●写真 8時49分  国分寺の本堂




●写真 9時00分  国分寺の本堂




●写真 9時10分  国分寺の鐘


「この鐘は朝夕の定時に撞く鐘です。勝手に撞かないで下さい」の表示。周囲の民家への配慮なのでしょう。


 私の地元の国分寺は、いまは跡地が残るのみです。でも四国には国分寺が現代に残っています。いろいろな変遷があったとは思いますが、奈良時代の国分寺が1300年の時を越えて現代に残っていることは、それだけで驚くべきことだと思います。

 境内で、歩きでお遍路をしている40代の男性を見かけました。かなり険しい表情で、先に次の札所に向かわれました。


●写真 9時24分  国分寺を出る




●写真 9時26分  国分寺を出た遍路道




●写真 9時33分  国分寺を出た遍路道




●写真 9時35分  国分寺を出た遍路道


ゆるやかな遍路道が続きます。


●写真 9時52分  国分川と岡豊の山


この右手に中世の山城があるようです。


●写真 10時1分  岡豊の遍路道


「岡豊城跡(岡豊山)0.5km」とあります。


●写真 10時3分  岡豊城への登り口


左側の細い山道が、山城への登り道です。「岡豊城跡(本丸)」の表示があります。


●写真 10時5分  岡豊の景色


高知城ができる前は、このあたりが栄えていたようです。



●写真 10時45分  休憩したコンビニ




●写真 11時24分  毘沙門ノ滝へ


札所ではないですが、横道にそれて毘沙門ノ滝へ向かいました。



●写真 11時33分  毘沙門ノ滝の池




●写真 11時42分  毘沙門ノ滝の池




●写真 毘沙門ノ滝の橋



●写真 毘沙門ノ滝



 実はこの滝のすぐ横にはラブホテルがあります。本通りから外れたこの場所は、そういうことにも適した場所なのでしょう。しかし、室戸岬から離れるにしたがい、このような俗世の営みに触れるとなぜかホッとします。今までならいぶかしく思ったでしょうが、室戸岬までの人気のない海岸道路に比べると、「救い」も「悟り」も「性」もある、そのごった煮のような俗世にホッとします。



●写真 12時2分  逢坂峠上り




●写真 12時5分  逢坂峠下り


道の反対側の歩道を男性お遍路さんが歩いていました。道を挟んでしばらく並んで歩きました。高知平野の北辺を歩いているようです。



●写真 12時10分  善楽寺への遍路道の入り口




 12時半頃、30番札所の善楽寺に着きました。そこに、さきほど高知市に入る逢坂の関あたりで道を挟んで同じ速度で歩いていた男性のお遍路さんもいました。それから午前中に土佐の国分寺で会った男性もいました。彼は裸足になってベンチに寝そべって休息していました。疲れ切っている様子が伝わってきます。足の裏には白いテーピングが痛々しく巻かれていました。


●写真 12時22分  善楽寺の入り口



 私は肩の荷物をベンチに置き、まず一服しようと善楽寺の山門をまた出ました。そこでタバコを取り出すと、ちょうど目の前にタクシーが止まりました。すると中から降りてきたのは、13番札所の大日寺を打った日に同じ「かどや旅館」に泊まっていた背の高いオランダ人の男性でした。彼とは26番の金剛頂寺でもすれ違いました。
 声をかけてみると、彼は私のことを覚えていたようでした。彼は、この高知市に何泊かするつもりだと言いました。見てみたい建築があると言っていました。
 彼が境内に歩いて行くと、そこにまた別の外国人の男性がいて、外国人同士でしばらく話していたようでした。



●写真 12時51分  善楽寺の本堂




●写真 12時51分  善楽寺の太師堂




 私は本堂と大師堂にお参りして、納経を済ませました。境内にある自動販売機の横で缶ジュースを飲みながら休んでいると、そこに境内にいたもう一人の外国人がやってきて、ちょっと話しをしました。彼もオランダ人でした。さっき話した背の高い男性もオランダ人だったので「二人は知り合いなのか」と尋ねると、「初めて会った人だ」と彼は笑って答えました。
 オランダ人とはよく会います。ジュリアンたちはフランス人でした。リーさんは韓国人でした。アメリカ人とも会って良さそうな気がしますが、なぜか会いません。アメリカ人は少ないのでしょうか。

 彼は63歳で、1週間区切りで、毎年お遍路にやって来ているようでした。明後日にはオランダに帰ると言っていました。私はその時、自動販売機の横にしゃがみこんで、靴を脱ぎ、ツボ押し用の電気マッサージャーで足の裏をマッサージしていました。彼が「それは何だ」というので、「中国の漢方式のツボマッサージャーだ」と言おうとしましたが、「漢方」という言葉が分からず、また「ツボ」という言葉も分からず、説明しているうちにチンプンカンプンの会話になってしまいました。
 でも彼の方が話題を変えてくれて、今日は黒潮ホテルに泊まると言いながら「荷物が重たくて疲れる。でも温泉はいい。痛い足にも、痛い肩にも、非常にいい」と言って笑っていました。彼もまた「お四国病」なのでしょうか。「お遍路は楽しくない。でもまた行きたくなる。不思議だ」と3日目の十楽寺で会った田代さんが言ったことを、また思い出しました。
 「私も足の裏のマメが痛い」と言おうとして、ジャンヌから教えてもらった「ブリスター」と言葉を言いましたが、どうも通じていないようでした。いったい何語なのでしょう。

 10分ぐらい話をして、「ではお気をつけて」と言って別れました。「お気をつけて」という言葉が、別れ際の一番簡単で綺麗な日本語だと思います。本当はきちんと立って、頭を下げたかったのですが、マメが痛くて座ったままで言ってしまいました。
 「座ったままで失礼します」と言おうとしましたが、これも英語が分かりませんでした。「ソーリー アイアム シッティング」ぐらいで通じたのでしょうか。でもとっさには浮かびません。それでも気持ちは通じたようです。穏やかで感じのいいオランダ人でした。


●写真 一宮の鳥居


善楽寺と土佐一宮神社は隣同士にありました。神社とお寺は昔は一体だったようです。



●写真 13時19分  一宮の本殿




神社の本殿には、じっと立ったまま、いつまでも願い事をしている女性がいました。
ここから宿まであと2時間ぐらいかかります。


●写真 13時49分  善楽寺の南の水田




●写真 14時00分  国分川




●写真 14時00分  国分川と鴨




●写真 14時8分  高架道路工事


バイパス工事の高架の下をくぐり抜けるようにして歩きました。どこをどう歩いているのか自分でも分からなくなりました。



●写真 14時13分  高知市へ




●写真 14時21分  南へと流れを変えた国分川




●写真 14時22分  新国分川橋をわたり高知市中心部へ

善楽寺からの道はかなり長く、まだかまだか、という感じです。


●写真 スーパーホテル




 今日のホテルは素泊まりだったので、ホテル近くのコンビニで弁当を買いました。いっしょに買った缶ビールはコンビニを出るとすぐ、座り込んで飲んでしまいました。やっぱり足がヘトヘトでした。

 3時頃、高知駅の近くのスーパーホテルに着きました。ホテルの大浴場の温泉に入り、生き返りました。

 


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