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2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

新「授業でいえない日本史」 38話 20C前半 田中義一内閣~世界大恐慌、世界の状況

2020-10-24 09:13:53 | 新日本史5 20C前半
【田中義一内閣】(1927.4~29.7)
若槻内閣の総辞職を受けて、次の総理大臣に任命されたのが田中義一です。1927年です。与党も変わる。今までは憲政会だったけれども、今度は政友会です。正式名称は立憲政友会ですが、今の自由民主党でも自民党というように、政友会で十分通るようになります。政党政治家のような顔をしているけど、実はこの人は陸軍出身です。しかも長州出身です。


〇 長州の陸軍といわれた陸軍内部では、山県有朋とその子分格である桂太郎の2人のドンがいましたが、1913年に桂太郎が死亡し、そして1922年には最大のドンとして力をもっていた元老の山県有朋が死亡します。とくに山県有朋死去の影響は大きかった。日英同盟を推進してきたのはこの山県と桂なのですから。その長州閥を受け継ぐ陸軍のドンがこの田中義一です。ただこの田中義一は、日英同盟に疑問を持っていたようなところがあります。

〇 この2年前の1925年、田中義一は陸軍のドンから、立憲政友会の総裁へと転身します。軍人を辞職し、政党政治家となります。これは大きな決断です。立憲政友会の総裁へと転身した伊藤博文以来の離れ業と言ってもいい。その理由は、のちの人からはいろいろ言われますが、本人の考えは分かりません。
この人の政治家としてのデビューは1918年の立憲政友会の原敬内閣成立の時に、陸軍大臣として入閣したのが最初です。そのころから田中義一と立憲政友会の結びつきはあります。

〇 陸軍は、桂太郎首相の時代から日英同盟で動いていました。つまりイギリスとの協調路線です。しかしこのあと見るように田中義一は、外交的には協調路線を取りません。少なくともイギリスとの協調路線はとりません。この点で彼は、戦争に大きく踏み込んだ政治家と見なされて、評価はあまりよくありません。
しかしそれは、長州の先輩である伊藤博文が日露協商論を展開して、日英同盟に反対したことと似ています。戦争はしないほうがいいに決まっていますが、国を守るときには必ず対立する国が出てきます。どういう考えで、どこと対立したかを見ていくことは大事です。

〇 一方で、山県有朋と桂太郎の2人のドンを失った陸軍の長州閥は、これ以降、勢力の低下が目立ちはじめます。意外と勘違いされることですが、彼ら2人はイギリスと対立した政治家ではありません。逆に日英同盟を推進し、イギリス側に立った政治家です。それに反対したのは伊藤博文です。

それと同じように、この時にイギリス側に立ったのは、イギリス・アメリカに対して協調外交をとった幣原喜重郎です。それに反対したのが田中義一です。

〇 それ以降、陸軍内では、長州閥に属さない中堅将校たちの独自の動きが見られるようになり、それを統制する力が陸軍上層部から失われていきます。長州閥と対立するグループも出てきます。この対立は次の1930年代になると陸軍を二分する統制派皇道派の対立となって現れます。



【金融恐慌の処理】 この田中義一がまず取り組まなければならない課題は、金融恐慌下の日本の混乱をどう切り抜けるかということです。
大蔵大臣に任命したのが、実はこの人よりも格上で、内閣総理大臣経験者の高橋是清です。


〇 経済が大混乱の中で、例えばクレジットカードでも引き落としの日に、口座にお金がなかったらブラックリストに載っていく。それは企業でいうと倒産です。手形が期日どおり決済できないと倒産します。
それを防ぐためには、全国の銀行に、今はこういう緊急事態だから請求するな、引き落とし先延ばしなさい、と命令する。これが支払い猶予令です。猶予というのは先延ばしのことです。これを英語でモラトリアムという。支払いを一時停止するということです。それで3週間、銀行を閉鎖する。

〇 その間に、日本銀行から、倒産しそうな銀行に特別にお金を貸してやる。これは前回やった、台湾銀行を救済しようとしたのと同じ手法です。台湾銀行もまだ活動休止してるわけですから、これにも同じ手法を使う。
天皇の名で同じ台湾銀行救済勅令案を可決します。今度は天皇はオーケーするんです。日本銀行の特別融資を行う。日銀特融というんですけれども。銀行は、お金を紙に刷ればいい。インクと紙があれば、緊急の場合にはお金を刷れるわけですから、こういった離れ技ができるんです。

〇 理屈が合わないのは、前回の勅令案はダメといいながら、同じ法令なのに、2回目はなぜいいのか。それは政権のスタンスです。協調外交を取っていた幣原喜重郎が、内閣が変わることによって外務大臣からはずれたからです。この政権だったらダメだけれども、この政権だったらいいと。それは外交方針が変わったからです。
こうやって前の若槻礼次郎内閣の政権与党は人気を失ったから、これを防ぐために、政友本党との合流を契機に、憲政会はまた名前を変えます。1927年に立憲民政党となります。これは政党系図で確認してください。



【財閥支配の強化】 ではこの1920年代の金融恐慌の結果、日本の経済はどう変わったかというと、景気が悪い時には、人間と同じで、食うや食わずの時には、子供とか老人とか体力弱い人間から死んでいく。体力が弱い企業、つまり中小銀行から倒産していく。そうすると、弱そうなところは潰れるよりも合併されたほうがいいということで、吸収合併を選ぶんです。身売りします。あんたうちの会社を買ってくれませんか。それで従業員が路頭に迷わずに済むからということで、強いところ三井・三菱・住友とか、そういう銀行の資金力をもとに合併されていきます。


〇 こういう大銀行に吸収されていくから、結果的にこの五大銀行・・・・・・三井銀行、三菱銀行、住友銀行、あと安田銀行、第一銀行があります・・・・・・この五大銀行が独占体制を強化していく。財閥というのは、景気が良い時に儲かるみたいなイメージがあるけれども、逆なんです。景気が悪いときに太っていきます。そうなると、この財閥がますます政界で影響を強めていきます。三井と三菱が二大財閥です。

〇 政党も、政友会と民政党の二つある。三井政友会にお金を出す。三菱はさっき名前を変えた民政党にお金を出す。そういう政治と経済が結びついていく。これは民主主義とは別の動きです。こうなると政党は、民衆ではなく、大企業の方を向いて政治を行っていく傾向を強めます。



【共産党員検挙事件】 この時代は、軍部の力が強まるに従って、いろいろな異分子、政府と同じ考えじゃない人が検挙されていく。とくに社会主義思想を持つ共産主義者は検挙されていく。
そういう考えを持った大学の先生も、大学をクビになったりしていきます。
この共産党というのは、それよりもちょっと前に、地下組織として、大正の終わりに結成されている。1922年、大正11年に、日本共産党ができている。
ソ連の日本支部として。何という組織ですか。共産主義は、もともと世界革命論という、質の悪い漫画みたいな、これを大真面目でやっている。日本共産党は、コミンテルンの日本支部として非合法に結成されていた。これを日本も知っている。


〇 しかし3年前の1925年には、普通選挙法を施行したばかりだった。選挙人口が増えたんです。貧しい人たちも選挙できるようになって、その初めての普通選挙が1928年です。
共産党でなくても、資本主義に反対する政党、これを無産政党といいますが、これが日本の史上はじめて国会議員を当選させます。しかも8名も。これに政府は驚いて、ますます、共産主義は危険だとして共産党員を検挙していく。これは、リンゴを盗もうと思っただけでは、今の法律では罪に問われないけれども、この法律は盗もうと思っただけで罪に問われる。こういう法律も成立している。それが普通選挙法と同じ年の1925年に成立した治安維持法です。

〇 似たことは今もあります。治安維持というのは大義名分で、2~3年前も似たような集団的自衛権を楯にして法律できた。こういう法律はどうにでも化けます。1928年には、この治安維持法に死刑が追加された。
この治安維持法による取り締まりのために、ふつうの警察と違って、特別な思想犯を捕まえる警察が、1928.7月に置かれます。考えただけで犯罪になるわけですから。これを特別高等警察という。略して特高です。



【強硬外交への転換】 外交面では協調外交から強硬外交に変わります。外務大臣は、首相田中義一が兼任します。
なぜこういうふうに外交方針を変えたかというと、さっきも言った幣原喜重郎の協調外交がうまくいってなかったから。幣原喜重郎は戦後すぐ内閣総理大臣になるけれども、実は戦前は外務大臣としてうまくいってない。


〇 田中義一内閣が成立した1927年、海の向こうのインドネシアでは・・・・・・ここはオランダの植民地ですが・・・・・・オランダからの独立運動をしはじめる。インドネシア国民党のスカルノです。戦後独立を達成して日本に来たとき、そこで見初めたのが、3番目の嫁さんのデビ婦人ですね。そのスカルノが活動を始めています。
フランスの植民地であったベトナムでも、同じ年にベトナム国民党の独立運動が始まっています。
その3年後の1930年には、インドでガンディーが塩の行進をはじめ、イギリスに対する抵抗運動を再開します。

〇 アジア諸国ではこのようなヨーロッパ列強に対する抵抗運動が高まる中で、中国は逆にイギリスやアメリカに接近していきます。

(20世紀初めのアジア植民地)


(参照 アジアの独立運動)
https://blog.goo.ne.jp/akiko_019/e/70495ca6d4b6dc08f7af64a7a86a6ebe


〇 これと前後して、中国ではどうかというと、反日気分が強まっていきます。
ここでこれまでの中国のことをザッと振り返ると、1840年のアヘン戦争でイギリスがまず中国に乗り込み、上海・香港などの主に中国南部を支配します。
1894年に日清戦争で日本が勝利すると、フランス、ドイツ、ロシアなどの列強も続々と乗り込んでいきます。
これに対して1900年には義和団事件が起こり「扶清滅洋」を唱えて、ヨーロッパ列強への反発が強まります。そのとき南アフリカ戦争で忙しかったイギリスは、首相のソールズベリが日本に義和団事件の鎮圧を要請し、日本がその鎮圧に中心的な役割を果たすことになります。
その後、日本では日英同盟を結ぶべきかどうかで揺れますが、日英同盟に反対したのが伊藤博文でした。しかし山県系の桂太郎首相は日英同盟を結び、1904年の日露戦争に勝利します。そして満州に影響力を強めます。
1911年に辛亥革命が起こり、清朝は崩壊します。
第一次世界大戦中の1915年には、清朝を倒した中華民国に対し、対華二十一ヵ条の要求を行います。これにより、それまでヨーロッパ列強に向けられていた反発感情が日本に向かいはじめます。

〇 このあと現在に至るまで日本と中国が親しい関係になることはありません。なぜこんなことになったのか。
前にも少し言いましたが、伊藤博文が若い時からとってきた親英路線は、このような中国と日本の対立を生むことになります。晩年になって伊藤博文は日英同盟に反対しますが、その時にはすでに中国の主導権はイギリスに握られていて、日本と中国の亀裂はますます大きなものになっていきます。
大きな目で見ると、ヨーロッパにとって日本と中国が対立しアジアが分断されることは、ローマ帝国以来の「分割して統治せよ」のセオリーどおりだと言えます。
それまで日本側に立ってきたイギリスは、すでに1921年のワシントン会議で日英同盟を廃棄し、日本を敵視するアメリカ側についています。このことは日本にとって明治維新以来のとても大きな外交上の変化です。
イギリス・アメリカと対立しながら、このことにどう対処すべきか。そのことが日本の最も大きな課題になっていきます。

〇 中国では大きく分けて、北の北京政府と孫文を中心とする南方政府に分かれています。
そこに1921年に中国共産党がつくられます。1924年に、孫文の国民党とこの共産党が、一時的に手を組んで戦うべき相手を絞ろうとします。イギリスを中心とする外国勢を追い払うのではなく、国内に割拠している北方軍閥を一掃しようとします。これを第1次国共合作といいます。国共というのは国民党のと共産党のです。合作は合同作戦です。共産党の後ろには当然ソ連がいます。国民党の後ろにはイギリスと関係の深い浙江財閥がいます。
中国は戦国時代のような軍閥割拠状態です。まず中国を統一しよう、そのためには国民党と共産党が手を組んで他の軍閥をやっつけていこう、という。孫文は翌年の1925年に死にますが、その後は蒋介石が孫文の後継者になり、国共合作は続けられます。

〇 蒋介石は、もともと軍人として日本陸軍で教育を受けている人ですが、このあと金持ちの嫁さんと結婚します。孫文の嫁さんも中国ナンバーワンの浙江財閥の次女の宋慶齢(そうけいれい)です。浙江財閥とは浙江省(上海の隣の省)の財閥という意味で、イギリスが支配する上海を拠点としてその支配に協力している財閥です。日清戦争後、上海を中心とする長江流域の中国南部はイギリスの支配地域です。その浙江財閥の宋財閥には三姉妹がいて、三女の宋美麗(そうびれい)と結婚したのが蒋介石です。つまり孫文と蒋介石は嫁さんでつながっています。ちなみに長女の宋靄齢(そうあいれい)は大銀行家の孔財閥に嫁いでいます。
孫文の動きで分からないのは政治資金の出所です。一介の医者が、なぜこれほどの政治活動や軍事行動ができるのか。政治にはお金が必要です。しかしその資金がどこから来るのか、寡聞にして私は知りません。

〇 北の北京政府内では、A派とB派に分かれていましたが、A派内で段祺瑞が失脚した後は、1920年に張作霖が北京の実権を握ります。日本は段祺瑞を支援したあと、この張作霖を支援します。
1922 年にはA派の張作霖とB派の戦争が起こりB派が優勢になります。このときB派にはイギリスとアメリカが資金面で援助しています。1924年にはA派とB派で再度戦争が起こり、A派の張作霖がまきかえします。このときB派は南の孫文と手を組むようになります。1925.5月には上海で五三〇事件が起こり反英運動が盛り上がりますが、1925.11月にはA派の張作霖の部下が反乱を起こしB派と組もうとして鎮圧されたことから、張作霖を支援した日本に対して反日運動が起こります。

このように中国の軍閥割拠状態はとても複雑な経過をたどりますが、この経過の中で、はじめイギリスへの反対運動に傾いていた中国の動きが、逆に日本への反対運動へと転換していくことがポイントです。

〇 それが、蒋介石(孫文の後継者)を中心とした、「北京政府打倒の動き」へと発展していくわけです。
1926.7月、蒋介石を中心とする国共合作軍が北伐を開始します。北伐というのは、国共合作軍を南方勢力だとした場合、北京を中心とした北部には地方軍閥がゴロゴロしているから、そういう北方軍閥征伐をおこなうという意味です。短かすぎる短縮形で分かりにくいけど、方軍閥征のことを北伐といいます。

〇 このあと起こる太平洋戦争はアメリカとの戦いだと思っている人が多いですが、そこに至る過程の大半は中国で起こります。表に出てくる動きのほとんどは中国です。日本はこの中国と戦っていくのです。アメリカはあとでひょっこりと唐突に出てきます。いったい何が起こっているのか、非常に分かりにくい戦いです。



【山東出兵】 しかしその北方軍閥の中心で、北京を支配している張作霖を応援しているのが日本です。北伐が始まると日本は困る。蒋介石(第一次国共合作)を支援するイギリスに主導権を奪われて、中国に乗り出せなくなる。

〇 それに、イギリスは日英同盟を組んでいた日本の仲間かと思っていたら、第一次大戦後は1921年に日英同盟は廃棄され、日本を捨てて、逆にアメリカにすり寄っていった。つまりイギリスは、アメリカと組んで日本と敵対する方向に手のひらを返した。
そのアメリカはどうしているか。アメリカは、日本人に対して警戒を強め、1924年には、日本人はアメリカに来るなという排日移民法を出しています。アメリカはもともと移民の国で、誰が移民に来てもいいよ、という国ですが、その中で日本人の移民だけはダメだという。こうやって日本人を排斥していく。
しかも日本は北京を拠点にした北方軍閥を応援しています。だからこの第一次国共合作による北伐(北方軍閥征伐)は日本とイギリスが対立したことを示しています。

〇 そこで日本は、1927年に中国の山東半島に日本軍を出兵します。これを山東出兵といいます。

当時の日本の経済を引っ張っている業界は、紡績会社です。この近くにも県内最大の紡績会社がありました。今は公園になってますけど。私のお袋はこのころ生まれてますが、女学校の頃、その工場に軍事動員にいっていたといってました。そういうのが各地にあるわけです。日本景気が悪いから、企業は活路を求めて中国に工場進出していく。海外で生産しようとします。これも戦後1980年代から日本企業がやってるのと一緒です。トヨタ自動車などは、半分以上は海外で生産している。

〇 こういう中国に進出した日本の紡績会社を在華紡という。在華紡績会社のことです。縮めて在華紡という。華というのは中国です。

この当時、日本人が中国に工場を作って、そこに乗り出しています。この山東出兵は、日本政府として中国にいる日本人・・・・・・こういうのを居留民といいます・・・・・・これを北伐という中国の内乱から保護する必要があるという理由からです。これは表面上の理由です。
しかし本当は、中国の北伐への危機感からです。そして日本は、このとき首都北京に陣取ってる軍閥の張作霖(ちょうさくりん)を支援しています。本拠は満州です。この満州軍閥を日本は支持してる。


〇 この山東出兵に、日本はだいぶ力を入れて、第一次、第二次、第三次と3回出兵しますが、結局うまくいかなかった。途中1928.5月に済南事件(さいなんじけん)という衝突がありますが、北伐軍は山東地方をすり抜けるようにして北京へ向かいます。そして1928年に北京を制圧し、北伐が成功した。つまり日本が支援してる北京の張作霖は負けて、本拠地の満州に逃れようとします。



【張作霖爆殺事件】 国共合作軍に負けた張作霖は日本と意見が対立して、オレは足を洗う、満州に帰ると言って、列車に乗って帰っていたところで、その列車が何者かによって爆破されます。これが1928.6月です。これを張作霖爆殺事件という。
翌日の日本の新聞は、これをどう報道したか。満州某重大事件と発表した。事件がおこった。重大事件だぞ、とだけ。中身は何も知らせない。とにかく何か起こった。こういう言い方をして、この列車爆破を日本は、中国側の仕業だと発表したんだけれども、実はこれは日本の関東軍が独自に起こした事件だったということになっています。関東軍というのは満州にいる日本軍です。


 張作霖爆殺事件というものが起こり、関東軍の河本大作大佐が首謀者であるかのように伝えられました。現在では資料が出てきており、ソ連の情報部が仕掛けたことが明らかになっています。・・・・・・しかし、日本が張作霖を爆殺したという誤った情報が世界に流されることになってしまったのです。日本が支那で残虐なことをしているというねつ造された情報が1920年代からアメリカのメディアによって流され続けていましたので、日本が張作霖を爆殺したという情報を信じる人たちが欧米諸国に大勢いました。日本は情報戦で負けていました。(「世界を操るグローバリズムの洗脳を解く」 元駐ウクライナ大使 馬渕睦夫 悟空出版 P123)


〇 これにピンときたのが、殺された張作霖の息子の張学良です。あっこれは日本だ、と。それでそれまで親父の敵であった蒋介石と、急きょ手を組む。日本にとっては全く逆の結果を生むことになった。
日本は金融恐慌で混乱しています。日本だけでは景気がたち行かなくなるほど、会社はボトボトと倒産していって、大企業の五大銀行だけが大きくなって、政治家はその財閥と結びついている。
それに対抗する意味でも関東軍は、日本は満州国は日本の生命線だとして、満州支配計画を立てるけれども、この作戦はうまくいかない。

〇 そいうなかで、めったに腹を立てない昭和天皇が、張作霖爆殺事件について田中を叱責した。田中義一は事件の責任を取って1929.7月に総辞職します。

彼はその2ヶ月後の1929.9月に狭心症で死亡します。元気に首相を務めていた人が、辞任後たった2ヶ月で死亡するというのも不思議です。
日英同盟に反対した伊藤博文も朝鮮に飛ばされ、ハルピンで暗殺されました。これも謎の多い事件です。
田中義一が死亡して、次の政友会総裁は犬養毅に変わります。ちなみに、この人も暗殺されます。

〇 そして次の政権は立憲民政党浜口雄幸(おさち)に変わります。それとともに外務大臣に協調外交の幣原喜重郎が復活します。田中義一がめざした強硬外交は途絶えます。
田中義一が死亡した翌月の1929.10月、またとんでもないことがアメリカで起こります。世界大恐慌の始まりです。1929年です。ほぼ1920年代は終わりました。ここから本格的に1930年代の第二次世界大戦への道が始まります。




【アメリカの動き】
さきに世界大恐慌後の世界の動きを見ていきます。去年やった世界史、ここらへんは、世界の動きとリンクします。
1929.10月、アメリカのニューヨークのウォール街、そこは世界最大の証券取引所です。そこで株の大暴落がおこります。株が一気に十分の一に暴落する。100万円がたった10万円になる。これが全世界を巻き込む世界大恐慌に発展します。
今から約10年前の2009年にもリーマン・ショックが起こりましたけど、それもアメリカがリーマン・ショックをおこして、一番被害を受けたのはヨーロッパだった。訳が分からない流れになっていっている。そのあと一番景気がよくなったのは実はアメリカなんです。ヨーロッパは、さらにイギリスがEUを脱退し、景気が悪くなって、ますますひどい状況になっている。金融というのはこんなことができる。自分が失敗して、相手に損害をあたえることができる。金融というのは恐い世界です。1929年の世界恐慌もそれと同じです。

〇 まずアメリカは、敗戦国ドイツがお金がないから、お金を貸していた。しかしそのアメリカがお金が足りなくなると、まずドイツに早く返せという。ドイツはたまったもんじゃないです。ドイツからアメリカ資金が急速に逃げていき、まずドイツがここで破綻する。失業率が世界一高くなり、働けないお父さんでいっぱいになるのは、アメリカじゃなくてドイツです。
アメリカのこのときの大統領はフーバーという人です。この人が銀行に・・・・・・日本でも田中義一がやったように・・・・・・ドイツの支払いを一時猶予しなさい、という。先延ばししてくれと。そうじゃないと、ドイツがつぶれるぞと、支払いを1年間停止した。しかし景気はどんどん落ちていった。

〇 それで、3年後の1932年の大統領選挙に負けるんです。1932年の大統領選挙では。勝ったのが・・・・・・フーバーは共和党ですけど・・・・・・反対政党の民主党から出たフランクリン・ルーズベルトが勝った。フランクリン・ルーズベルトが大統領に当選する。これが1932年です。
ルーズベルトは、オレはフーバーのような能なしじゃない、新しい政策をやるんだ、と言って、資本主義の国アメリカで、ニューディールという社会主義に近い政策をとる。ディールは政策です。ニューは新しいです。たんに新政策という意味です。だから中身は具体的には表してない。
ポイントは、政治と経済は別というのが今までの資本主義の考え方だったけれども、政治が経済に介入するんだ、という。これは社会主義です。ダムをつくったり、農家に補助金を与えたり、テネシー川を整備したり、そういう社会主義経済に近い政策をとっていくわけです。例えばテネシー川流域開発事業。これが代表的です。TVAという。働き口のないお父さんはここで職にありつけて、給料を払えば生活できるじゃないかという。

〇 教科書には、これが効いたと書いてあるけど、経済統計をみると政府の支出ばかりが増えて全く経済は回復していないです。
アメリカが本当に経済回復するのは、このあと第二次世界大戦に参戦してからです。参戦するとB29戦闘機をつくらないといけない、戦車をつくらないといけない、鉄砲をつくらないといけない。それで軍事産業が儲ける。けっきょく軍事産業中心に経済が回復していく。

 ルーズベルトが大統領に就任した1週間後の1933年3月11日に、彼は、経済を安定させるという大義名分のもと、銀行の金貨両替業務を停止させる行政命令を発令した。続く4月5日には、アメリカ国民に所有する金を拠出させ、1オンス20.67ドルで政府が買い取った。勝手に金を所有した場合は、10年の禁固刑と25万ドルの罰金を科した。この法令は1974年まで存続した。さらに1934年1月に「金準備法」を可決し、金1オンスを35ドルと定めたが、国民には金を購入する権利はなかった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P182)

 1929年の大恐慌の最終目的は(1933年の)金本位制の廃除であった。そしてインフレ政策を駆使し、第2次大戦にいたる金融の道を敷設した。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P180)

 1933年アメリカの金本位制が廃止されたことで、戦争への障害物が取り除かれた。残るは戦争を始める「口実」だけだった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P193)

 初めに、アメリカ国内において金貨の流通と兌換が廃止された。次は、世界市場で金の通貨としての機能を廃除した。そして1944年ブレトンウッズ体制によるドル本位制度が確立され、金本位制度に取って代わった。
 そして、リチャード・ニクソン大統領が1971年に(ドル=ショックで)第3段階を完成させた。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P184)

 1929年の大恐慌後、不況対策としてとられたルーズベルト大統領のニューディール政策は、ケインズの進言に基づくものでありました。アメリカ政府の支出はうなぎのぼりに増加したにもかかわらず、雇用は思ったほど回復しませんでした。結局、雇用を含む経済の回復は第2次世界大戦まで待たなければならなかったのです。(世界を操る支配者の正体 馬渕睦夫 講談社 2014.10月 P180)

 1938年には、アメリカは莫大な政府債務の累積を憂慮する財政均衡主義者の声に押されて、財政支出を削減した結果、景気が再び悪化し、2番底へと向かい始めました。・・・・・・この景気後退の中、アメリカに残されたのは積み上がった巨額の財政赤字だけであり、この景気後退を救ったのは第2次世界大戦の戦時需要でした。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P351)



【イギリスの動き】
だから世界恐慌はずっと続いて、不景気はイギリスにも及ぶ。
このイギリスは、このあいだまで世界の中心国だった。世界の金融制度は金本位制です。金本位制では、本物のお金は金だったんです。紙幣を発行したら、そのぶん中央銀行であるイングランド銀行の金庫には、金の貯蔵がないといけない。しかしこれでは紙幣を発行できなくなって、これををやめる。つまり金本位制を停止する。これが1931年です。それだけ景気が悪くなって、大量のお金を印刷しなければならなくなっていたということです。

〇 そしてイギリスの製品を売るために、保護貿易政策をとる。関税を高くする。イギリスは世界最大の植民地を持っているから、それができる。そういう植民地を持っているところはいいです。例えばインドに・・・・・・インドはイギリスの植民地です・・・・・・イギリスは、無関税で輸出する。しかし日本がインドに売ろうとしたときには、今まで5%の関税を、30%に引き上げる。日本の100円の製品をここで130円になる。これで日本製品は売れなくなる。外国製品締め出しです。これは植民地持っているからできることです。日本はそういう植民地がないです。ドイツもないです。あんたは植民地があるからいい、それならオレも植民地を持っていいよね、となる。
そしてまた市場をめぐって戦争になっていく。こうやって日本は行き場を失って、満州に行かざるをえなくなるんです。

〇 そのイギリスが金本位制を停止したのが1931年です。1933年にアメリカも金本位制を停止する。やっぱりアメリカは景気が良くなってない。景気がよかったら金本位制を停止する必要ないんです。ルーズベルトは成功してない。
1932年には・・・・・・イギリスはいっぱいカナダとかニュージーランドとかアフリカとかに植民地を持っている・・・・・・そういったところの代表を集めて、イギリス連邦経済会議を開いて、イギリス製品は関税ゼロ、しかし他の日本製品とかドイツ製品には高い関税をかけていくことで合意する。大植民地帝国イギリスならではのことです。
こういう経済圏、イギリス中心とした経済圏ができる。これをブロック経済圏といいます。つまりブロックするんです。ブロックというのは、バレーボールのブロックと同じで、敵の製品を通さないことです。こっち側に入れない。輸入させない。自国の製品は無関税、しかし外国商品には高関税をつける。

〇 イギリスがこれをやると、それならオレもやる、といって、植民地を持っているフランスもこれをやる。アメリカは植民地はもたないけれども、その代わり国内で石油は出るし、広大な国土もあるから市場としては問題ないです。困るのは、持たない国です。




【ドイツの動き】
その頃ドイツではというと、そういう失業者が世界最高に高まる中で、合法的に選挙で選んだ政治家がヒトラーです。1920年代にもいたんですが、1920年代は、それほど目立たなかった。しかし、世界恐慌後に一気に人気が高まる。
彼が率いる政党がナチスです。国民社会主義ドイツ労働者党という。社会主義という文字がありますが、これは社会主義ではないです。どっちかというと、社会主義国と対立していく側なんです。

〇 前にいったように、1923年ドイツには、キチガイのような大インフレーションが起こっていた。1兆倍という。
ちょうどその年に、早くもヒトラーは、こういう政治じゃどうにもならないとして、一揆を起こしたりしている。暴力革命です。これはすぐ失敗して、捕まえられるんですけれども。
この間に投獄されますが、獄中のけっこう恵まれた環境で彼が書いたのが「我が闘争」です。部下に口述筆記させたんです。これには政治家が国民を操るために、まず仕掛けないといけないことは、マスコミ操作なんだということを、つぶさに書いてる。20世紀の隠れたベストセラーと言ってもいいでしょう。実際、今もそれに似たようなことは、いろいろな国で起こっています。

〇 その間しばらくは注目されなかったんだけれども、世界大恐慌が起こると、このナチスが、あれよあれよという間に、1932年の選挙では第1党に躍進するんです。
これは国民だけではなくて、お金持ちたちも、今までの政治ではダメだなと思う。大資本家、それから軍部も、一気にこのヒトラーを支持していく。つまりヒトラーは合法的に政権を取っていくということです。

 1924年以降、アメリカのチャールズ・ドーズは、ドイツ経済再建のため政府委員を組織し、ドル資本のドイツへの大規模注入を行います。ドーズが主導したドル資本注入はドイツ経済をアメリカ資本の傘下に置くねらいもあり、実際にドイツ経済が回復していくと、資金を拠出した証券会社などのアメリカ資本は巨額の利益を得ました。
  しかし1929年に世界恐慌が発生すると、ドイツに投じられていたドル資金が急激に引き上げられ、ドイツ経済は真っ先に壊滅的な打撃をこうむりました。アメリカ資本によって支えられていたドイツ経済は、アメリカ資本の撤退により崩壊させられてしまいました。
  ヴァイマル共和国は破綻し、暴動が頻繁に起こり、大混乱に陥りました。このドイツの混乱を救ったのがアドルフ・ヒトラーです。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P332)



〇 1933年にヒトラーは首相になり、ヒトラー内閣が誕生していく。ここからヒトラーが押しも押されもせぬ正式なドイツの指導者になっていく。
この時に第2党としてナチスと票を競り合っていたのが、実は共産党なんです。これは半分、まだはっきり原因がわからないけれど、国会議事堂放火事件が起こって、これによって共産党が弾圧されていく。容疑をかけられていく。真相はまだ闇の中ですけど。
その年には、首相になってすぐにヒトラーが、国会にはかって成立させた法がある。これが全権委任法です。国会の審議を経ずに、国家政策はすべて、ナチスとそのリーダーである自分に任せなさい、という。これで国会は、実質的に機能停止です。形だけです。なにせ全権委任しているんだから。国会で審議する必要がない。

〇 彼がやったことは、とにかくアメリカ発の世界恐慌で一番被害をこうむって失業率が世界一高い国、これがドイツなんです。
その失業対策に公共事業をやっていく。国が仕事を作る。仕事のないお父さんたちを雇って給料を払えば、国民も生活できる。代表的なものが、国内にアウトバーン・・・・・・日本でいう高速道路です・・・・・・それをどんどん作っていく。
そして・・・・・・今の高校生は車にはあまり興味ないみたいですけど・・・・・・ドイツといえば、70年間、国民車として、これ何ですか。ワーゲンです。フォルクスワーゲンです。俗にカブトムシと言ってた。これカブトムシに似ているから。ほとんど原型は今でも変わりませんよね。そういうのを国民車として、ドンドン売り出す。そうすると失業者が減少して、国民の人気が上がって、実際に経済状態も良くなった。実際に経済を上げていくんです。

 1933年ヒトラーが政権を執った後に直ちに取り組んだのは「銀行法」の改定であった。このなかで、帝国銀行取締役会の独自性を取り消す、帝国銀行頭取と取締役会メンバーは国家元首によって指名される、帝国銀行に市場政策を公開する権限を付与する、政府が雇用創出に資金を供給する際には帝国銀行は「雇用創出手形」の割引ができる、と定めた。「雇用創出手形」は、フェーダーの提案であったため、「フェーダー貨幣」とも呼ばれた。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P296)

 1933年5月31日、ヒトラー政権が、中央銀行で割り引き可能な「雇用創出手形」(フェーダー貨幣)を発行する。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P301)
  一部の経済学者は、第二次世界大戦が勃発した根本的原因の1つは、ドイツ政府が貨幣発行権を握り、英米の支配から脱却したことにあると考えている。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P302)

 ヒトラーはハイパー・インフレーションによって疲弊した経済を立て直すため、国際銀行家が発給する通貨を使用しないバーター貿易を行いました。互いの国家に必要な物資を交換することで、双方が債務を負うことなく貿易をすることができたのです。このように、ヒトラーは国際銀行家から借金することなく、政府の強力な指導力によってドイツ人の福利を向上させるプロジェクトに資金を提供して、短期間のうちにドイツをヨーロッパで最も豊かな国に躍進させました。・・・・・・このようなドイツは決して許せないと考えた勢力がいました。かつて、南北戦争のときに戦費を政府通貨の発給で賄ったために、国際金融勢力によって暗殺されたリンカーン大統領の故事を思い出してください。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P137)

※ 第2次大戦 イギリスがドイツと戦った理由は? 3
通貨発行権を国が持つか中央銀行が持つかという問題は、近代になって発生した問題である。
この当時もそして現在も、通貨発行権は中央銀行が握っているが、それ以前は国家が握っていた。
ヒトラーはナチス党に入党した当初から、中央銀行が通貨発行権を握っている世界の現状に疑問をもっていた。

ヒトラーは政権をとった1933年から通貨制度の改革に努めている。それも6年の年月をかけてかなり慎重に事を運んでいる。それは独裁者とのイメージとは異なるもう一つのヒトラーの姿である。それが完成したのが第2次大戦が起こった1939年のことである。この年にドイツの中央銀行は『帝国銀行法』によって合法的に国有化されている。
このことによってナチスドイツは通貨発行権を握ったのである。
 このことの意味は何か。
ドイツが、イギリスのシティやアメリカのウォール街を中心とする国際金融資本から独立して通貨を発行する権限を手に入れたということである。
イギリスがドイツと戦った本当の理由はここにあるのではないかという指摘もある。
20年前の第1次世界大戦の終了から、ドイツが賠償金の支払いのために、アメリカからの融資に頼っていたことは周知の事実である。
ヒトラーはこのアメリカ金融界からの独立を図っていたのである。
もともと通貨発行権は国家が持つものであった。しかしこの当時、通貨発行権は中央銀行が握っていた。
ヒトラーは通貨発行権を持つ中央銀行を潰すことをせず、中央銀行を国有化することによって、通貨発行権を国家の手に戻そうとしたのである。
 今でも中央銀行は国家資本によって成り立っていると考えている人がいるが、これは間違いで、実は中央銀行は民間資本の出資によって成り立っている。このことを理解しておかないとヒトラーのとった行動の意味は分からない。
ドイツ経済はこの当時アメリカウォール街の国際金融資本からの融資によって成り立っていた。
ヒトラーは中央銀行を国有化することにより、自前でそのことを行おうとしたのである。
そうなればヒトラーは思うように中央銀行から融資を受けることができ、その資金を使っていくらでも公共投資をしてドイツ経済を上向かせることができる。
実際ヒトラーの首相就任以来、ドイツ経済は高速道路アウトバーンの建設に代表される公共投資をさかんにすることにより、みるみるうちに回復していった。
 その方法は、国家のダミー会社をつくって、その会社に『雇用創出手形』を発行させ、その手形を公共事業の支払金にすることによって実質的には通貨と同じ役割をさせる、という多少今の方式とは違った方法をとるが、要は中央銀行が政府の要求に従って、通貨を発行しているのと同じことである。
これによってヒトラーは莫大な額にのぼる公共投資を行い、その結果ドイツ経済を立ち直らせたのである。
しかしそのことは、世界の金融を支配しているアメリカのウォール街やロンドンのシティの国際金融資本家たちの地位を、低下させるものであった。
彼ら国際金融資本家たちは、そのことを恐れた。
 紙幣は富との交換券である。
その紙幣発行権を国家が握ることができれば、国家はあらゆる富を手にすることができる。ヒトラーはそれを公共投資という形で行った。アウトバーンなどの国家の公共財としての富は増え、同時に公共事業に従事して賃金収入を得た国民の富も増えた。
1920年代前半に経験したハイパーインフレにも陥らなかった。
このことはドイツに紙幣が不足していたことを物語っている。
第一次大戦の敗戦国であるドイツは、賠償金という形で国家の富を吸い取られていた。ドイツ国内に潜在的な富はあるが、紙幣が吸い取られていたため、その富を有効活用する手段がなくなっていた。
 紙幣がないのなら、別の形で紙幣をつくればよいと気づいたのが、『雇用創出手形』である。この効果は絶大であった。
 しかしこれと同時にアメリカは不況に陥っていく。1937年のルーズヴェルト恐慌と言われるものである。ルーズヴェルトについては初期にとったニューディール政策の成功だけがいわれるが、実際にはアメリカはこの政策によって不況を脱してはいない。むしろナチスドイツの経済復興とほぼ時を同じくして、逆に不況に陥ったのである。アメリカが本格的に好景気を取り戻すのは、第二次大戦に入ってからである。
 ルーズヴェルト恐慌から2年後の1939年に、それまでドイツに対して宥和策をとっていたイギリスとフランスは、ドイツとソ連のポーランド侵攻をきっかけとして、突然矛先を転換して、ドイツに対してだけ宣戦布告をしていく。
 ドイツとアメリカ間で繰り広げられているのは、植民地戦争ではなく、金融戦争である。
 ところで日本で今行われているアベノミクスなる金融政策についてだが、安倍政権は、中央銀行を国有化しようとしたナチスドイツと一見すると非常によく似た動きをしている。
今の黒田日銀は、ほぼ安倍政権の思うとおりの動きをしている。
これは日銀が国有化されたのと同じ動きである。
そしてその黒田日銀によって量的金融緩和が行われているのも、ナチスドイツと似ている。日本銀行券という紙幣のバラマキである点では、ナチスドイツよりももっと直接的である。
 ではその違いは何か。
ナチスドイツがアメリカの中央銀行からの独立を目指したのに対して、安倍政権はアメリカの思うとおりに動いている。その安倍政権が日銀をなかば国有化するのと同じ動きをしているということは、日銀がアメリカ政府によって取り込まれるのと同じ効果をもっている。
昨年10月末に、アメリカが金融緩和を終了するのとほぼ同時に、日銀が逆に追加緩和に踏み切ったのも、日銀がアメリカ金融界を補完するために使われているということである。
金融緩和によってナチスドイツがめざましい経済復興を遂げたのに対し、今の日本が金融緩和によってもまったくその効果が上がらないのは、金融緩和は同じでもその目的がまったく違っているからである。
アベノミクスとは、日銀の国有化ではなく、日銀の米国化である。日銀を国有化しているのは日本ではなく、アメリカである。
これもアメリカが得意とする金融戦争の一環である。
今、安倍晋三をヒトラーになぞらえるパロディをよく見かけるが、その違いは、ヒトラーが金融戦争に対して自覚的であったのに対し、安倍晋三が無自覚である点である。
ヒトラーは資本主義に対する金融の持つ意味を深く理解していた。この理解があったからこそナチスドイツは経済復興に成功した。しかし安倍晋三がそのことを理解しているかは疑問である。
(私はヒトラーが政治的に正しかったかどうかには一切触れていないことを申し添えておく。)




〇 それと同時に、ヨーロッパにはユダヤ人を迫害する。ユダヤ人というのはずっと金融業者で嫌われてるんですよ。そのユダヤ人迫害も強行していく。これは戦争が始まった後、このあと5~6年後ですけどね。これがドイツの状況です。

そういったことをやるお金というのは、政府がお金をつくっていく。そこが今までと違うところです。近代国家はお金は誰が作るんですか。政府が作るんですか。これを作るのは中央銀行です。しかしヒトラーはそれに頼らない。
なぜもともとお金をつくる権限があった国家が、お金をつくれなくなったのか、というのがまず大きな疑問です。これに頼らずに、国家がお金を発行していいじゃないか、ということで、実際つくっていく。国家がお金を刷る。それによって経済を復興していった。
これで終わります。

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