【21日目】 曇りのち晴れ
【地域】高知市内観光
【宿】 スーパーホテル(連泊)
昨晩はまた眠れませんでした。夕方の6時から9時ぐらいまでちょっと寝ただけで、あとはベッドに寝ていても眠れませんでした。また夜中に妻に何度もメールを打ちました。私は妻と会うことに緊張しているようです。夜中にまた大浴場の温泉に入りに行きました。夜中も入れました。
8時頃、ホテルで朝食をとりました。朝食はついていました。今日はこのホテルに連泊します。荷物は部屋に置いて、そのままぶらりと街に出ました。市内を見て回りました。今日は高知市内をの観光するつもりです。まず南へ向かい、はりまや橋を通りました。小さな赤い橋が残っていました。小さな町中の川に架かる橋でした。今はその横は使われておらず、その横の広い橋を車が通っています。
●写真 9時29分 高知市のアーケード
●写真 9時32分 はりまや橋
●写真 9時32分 今のはりまや橋
そこをさらに南に下り、東西に流れる鏡川の畔を西に向かって歩きながら高知城に向かいます。鏡川の畔は、いい川辺でした。
●写真 9時44分 高知市の鏡川と橋
途中で後藤象二郎の住居跡、板垣退助の住居跡を見ました。石柱は立っていましたが、住居跡はまったく残っていません。石柱を見落としてしまうほどでした。
●写真 10時1分 後藤象二郎生誕地
●写真 10時4分 板垣退助生誕地
高知城よりも先に坂本龍馬の住居跡にも行ってみました。ちょっと離れたところにあります。でも大通りに面していたのですぐ分かりました。後藤象二郎や板垣退助とは住んでいる地域が違いました。下級武士の住む地域のようです。
2日前に会ったM君が言っていました。土佐の人間はとにかく坂本龍馬が大好きで、何かあるとすぐ坂本龍馬の名前を出す、またかと思うほど坂本龍馬を自慢する、と。
彼は普通は、幕府打倒を目指す「薩長連合」を結ばせた陰の立て役者だとされていますが、その一方で幕府の延命を目指す「大政奉還」の火付け役でもあるのです。彼の動きはなにか矛盾しているのです。
彼は長崎でイギリス商人トーマス・グラバーの下請けのような仕事をしています。「海援隊」です。でもこの海援隊がグラバーの仕事を受け継いだのではありません。坂本龍馬は何者かによって暗殺されます。グラバー商会を受け継ぐのは同じく長崎に行っていた安芸市出身の岩崎弥太郎なのです。つまり今の「三菱」です。
歴史的には圧倒的に岩崎弥太郎が重要な役割をにないます。坂本龍馬は、暗殺された幕末の獅子たちの一人に過ぎません。
彼が脱藩して全国を飛び回ったことは、漂泊に暮らす「お遍路」の姿と何か関係があるのでしょうか。とにかく彼にはよく分からないことが多いのです。
●写真 10時47分 坂本龍馬生誕地
●写真 10時48分 坂本龍馬生誕地
●写真 10時54分 龍馬ゆかりの道
●写真 10時56分 龍馬生誕地周辺
県庁が高知城の隣にありましたが、そこから南に下った道路に毎週木曜市が開かれていて、今日がたまたま木曜日だったのでそこに市が立って、かなり人で賑わっていました。
●写真 10時13分 正面に高知城の天守閣が見える
●写真 10時17分 木曜市
そのあと高知城に登りました。高知城に登ってみると、天守閣そのものはそんなに大きくないものの、木造作りの本物でした。小山の上にあるので標高がかなり高くて、そこに登るとはじめて高知市内を東西南北、見渡すことができました。そうすると高知市というのは、今まで平野だと思っていたのが、どうも平野ではなくて盆地のようになっていることが分かりました。南の海との間にも低い山が連なっています。西も山でふさがっています。北は中国山地が意外と近く、そうすると東の方の後免町の方向しか開けていません。お城の守りとしては、そのほうが好都合だったんだと思います。
●写真 11時9分 高知城のお堀
●写真 11時15分 高知城の大手門
●写真 11時17分 高知城の大手門
●写真 11時25分 板垣退助像
●写真 11時47分 高知城の天守閣から北
●写真 11時48分 高知城の天守閣から西
●写真 11時48分 高知城の天守閣から南
●写真 11時48分 高知城の天守閣から東
●写真 12時13分 高知城の天守閣
午後1時半、町中のアーケードを歩いていると、出店のある広場があって、そこで豚骨ラーメンを食べました。でもやっぱり豚骨ラーメンは九州でした。
●写真 13時2分 立志社跡
明治の自由民権運動の拠点として日本史に出てくる立志社跡がありました。今は公園の一角です。2日前、旧友のM君が「土佐の土着思想」と言っていた自由民権運動の発祥地です。
このあと、どうしようかと思いました。チンチン電車は東西に走っています。はりまや橋から東に向かうチンチン電車に乗って、竹林寺へ向かいました。今日、竹林寺に行っても、自分の中では正式に参拝したことにはなりません。今日はホテルをブラリと出て、あてもなく高知市内を観光しているだけです。明日また竹林寺を「打つ」ことになるのかな、と思いましたが、その時はその時だと思い、気分に誘われるまま、竹林寺へ向かいました。
●写真 13時8分 はりまや橋駅
チンチン電車では、どこで降りればいいのかわからなかったので、運転手さんに聞いたら「バスがいいですよ」といわれて困っていると、一番前に乗っていた70前後の女性が「知寄町三丁目がいい」と教えてくれました。御礼を言って、「お遍路で来たものですから、土地勘がないんですよ」というと、「私も何年か前に50日で通しの遍路をしました。高野山参り、お礼参りまでしましたよ」と言われました。
教えてもらった知寄町三丁目の駅で降りました。「本当は橋を渡った次の駅が近いけど、料金が高くなるのでここがいい」と言うことでしたので、言われるままにそこで降りました。親切な方でした。
すぐ東の大きな橋を渡ったところで、南の道に折れようとしたら、前に歩きのお遍路さんの姿が見えました。地図も持たずに気ままにホテルを出てきたため、たぶんその人は竹林寺に行くのだろうと思い、あとをついて行くことにしました。しかしちょっと目を離している隙に、どこに行ったのか、見失ってしまいました。
次の十字路を南に歩き始めてしばらく歩くと五台山トンネルがあって、そこを通ろうかとしましたが、スマホのグーグルマップで見てみると、このトンネルは竹林寺の山の下を通り過ぎるトンネルのようだったので、また大通りに戻って、結局タクシーで行きました。
タクシーの運転手さんに、五台山の展望台のところまで連れて行ってもらいました。そこは高知城の天守閣以上に見晴らしの効くところで、初めて高知の地形を目の当たりにすることができました。
やはりこの高知市は、海に面していると言うよりも盆地に近い感じがします。東の室戸岬から歩いてきたので、南国市では一気に平野が広がった気がしましたが、それは後免町あたりのことです。この高知市は北の中国山地は間近いし、南には造山運動の低い山が東西に連なっていて(このことは2日前に会ったM君が教えてくれました)、南北を塞いでいます。西の方は低い山が連なっていて、東の方だけが途切れ途切れに開けているいう感じです。
この高知平野は五台山の展望台から見ると、かなり河川が入り込んでいて、複雑な河川構造になってます。それは高知平野の南に低い1本の山脈が走っていて、それに遮られて太平洋に注ぐ川が南北に流れてはいないのです。そういう独特の地形があります。
一昨日歩いていて分かったことですが、南国市の岡豊町にむかし山城があって、もともとはそこが高知の中心であったわけです。岡豊町というのは後免町や国分寺に近いわけですが、その丘陵地帯に山城があり、昔はそこが高知の拠点だったわけです。
そこに長曾我部が入ってくると、長宗我部はその岡豊町からもっと西のこの高知市に目をつけ、そこにお城を築いたのです。それは、四方ではないけれども三方を山に囲まれ、または海で塞がれ、守りに適した場所だったからだと思います。
●写真 13時58分 五台山展望台から北
●写真 14時2分 五台山展望台から北西
●写真 14時3分 五台山展望台から西
●写真 14時3分 五台山展望台から南
●写真 14時3分 五台山展望台から南東
●写真 14時6分 五台山展望台から東
五台山展望台からは竹林寺の五重塔が近くに見えています。展望台のすぐ北に小さい遍路道があって、「竹林寺へ」という標示がありました。それを降りるとすぐ2~3分で竹林寺の境内に入りました。本当にすぐそこでした。
竹林寺は庭園が素晴らしいお寺で、紅葉がすでに始まっていて、紅葉真っ盛りの頃は、さぞきれいなお寺だろうと思いました。
「土佐の高知のはりまや橋で、坊さんかんざし買うを見た」というあの「よさこい節」のお坊さんも、どうも竹林寺のお坊さんのようです。土佐の人々は、そういうお坊さんの俗な姿を、親しみを込めてはやし立てたのではないでしょうか。そして安堵したのではないでしょうか。「聖」があれば「俗」がある。生身の人間にとってそれは仕方のないこと。それでいいのかも知れません。この竹林寺は、高知市のシンボル的なお寺です。
●写真 14時15分 竹林寺の本堂
●写真 14時15分 竹林寺の太師堂
●写真 14時24分 竹林寺の塔
●写真 14時24分 竹林寺の境内
●写真 14時25分 竹林寺の境内
●写真 14時30分 竹林寺の山門
私は展望台から下って竹林寺に入ってきましたが、本当はここが入り口の山門です。
竹林寺を観光客として参拝したあと、山門の方に下ってみるとそこに観光バスの停留所があって、そのバス停の横に牧野植物園の西門の入り口があり、竹林寺と牧野動物園は隣接しているということがわかりました。
バスは約1時間おきに運行されているようでした。竹林寺のあとはどうしようかな、と思っていたら、その観光バスが高知駅と桂浜を往復するバスだったので、桂浜に行くことにしました。
●写真 14時35分 植物園入り口
竹林寺横のバス停で待つこと約30分、そこにバスが来ると、運転手さんから回遊券のようなものを買って、桂浜に行きました。3時9分のバスに乗って竹林寺を離れ、そのバスで桂浜に着いたのが3時半頃です。
●写真 15時47分 浦戸大橋
桂浜は、浦戸大橋を渡ってすぐのところ、浦戸湾の入り口にありました。
●写真 15時49分 桂浜の入り江
この先は太平洋です。
バスを降りて、土産物屋を通り抜け、桂浜に向かいました。
桂浜は穏やかな海でした。室戸岬に向かう海岸とは違っていました。
阿波の鳴門から歩き、山を歩き、海を歩き、街を抜け、ミカンをもらい、柿をもらい、水をもらい、ポカリまでもらって、土佐の桂浜まで流れ着きました。
浜には、ちらほらと観光客がいます。有名な坂本龍馬像がありました。
●写真 15時36分 桂浜
●写真 15時38分 坂本龍馬像
●写真 15時38分 桂浜
桂浜の先端です。
●写真 15時41分 桂浜
●写真 15時42分 桂浜
浜に下りてみました。
●写真 15時42分 桂浜
この20日間、札所や名もない祠で、般若心経や御真言を何十回も唱えました。でもなかなか煩悩は消えてくれません。それどころかますます多くの煩悩が頭に浮かびます。
「発心」の徳島から歩き始め、今は「修行」の高知です。まだまだ先はあります。しかし、今はここで十分のような気がします。体力的にというよりも、気分的にお腹いっぱいなのです。「菩提」の愛媛、「涅槃」の香川は、私にはまだずっと先にあるようです。今は手に届きそうにありません。
今はお腹いっぱいですが、いつかまたお腹がすくかも知れません。それを消化するのに何年かかるでしょうか。その時また来ようと思います。還暦すぎた私には、そんなに多くの時間は残ってないようです。でもそれは老いも若きも、いっしょではないでしょうか。
今まで生き長らえたことに感謝します。
南無大師遍照金剛。
「土佐へ」 終わり
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