ひょうきちの疑問

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「土佐へ」 お遍路記 19日目 大日寺(28番)

2021-09-25 14:43:28 | お遍路記 「土佐へ」

【19日目】 晴れ
 【札所】大日寺(28番)
 【地域】香南市(旧吉川村 → 旧野市町) → 香美市(旧土佐山田町) → 
     南国市
    【宿】 かとり → 南国市のホテル

 昨夜は、夜の8時から夜中の2時まで6時間ぐらい寝ました。2時に起きると何もすることがなく、かといってそれ以上眠ることもできず、夜なか中、日記のように妻にラインを打ってました。でも室戸岬を出たあとは、だいぶ気持ちが落ち着いて来たようです。

 考えてみると昨日の琴ヶ浜は、室戸岬に向かう海岸と比べてみると、同じ太平洋でも全く違います。琴ヶ浜には岩がありません。室戸岬のあのゴツゴツした岩だらけの海岸に比べると穏やかな海岸です。波がザブーンザブーンとたゆたっていて、浜の途中にはその海岸で釣り糸を垂れている人もいました。琴ヶ浜には人がいます。浜で遊んでいるカップルや家族連れもいました。やっぱり人の匂いのするところに出るとホッとします。

 山を越え、海を渡り、誰もいない室戸岬への海岸を歩いているうちに、私は憑き物につかれていたようです。琴ヶ浜の海岸は同じ太平洋でも、室戸岬に向かう海岸とはぜんぜん違います。
 人の住む世界に戻ってきて、やっと憑き物が落ちたような気がしました。琴ヶ浜が海のゴールだったような気がします。異界から人間界に戻った感じです。異界では、聖的なものと生的なものが強烈に現れました。「聖」と「生」は、意外と近いところにあるようです。
 異界は魔界です。魔界では人は人間の心を失います。それを防ぐために人間は魔界に近づくたびに「神」を祀ったのだと思います。



●写真 昨日見た防波堤自転車道沿いの祠




 海岸沿いにこのような祠が建てられていました。安芸市から琴ヶ浜に向かう途中にありました。

 人は異界を避け、魔界を封じ、人間らしさを保つ工夫をしてきたのでしょう。そうでないと人は魔界から抜け出すことができなくなります。私はここ2週間ずっと魔界におちいっていたようです。お遍路さんはみんな多くを語りませんが、そのことに気づいているようです。神峯寺をいっしょに下ったあの60代の女性も自分の気持ちがハイになっていることを自覚しているようなところがありました。そしてそのことを必死で表に出さないようにしているようでした。だからお遍路は雑談はしても、身の上話はあまりしないのです。

 お遍路は異界と接しています。山を越えて人家のない海岸線を室戸へと向かい、さらに室戸からここまで海岸づたいに歩いてくるのは、けっこう長かったです。

 昨日、琴ヶ浜でトイレの落書きを見たとき、異界からやっと脱出して、また俗界に戻ってきたような気分でした。「私はまだこの俗界が好きだな」、そう感じました。それまではずっと私の隣に死の匂いがありました。それは恐いものではありませんでしたが、その死の匂いと縁が切れた感じです。もとの俗界の感覚を「いいものだな」と感じました。

 「生」と「性」と「聖」は、みんなつながっています。そして「祭」も「死」も同じようなものです。「生」「性」「聖」、「祭」「死」と唱えてみると、みんな似たような発音です。何か通じるものがあるのでしょう。涅槃の境地にはまだ遠いですが、「生」を突き詰めていくと、やがて「涅槃」にたどり着けるかも知れません。鯖大師の住職さんも言っていました。「般若心経を唱えながら、世をはかなむのではなく、一生懸命楽しく生かれたらよろしい」と。

 空海は、「空」と「海」の向こうに「永遠の沈黙」を見たのでしょうか。それとも「カンノンサマ」を見たのでしょうか。「男女の豊かな交わりは、悟りへの道」、一見とんでもない教えのように思えますが、ちゃんと真言宗の「理趣経」に書いてあります。それも何回も何回も繰り返し書いてあります。そんなバカな、と思う反面、案外そんなもんかも知れない、と思います。

 妻にラインを打ちながらそんなことを考えていると、見あきた妻の顔もまんざらではない気がしてきました。やはりどこかおかしいようです。

 朝8時、高知県香南市の民宿かとりを出発しました。



●写真 7時53分  山




●写真 7時55分  山の上のお城


小さくて見えませんが、山の頂上に洋風のお城がありました。


 国道ではなくて、県道を西北に向かって、江南市役所の横を通り抜けます。今日はこれから、右手に見えている山の裏手にある28番札所の大日寺を打ちます。山の上になぜか西洋風のお城が建っています。これは大日寺と関係があるのか、おそらくないと思いますが、あと4キロばかりで大日寺になります。

 それから9キロ、西の南国市まで行き、南国市のホテルに泊まります。6時から旧友のM君と会う予定です。時間は十分、間にあいそうです。


●写真 8時37分  道


大日寺の表示が見えました。あと1キロです。


 8時頃出発した時には肌寒い感じがしましたが、9時10分、28番の大日寺に着きました。だいぶ暑くなってきて、汗をかきました。



●写真 9時6分  大日寺の山門




●写真 9時35分  大日寺の境内




●写真 9時39分  大日寺の祠




●写真 9時42分  大日寺の境内




●写真 9時42分  大日寺の鐘


お寺の鐘は打ち忘れることが多いのですが、ここではゴーンと鐘を打ちました。鐘を打つのは気持ちいいものです。ただし1回だけです。


●写真 9時47分  大日寺の山門遠景




 午前10時10分、28番の大日寺を打ち終わって山を降りてきました。

 途中で反対側から来るお遍路さんと会いました。「こんにちは」と声をかけました。50歳ぐらいの男性のお遍路さんです。もしかしたら逆打ちをされているのかも知れません。
 大日寺の山を降り20分ぐらい歩いて、村中を抜けて林の外に出てみると、そこは一面の平野です。ここは県道234号線で交通量はけっこうありますが、奥に山を望む景色が広がっています。かなり大きい平野です。
 西の方には、もっと近い山も見えますが、四方を山に囲まれたようなところになります。ここはきれいな平野です。室戸岬から何日かかけて、やっと人の臭いのする、畑と農村の臭いのする平野に出ました。これから南国市の国分寺に向かいます。あと9キロあります。



●写真 10時19分  物部川を渡る橋に続く道




●写真 10時22分  物部川




 午前10時40分、物部川を渡って、香美市の土佐山田町に入りました。途中には、集落総出の農作業で、たぶんショウガの収穫が行われていました。そのちょっと前には、道の横を流れる小川の水を汲み取って、畑にスプリンクラーをまく畑が5~6枚ありました。この香美市は山が近くに見えて、かえって海が遠いところです。私の地元の農村風景に似ています。こういう景色を見るとホッとします。いま通っている道は純農村の小さな道です。ちょうどコスモス畑がありました。



●写真 10時33分  香美市の農作業


村の人々が集まって作業しています。ショウガの収穫でしょうか。


●写真 10時40分  香美市の畑


気になった田んぼのなかの木。何かあるのでしょうか。


●写真 10時44分  香美市のひまわり




●写真 10時44分  香美市のひまわり




●写真 10時45分  香美市の花



●写真 10時46分  香美市の柿


道脇の柿も最近は見なくなりました。


●写真 10時46分  香美市の柿




●写真 10時47分  香美市のコスモス畑




●写真 10時48分  香美市のススキ




●写真 10時52分  香美市の農道


いい道です。


●写真 11時12分  香美市の太師堂


まん中、遠くに見えるのが太師堂です。この集落のはずれにありました。とても印象に残る景色でした。


●写真 11時14分  香美市の太師堂


香美市から南国市に入る境の村はずれに、新しくてよく手入れされた太師堂がありました。集落の人々の信仰が息づいているのが分かります。



●写真 11時21分  国分寺への標示




 11時半頃から昼食をとりました。それは農家の前にある自動販売機でジュースを買って、農家の横の小屋の日陰で、また靴を脱ぎます。そこで昼食を取りました。すぐ左手のほうに柿の木がありました。

 最初は暑くて、日差しを避けた日陰がよかったのですが、しばらく休んでいるうちに、だんだん寒くなってきて、道路に面した日向のほうに出ました。11月になると、じっと動かないでいると、体が冷えてきます。
 約40~50分ぐらいたって、12時20分、また歩き始めました。先程、10分ぐらい前に、大日寺でタクシーで乗り付けてきた女性組2人が、お遍路姿で、白衣に菅笠をかぶって、杖をついて、歩いて行きました。

 足の調子ですが、今日は8時から11時半まで、3時間半、途中休憩も入れながらですが、ゆっくり歩いてきましたが、午前中だけでも足がかなりへたれました。

 足の小指のマメはもちろんのこと、小指自体が熱を持っている感じです。それ以外にも、特に右足のかかとの側面にマメができて、かなり歩くのに抵抗があります。特に右手で杖をついているせいか、右足に負担がかかってよけいマメができます。最初これは逆だと思っていましたが、右手と同時に左足を踏み出しますから、右手で杖を持つと負担を軽減するのは左足で、右足の負担は軽減されません。



●写真 11時38分  南国市で休憩


西の景色


●写真 11時42分  南国市で休憩


北の景色。山はかなり遠くにあります。


●写真 11時59分  南国市で休憩


寒くなって日向に出てきました。


●写真 12時2分  南国市で休憩


西の景色。


●写真 12時25分  南国市のお地蔵さん

道を南に下って行きます。


●写真 12時25分  南国市のお地蔵さん


小説「土」(長塚節作 明治43年発表)の一節を思い出しました。
「お品(女の名)はその混雑した、しかも寂しい世間に交って、やるせのないような心持ちがして、とうとう罪悪を決行してしまった。お品の腹は四月(よつき)であった。その頃の腹が一番危険だといわれている如く、お品はそれが原因(もと)で斃(たお)れたのである。胎児は四月一杯、籠(こも)ったので両性が明らかに区別されていた。小さい股(また)の間には飯粒ほどの突起があった。お品はさすがに、惜しい、はかない心持ちがした。第一に事の発覚を畏れた。それで一旦は、よく世間の女のするように床の下に埋めたのを、お品はさらに田の端の牛胡頽子(うしぐみ)の側へ襤褸(ぼろ)へくるんで埋めたのである。」(新潮文庫 P47)



 昨日、一昨日と、40~50分、長ければ1時間、昼飯の休憩を取ってマッサージをしています。手のひらサイズの小さな電動マッサージが役に立ってますが、それで1時間マッサージをするとだいぶ足の調子は軽くなります。軽くはなりますが、午後は1時間も歩くとまたすぐに足がへたれてしまいます。午前中は歩き始めてだいたい2時間でへたれ、午後は最初の歩き始めはマッサージのおかげで軽快ですけれども、それは1時間も持ちません。午後はいつも疲労が早いです。国分寺を打つ予定でしたが、今日は足がへたれましたので、明日打つことにします。明日打ってもそれほど遠回りにはなりません。

 今日は今から約1時間半歩いて、あと5~6キロ先の宿に向かいます。国分寺とは逆方向です。ホテルは2時に入れるということなので、2時に着くように歩きます。



●写真 12時48分  国分寺の標示


国分寺は明日、打つことにしました。国分寺のある北には向かわず、ホテルのある南に下ります。


●写真 13時28分  チンチン電車


街中に入りました。


●写真 13時28分  チンチン電車


学生のころ住んでいた街にも、当時チンチン電車が走っていたことを思い出しました。


 午後2時に宿に着いてチェックインをしようとしたところ、フロントの女性がちょっと怪訝な顔をして少し待たされました。その前日に、「早く着くから2時ごろ入れますか」と電話で聞いたところ、「準備をしておきます」と男性の声で返事がありましたが、それがどうも行き違いがあったようで、フロントの女性は「聞いていませんので」ということで少々待たされました。

 お遍路の「十善戒」とは次のことでした。
   1.不殺生(ふせっしょう)…… 殺生をしてはいけない。
   2.不偸盗(ふちゅうとう)…… 盗みをしてはならない。
   3.不邪淫(ふじゃいん) …… 淫らなことをしてはならない。
   4.不妄語(ふもうご)  …… 嘘を言ってはならない。
   5.不綺語(ふきご)   …… 言葉に虚飾があってはならない。
   6.不悪口(ふあっく)  …… 悪口を言ってはならない。
   7.不両舌(ふりょうぜつ)…… 二枚舌を使ってはならない。
   8.不慳貪(ふけんどん) …… 強欲であってはならない。
   9.不瞋恚(ふしんに)  …… 怒ってはならない。
   10.不邪見(ふじゃけん) …… よこしまな考えを起こしてはならない。

 この時は次の二つでしょう。
   6.不悪口(ふあっく)  …… 悪口を言ってはならない。
   9.不瞋恚(ふしんに)  …… 怒ってはならない。

 前日に電話したとき、「準備しておきます」といった男性が悪いのか。
 「いやいや、今まで日差しの中を歩いていたことを考えると、建物の中で荷物を下ろすことができて、椅子に腰掛けながら日差しを避けることができる、それだけで十分じゃないか。早く風呂に入りたい、と思うのは少しだけ我慢すればいいことだ。風呂はあとでも入れる。たとえ受付の女性と喧嘩して無理に部屋に入り、そこでいくらか早く風呂に入ることができたとしても、それがどれほどの得になるのか。そんなことは少し我慢すればいいことだ」

 そんなことを考えながら10分ほど待っていると、「どうぞ、準備ができていました」とその女性から告げられました。何か拍子抜けしたみたいでした。ちょっと待たされただけで、不満が噴き出してくるのを見透かされたような気がしました。
 なにも「十善戒」など持ち出さなくても、「あっ、そう」と受け流していれば良かったのです。本当に悟りにはほど遠い気がしました。
 何事も予定どおりには行かない、約束どおりには行かない、やるべきことをちゃんとやれるとは限らない。それでも世の中回っている。それでいいではないか。
 「諦観」という言葉が浮かびました。でもそんな大それたことではないようです。
 毎日唱えている「般若心経」。「色即是空」のフレーズ。分かったようで分かりません。「空」と何なのでしょうか。

 たぶんそれは、なんでも「適当」にすること、そんなことしか思い浮かびません。ここでの「適当」は、本来の良い意味での「適当」であって、俗にいう「いい加減な」の意味の「適当」ではありません。学校の試験で「( )に適当な語句を入れよ」の「適当」です。しかし、本来は良い意味のはずの「適当」が、いつの間にか「いい加減な」の意味に使われていることが、「適当にすること」の難しさを表しているように思います。
 コーヒーに砂糖2杯入れるのが適当な人もいれば、3杯入れるのが適当な人もいます。適当さはその時々によって変わるのです。どこにも明確な基準がありません。ひとつだけ確かなことは、この「適当さ」は自分が決めるのではないということです。人と人との関係によって絶え間なく変わっていくものです。その変化と移ろいに合わせて自分を変えていくしかありません。自分を大切にしすぎると、そのことに疲れてしまいます。疲れないためにはどうしたらよいか。
 「適当」は「量」ではないような気がします。何か違った「質」があるようです。

 一匹狼を気取っているわけではないですが、一匹狼にしかなれないのは自分の性格上、仕方ないことです。バカは死ななきゃ治らないのといっしょです。でもそれは何の自慢にもなりません。

 室戸岬にたどり着く前日、民宿徳増のおばあさんが言っていたことを思い出します。
「昔はお遍路さんはみんな門付けしてましたがな」。
 それがお遍路ではないのか。私に門付けができるだろうか。昔は、門付けはお遍路にとって最後の最も厳しい修行だったようです。
 「オレはまだそこまでたどり着いていない。まだ何かを勘違いしている。目が磨りガラスのように曇っている」、それが分かります。
 肩で風を切って歩くのではなく、人様に頭を下げ、時にバカにされながらも、ひょうひょうと生きたい。そうは言っても、私にはこのことが一体どういうことなのか、まだ本当は分かっていないようです。

 


●写真 16時41分  ホテルから北

正面の山のような、変わった小山が平地の中に点在しています。


●写真 16時45分  ホテルの南周辺


奥の見える山も、変わった小山です。その向こうは太平洋です。


●写真 16時46分  ホテルの南周辺




 ここは南国市です。いつものように洗濯と風呂を済ませて、少々宿の周辺を散策したところで、M君から「職場からの帰りに宿に寄るから拾っていく」という電話がありました。20分ほどですぐ来てくれました。

 1日目に板東駅で電車を降りてから、乗り物に乗るのは初めてです。3週間ぶりの車です。車に乗ると、私が30分かけて歩いてきた道をほんの3分で通り過ぎます。奇しくも私と同じ車でした。高級車ではないですが、車がこれほど快適なのかと驚きました。

 彼のよく行く店に入りました。彼もだいぶ髪が薄くなりました。顔のしわも増えました。高校時代から見るとお互い老けた顔になりましたが、あれから40年以上経っているという実感はわきません。お互い昨日のことのようです。40年前の記憶が2~3年前の記憶よりも確かなのも不思議です。若いころの記憶は、時間にふるい落とされもせず、いつまでも鮮明に記憶に残るようです。

 お互い結婚して、子供もいます。
 私は故郷を離れず、妻も同郷です。彼は故郷を離れ、ここ高知で土地の女性と出会って結婚しました。
 彼はしきりに「嫁さんは同郷の女がいい」といいます。
「そんなことはない」と私。
お互い隣の畑はよく見えるようです。
  すると、
「どうだ、オレだって結婚できただろう」と彼が唐突に言いました。
「昔、オレに『オマエは子供とPTAには人気があるけど、女はダメだな』と言っただろう」と続けて言いました。
 言われてみると、確かに遠い昔、そんなことを言った覚えがあります。
「オレはずっとアレが気になっていたんだ」
「そんなことただの軽口じゃないか」と私が言うと、
「イヤ、当たっているだけにきつかった。オレは結婚したとき嬉しくて、どうだオレだって結婚できたぞ、と誰かに言いたかった。でもそんなことを誰に言っているんだろうと、ふと思うと、オマエなんだよ」と彼は言いました。

「奥さんはこっちの人だったよな」
「それがとんでもないんだ。一度道のまん中で大喧嘩したよ」
「そうやって喧嘩できるうちは大丈夫だよ」
「土佐は自由民権の発祥地というけど、あれは近代思想ではないな。土佐の土着思想だな」彼はそう言いました。
「どうして」
「ウチの女房は土佐の女の代表格だな、男を立てようなんて、これっちぽっちも思っていない。この土地はできた当初から、もともと男女平等なんだよ。土佐の女は強くて、男と対等に渡りあう。決して男を立てたりしない。板垣退助が自由民権運動を始めたのは、あれは西洋思想でも何でもなく、単なる土佐の気風なんだ」と彼は言いました。
 同時に「九州の女の方がいい。九州の女は男を立ててくれるから。自分でやるべきことはやっても、表に出るとしっかり男を立ててくれる。表面には男を出してくれる。土佐はそんなことはない。男と女は対等だ」と言います。
「いや、九州の女も強いよ。最近ますます強い。それにオレが定年迎えてますます強くなった。どこも同じだ」
私はそう言って苦笑いしましたが、それでも彼は「いや絶対に九州の女がいい」と言い張ります。
 九州にずっと住んでいると、九州の女のどこがいいのか、まったく分かりませんが、「故郷は遠くにありて・・・・・・」と思うと、彼の言っていることが分からないでもありません。きっとそれは彼にとっては、そうであって欲しいことなのだろうと思います。その思いは私とても同じですが、現実はなかなか厳しいものです。
 それに加え「板垣退助の自由民権運動は、西洋からのものではなく、土佐の土着の気風から発生した」という新説(珍説)にも、私は興味をそそられました。

 高校時代は女のことばかり話していました。

 彼は高校の時に好きだった女性を、高校を卒業しても忘れられずにいました。一度その女性から来た手紙を見せてもらったことがありました。携帯のない時代で、当然今のようなメールもありません。封筒に入った便せんを取り出して読みました。女性らしいしっとりとした文面でした。あのような手紙は今のメールでは書けません。
 私は内心うらやましい、と思いました。彼の恋心が消滅するのは、その後かなりの時間がかかったようです。いや、そういう思いは今でも残っているかも知れません。それは自分の血肉となって死ぬまで残るのでしょう。だから人間は死ねるような気がします。

 時間がワープして、あれから40年経ったことがウソのようです。お遍路の途中で、時間と場所を間違えたような不思議な時間でした。

 お金はあの世に持っていけないけど、あの頃の記憶は持って行けるかな、そんな思いが浮かんで来ます。でもお金はないので、そういう心配は無用です。

 「明日また歩かないといいけないから、そろそろ帰るよ」というと、帰りにチンチン電車の駅まで送ってくれました。飲み代を出してくれました。

 


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