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新「授業でいえない日本史」 35話 20C前半 第一次世界大戦~大戦景気

2020-10-24 09:17:29 | 新日本史5 20C前半
【大正時代の内閣】
ここからは、桂太郎を倒した政治が始まっていく。ここから大正時代です。その大正時代のイメージは、一言で言うと、大正デモクラシーと言われます。政党政治が花開きます。
大正は短いけれども、気分としては明るい。ただ15年で終わるだけに、あだ花に終わります。昭和になって、また軍部が復活し、外国からもいじめられて、また戦争していくことになります。大正時代の第一次世界大戦、昭和に入っての第二次世界大戦と、2回の戦争をしていきます。



【山本権兵衛内閣①】(1913.2~14.4)
桂太郎第一次護憲運動により総辞職して、次の総理大臣は、桂園時代の順番としては西園寺公望の番ですが、西園寺は立憲政友会の総裁を辞めていますので、自分の代わりに海軍の山本権兵衛を天皇に推薦します。
この時代の首相は、議会の決定がそのまま通るのではなく、議会の意向を尊重しつつ、元老といわれる明治の功労者たちの会議を経て、最終的には天皇の判断で任命されることになっています。
山本権兵衛は天皇から首相を任命されると、立憲政友会の協力を条件として総理大臣の任を引き受けます。これが1913.2月に成立した山本権兵衛内閣です。だからこの内閣を支える与党は立憲政友会になります。この内閣の副首相格である内務大臣には立憲政友会総裁の原敬が就任します。
政党というのは、もともと政府に反対する立場で生まれたのですが、ここでは明らかに政府に賛成する側になっています。それが与党です。反対は野党です。しかし政党が政府を支えるというこの構造は、初の政党内閣である大隈重信内閣以降、桂園時代の西園寺内閣の時代から成立していたものです。ただここでは首相が政党員ではなく、軍人であるというだけで、立憲政友会が政府の与党になっていることには違いはありません。

この山本権兵衛は、陸軍ではなくて、海軍の軍人です。久々の薩摩出身です。その前の首相の桂太郎は長州出身だった。しかし薩摩勢力はかなり小さくなっています。この人が最後の薩摩出身の内閣総理大臣です。あとでもう一度ピンチヒッター的に総理大臣になりますが。

それに対して長州出身の内閣総理大臣は、このあとも出てきます。現在の総理大臣の安倍晋三も長州出身です。しかも2019年に史上最長の内閣になりました。この人の叔父さんも佐藤栄作といって内閣総理大臣だったし、この人のお爺さんも岸信介といって内閣総理大臣でした。一族から何人もの総理大臣を出しています。すべて長州出身です。

海軍の大まかなイメージをいうと、海軍は話せば分かる、という感じです。それに対して陸軍のイメージは明治のガンコ親父、という感じです。そういう意味でちょっと海軍のほうが民主的には受けがよかった。

まず陸軍がこだわっていた軍部大臣現役武官制という制度は、やっぱりいかんよね、ということで、軍部大臣現役武官制を廃止します。ちょっと裏話をいうと、法律として軍部大臣現役武官法があったんじゃないです。いろいろある小さな制度上のなかの、1条、2条、3条、4条とずっとあって、その但し書きに小さく、軍部大臣は現役武官とすると、サラッと書いてある。油断も隙もないです。教科書でいうと、本文ではなく欄外の小さなところに一行だけ書いてある。これが決定的に重要なことになる。この手は、現在の政府でもやります。本当に油断も隙もないです。
ただこの山本権兵衛は、ドイツの武器会社で、ジーメンス社というのがあって、ここから武器を輸入した時に、袖の下をもらった役人がいて、それを理由に内閣不信任を出されて、すぐ潰されていく。これがジーメンス事件です。たった1年後の1914.4月です。この事件も不透明なところがあって、ちょっとヤラセっぽい感じもあります。




【大隈重信内閣②】(1914.4~16.10)
立憲政友会を与党とした西園寺公望の代わりの山本権兵衛が倒れると、次は桂太郎の順番ですが、桂太郎は、山本権兵衛内閣中の1913.10月に脳血栓で死去します。それで、どうしていいか分からないということになる。次の総理大臣は誰か。いったんオレは政治家辞めたという人、すでに70歳を超えています。もうアンタしかおらん、ということで元老の井上馨に推されて登場するのが大隈重信です。1914.4月です。
そんなに簡単に総理大臣になっていいのか。ここが今と違うところです。国会議員でなくても、天皇が、おまえ総理大臣になれ、と任命すれば、総理大臣になれるんです。

余談ですが、大隈が首相に推薦される前、元老会議は、次期首相として、徳川家当主で貴族院議長の徳川家達(いえさと)を推薦しています。しかし徳川家達はこれを辞退します。明治維新から50年近く経っているとはいえ、明治政府の敵であった徳川家がこうやって新政府の中にはいり、首相になれる地位にまで登りつめ、かつての敵である明治の元老たちから推薦を受けていることには驚きます。もし彼が辞退していなければ、徳川将軍家の首相が誕生していたことになります。

大隈重信の動きは複雑で、非常に理解しにくいところがあります。この前年1913年に桂太郎に対立する政党を寝返えらせようとして、新しく政党ができました。その政党が大隈内閣を支えます。立憲同志会です。
本来、大隈重信が党首を務めていたのは憲政本党です。その憲政本党が立憲国民党と名前を変えたのですから、大隈重信は立憲国民党を与党とするかと思ったら、その立憲国民党を飛び出した人たちでつくられた立憲同志会を与党とします。
主要政党は、ここで2本から、立憲政友会立憲国民党立憲同志会の3本になりました。


(政党系図)


ちょっと確認します。政党系図、1910年の立憲国民党まで言ってますが、この立憲国民党から分離させた政党、おまえ立憲国民党を裏切ってオレたちに寝返ってくれよ、といわれた政党、これが立憲同志会です。これは陸軍寄り、長州寄りです。その政党によって支えられた内閣が、この第2次大隈重信内閣です。


【第一次世界大戦】 世界史に目を転じると、ここで何が起こったか。この年1914.7月に、第一次世界大戦が起こる。
これに日本は直接は関係ないんだけど、第一次世界大戦が起こった。どういうふうに起こったかというのは、世界史でやりました。基本はイギリスとドイツの対立です。ドイツが狙われます。日本はこの時には日英同盟によりイギリス側につく。そしてイギリスが勝つ。
しかしその後20年経って、第二次世界大戦の時には、日本はドイツ側に追いやられてしまうんです。ドイツはしょっちゅう叩かれます。

もうひとつ、ここで、イギリスと今にいたるまで鉄壁なタッグを組んでる国がある。民族的にも言語的にもイギリスと同じアングロサクソンのアメリカです。これが、いいところでイギリスに味方していきます。これが世界の流れです。
きっかけはサラエボ事件です。ここでドイツの仲間のオーストリアの皇太子・・・・・・次の皇帝になる人・・・・・・が暗殺される。誰からかというと、これがスラブ系の青年、つまりロシア系のセルビアという国の一青年によって。


【日本の参戦】 日本の外務大臣はこのことを悲しんだか、喜んだか。「大正の天佑」と言った。これ、どうですか。天佑とは、天の恵みです。チャンスだ。なぜチャンスか。中国に行きたいからです。陸軍は、辛亥革命のあと、二個師団の増設を要求していた。それで揉めていたのが日本の状況だった。それが中国に行くんだったら今だ、となる。ドイツも中国に植民地を持っている。ドイツに宣戦すれば、そこを取れるじゃないか。実際、ドイツの植民地を取っていきます。日本は勝つ側だから。


 教科書では、日英同盟を理由として日本が積極的に第1次世界大戦に参戦したかのように書かれています。混乱のドサクサに紛れて参戦し、ドイツの租借地である青島と山東省の権益、ドイツ領南洋諸島を奪ったかのような書き方です。事実は全く逆ですイギリスが参戦を要請してきたのに対して、日本としては関わりのないヨーロッパ地域のことなのでずっと断り続けていました。それでも「参加して欲しい」と強く頼まれたために、日英同盟の信義を守ってやむなく参加したのです。
 山東省のドイツの権益と南洋諸島のドイツの権益を日本が引き受けることになったのは、参戦する前からイギリスと話し合っていた条件であり、どさくさに紛れて日本が奪い取った権益ではありません。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 2015.12月 P91)


すると、のちのことですが、なぜおまえが取るのか、とアメリカが言う。取り過ぎだろう、と言う。これも世界史でやりました。これが1921年のワシントン会議です。そういう流れになっていく。そこまで言うと第二次世界大戦の説明の半分になる。ここは日本史だから世界史とは関係ない、で済ませるかというと、1900年代になると世界史の動きと日本史はリンクしていきます。世界の動き抜きでは日本史は説明するのが難しくなります。

日本が参戦する理由は、日本がイギリスと結んでする日英同盟です。ドイツに参戦して、ドイツの中国植民地を奪う。それが同時に中国進出です。すでに日本は、朝鮮を領有してます。100年以上たった今でも、中国・朝鮮と日本は関係が悪い。

君たちが生まれたころまでは、従軍慰安婦問題だった。去年の暮れから新たに起こっている問題が徴用工問題です。このまま行けばキリがない。それがもし本当だとしたら、謝っていいんだけれども、ただこの時代に植民地でそういったことやっているのは、日本だけではないということは、公平な世界史理解のためには知っておかないといけない。300年前からのイギリスの奴隷貿易とか、いったい何なのかという話になる。そこらへんの歴史的公平性というのは正しく世界的に理解しないといけないと思う。

世界では、第一次大戦に勝つ側がイギリスです。メインはイギリスです。世界の一等国もまだイギリスです。このイギリスと組むのがロシアフランスです。これが三国協商です。
それに対して、ドイツオーストリアイタリアと組んだ三国同盟です。といってもこれは親戚づきあいのようなものです。ドイツとオーストリアはもともと国が別れているのが不思議なくらいで、どっちもドイツ人でドイツ語をしゃべっています。ホントいうなら、民族自決でいうなら、ドイツ・オーストリア連合帝国で、一つの国でまとまったほうがすっきりするぐらいのものです。
それに加えてイタリアです。でもイタリアはすぐに裏切ります。当てにならない。



(第一次世界大戦にいたる世界状況については、下記を参照)



【参戦理由】 日本には日英同盟がある。しかしこれに書いてないのがアメリカです。これは書けないです。アメリカはこの段階で、何の軍事同盟は何もないのに、つまり参戦する正当性がないのに、うまく参戦してくるんです。この時には、ルシタニア号というアメリカ船が、ドイツの潜水艦によって沈没させられた、ことを理由に参戦してくる。


【経過】 それで日本は、中国のドイツ領を奪いに行く。山東半島です。ここは重要な地点です。中国でみると狭いみたいですけど、日本の四国より大きい。あとのドイツ領は、こういう南洋諸島です。がばっと南洋諸島を取っていく。
その説明ですけれども、その山東半島の一部に青島(チンタオ)という、ドイツの拠点だったところを取る。それからもう一つは南洋諸島をとる。


【中国政策】 中国に対しては、1915.1月対華二十一ヵ条要求を出します。対華の「華」は中華の華です。「華」とは世界のことです。中華というのは、世界の中心のことです。だから中華どんぶりというのは、世界のまん中を食べる食べ物です。そこに21もの要求をしていく。
孫文は、軍隊を持たなかった、という話はしました。実力者は孫文ではなく、袁世凱です。この袁世凱も、なにか気の毒な点もあって、これは教科書にも書いてあるけれども、孫文は理想化されすぎてるんですね。袁世凱は悪人化されすぎているんです。水戸黄門さんと悪人みたいです。袁世凱には、最初、孫文を追い払った時には、後ろにイギリスがついていたんですけれども、そのイギリスは袁世凱に登らせたハシゴをはずします。そして失意のうちに、次の年1916年に死んでいきます。中国はバラバラになるように、なるように仕向けられるようなところがあって、これで中国はますます混乱していく。

翌年の1917.9月、孫文は広東軍政府を樹立し、中国では南北両政権が対立するようになります。つまり中華民国というのは看板だけで、日本の戦国時代のように、あちこちに親分さんがいて、勢力争いをしている軍閥割拠の状態になっていく。

そういったなかで、日本は、まずさっきいったドイツ権益です。
次に日露戦争でとっていた朝鮮北方の旅順・大連の租借権を99ヶ年に延長します。99ヶ年というのは正確でなくて、半永久的という意味です。
そこを拠点に、東海道新幹線よりも長い距離の南満州鉄道を敷く。

そして、会社の名前、公司(こんす)というのは中国流の株式会社、漢冶萍公司(かんやひょうこんす)という。漢冶というのは地名、萍公司というのが会社です。これは製鉄会社です。
21ヵ条を大きく4つ言うと、これなんです。これを、屈辱だと思いながらも、中国はイギリスからもハシゴを外されて、どうしようもなくて受け入れざるを得ない。
しかし受け入れた日の5月9日を民衆たちは、国の恥の記念日だとして祝った。国恥記念日といいます。こういう祝い方は歴史に残るんです。だから日中関係は今でも悪い。


【日本の領土】 このころの地図を見ます。日本が第一次世界大戦中にやったこととして、対華二十一ヵ条の要求、それから山東半島、青島占領。ドイツ領の南洋諸島まで取った。戦前の日本は領土は大きいです。もう一つは台湾です。
要らないことを一つ言うと、グァムはいってない。なぜか。ここは米軍です。今もです。米軍のここら辺の基地で、中国に1番近いところは、沖縄基地でしょ。次がグァムです。ここの米軍ミサイルは、中国を向いてます。中国にとっては今の沖縄の米軍基地は脅威です。


(第一次大戦時の日本領土)




【総選挙】 そして大隈重信は、一度ダメになった二個師団増設をするために、軍隊を増強するために、1915.3月に総選挙をうつ。結果は与党の立憲同志会の圧勝です。立憲同志会が153議席、立憲政友会が108議席です。この圧勝で陸軍の二個師団増設要求が通ります。
桂太郎の死によって桂内閣の代わりとして登場した大隈重信は、桂太郎の肝いりで結成された立憲同志会を議会の第一党にのし上げます。ここで立憲同志会は、立憲政友会を圧倒します。

実はこの時、第一次世界大戦が起こると、ヨーロッパは戦争で、物資が不足する。だから日本に大量に注文が来るんです。日本はウハウハ作るんです。売れ、売れと言って。どんどん輸出をのばして日本は景気がよくなります。これを大戦景気といいます。それで大隈さんはいい人だ、ということで選挙に圧勝する。
この時代、日本は景気がいい。この好景気が戦争いっぱい続く。戦争は足かけ5年が続きます。こんなに長い戦いというのは、近代史上は初です。これを大戦景気といいます。
どういうふうに日本の景気が変わったか。それは後述します。




【寺内正毅内閣】(1916.10~18.9)
ここまで、二個師団増設をしたあと、大隈内閣は野党である立憲政友会や陸軍のドンで元老の山県有朋と対立するようになります。

大隈首相が辞表を提出すると、長州と陸軍のドンである元老の山県有朋は、同じ長州出身で陸軍大将の寺内正毅を次期首相に推薦します。それが受け入れられて寺内正毅内閣の成立となります。これが1916.10月です。

議会対策としては、最大政党の立憲同志会の協力を得られなかったため、その対立政党である立憲政友会の了解を取り付けます。立憲同志会はこの1916年に憲政会と名前を変えます。

1917.4月に総選挙(衆議院議員選挙)が行われ、寺内内閣と対立した憲政会は敗れ、内閣に協力的な立憲政友会が議席を伸ばして第一党になります。

この寺内正毅は、前に朝鮮を守っていた人です。朝鮮総督府の長官です。あそこはエリートコースです。朝鮮に行くという人はエリートコースです。あい変わらず景気はいい。大戦景気は続いています。


【西原借款】 中国は軍閥割拠の状態です。袁世凱は北京を拠点にして南方の勢力と対立していましたが、1916年に死にます。

この袁世凱の後継者に二派閥あって、仮にA派とB派とすると、A派の段祺瑞(だんきずい)を資金面で応援したのが日本です。もう一方のB派はイギリスとアメリカが資金面で応援します。ここですでに日本とイギリスとの対立関係が発生しています。
このあとのことを言うと、段祺瑞は失脚し、A派は満州を拠点とする張作霖に受け継がれますが、張作霖がB派に勝利し、北京を押さえることになります。日本は段祺瑞から張作霖へと続くA派を応援していきます。しかしこれはまだ序盤戦です。

日本がここで段祺瑞を応援したというのは、単にがんばれ、がんばれじゃなくて、お金を援助したということです。中国へお金を貸したのは寺内首相の秘書の西原亀三という人です。国会承認には関係なく、独断で貸します。これを西原借款(しゃっかん)といいます。借款というのは貸付金のことです。


【アメリカとの対立】 ただ、このころから日本の中国進出を喜ばないのが、さっき言ったアメリカです。アメリカも実は、中国北方の満州を狙っている。日露戦争後、アメリカの鉄道王ハリマンが、鉄道を敷きたいと申し出てくる。しかし資本参加させないと、日本は断るんです。
そこでいろいろアメリカと対立してくるなかで、一応手を打とうねじゃないかと、調節を行います。日本の石井菊次郎という人とアメリカのランシングという人が、1917年に一応の手打ちをする。これを石井・ランシング協定といいます。日本には朝鮮支配を認めましょう。その代わりではアメリカには、フィリピン支配を認めます。お互い、朝鮮とフィリピンを認め合って、これで手を打とうじゃないか。しかしアメリカンは、まだまだ不満です。


【ロシア革命】 第一次世界大戦はフェイントがあります。1917年に何が起こるか。ロマノフ王朝滅亡です。これがロシア革命です。日露戦争で日本が勝ったのも実は、第1次ロシア革命のおかげだった。その13年後、第一次世界大戦中の1917年に、第2次ロシア革命が起こります。この第2次ロシア革命のほうが、本当のロシア革命です。ここでロシアに初の社会主義国家が誕生した。
それまでロシアはイギリス側について戦っていた。ということはドイツに有利なんです。イギリスに不利です。これが1917.3月です。



【アメリカの参戦】 その翌月の1917.4月に、アメリカは突然、イギリスに味方して参戦する。
しかし教科書には、そう書いてないです。この2年前の1915年にアメリカの客船ルシタニア号が、ドイツの無制限潜水艦作戦であるUボート作戦によって撃沈されたから、その仕返しだという。教科書にはそう書いてある。しかしそれは2年前です。
本当は、1917.3月にロシア革命でロシアが滅び、翌月の1917.4月にアメリカがイギリスに味方して参戦したというのが歴史の流れです。
しかもこれが決定打です。ドイツはそれまで五分五分以上に戦っていたのですが、アメリカが参戦すると、急速にイギリス側が有利になって、イギリスを勝利に導きます。そしてそのあとはアメリカがイギリスをも追い抜いて世界の一等国になっていく。


【アメリカFRBの設置】 世界の基軸通貨がそれまではイギリスのポンドだったのが、いつから今のようにドルとなったか。それはここからです。第一次世界大戦後から、アメリカのドルが世界の基軸通貨になった。そのドルを発行しているのがFRBという・・・・・・今でもよく新聞に出てくる・・・・・・アメリカの中央銀行です。これを連邦準備制度理事会といいます。日本でいう日本銀行なのですが、銀行と名前がついてないから非常にわかりにくい。連邦準備制度理事会という、わけの分からない不思議な名前になっている。これは単純にアメリカの中央銀行だと思ってください。FRBとは何か。日本銀行と同じアメリカの中央銀行です。ここが今もアメリカのドルを発行しています。


ただこれができるまでには、アメリカはすったもんだを繰り返しています。その理由は、中央銀行はもともと政府の力の及ばない民間の銀行で、ここに金融力の強いイギリスの資本が入りこめばアメリカの利益が失われる、という強い反対論があったからです。この点は今の日本銀行も同じで、日本銀行は民間企業と同じように東京証券取引所に上場されている企業で、その株式も民間企業と同じようにそこで売買されています。政府組織ならこんなことはできません。

しかもFRBができたのは第一次世界大戦のほんの1年前の1913.12月です。しかもクリスマスで多くの議員が欠席する中でアメリカ議会を通過した、といういわく付きのものです。


【シベリア出兵】 まだ第一次世界大戦は続いています。日本はこのロシアという社会主義国家の誕生に対して、何を行ったか。ロシア革命の最終目標は何だったか。一国革命だったですか。世界革命ですよね。世界革命というと、タチの悪い漫画みたいな話だと感じますけど、しかし本気です。世界革命だったら、一番近い国が日本です。日本にも革命が起こる。これは防がないといけない。それは認めないということで、日本は1918年、ロシア領のシベリアへ出兵するんです。これをシベリア出兵といいます。なぜシベリアか、北海道から行ったほうが、ロシアに近いからです。
しかしここは寒くて、氷点下30度、最高マイナス65度、ちょっと想像できない。我々、日本人は、氷点下65度だったら、ナイロン製のダウンジャケットの暑いのを分厚く着込んで行けばいいと思って、いっぱい着こんでいく。しかしナイロンは氷点下50度超えたらパリパリになる。船から下りた瞬間に、ナイロンが固まってビリビリ破れる。それくらい寒い。この寒さでシベリア出兵はうまくいかない。


【米騒動】 日本がここに出兵すると・・・・・・日本は今と違って食糧不足です・・・・・・食糧不足で米が足らない時に戦争が起こると、大事な米は庶民よりも先に兵隊さんの飯として軍部に行く。貧しい農家の二男三男が兵隊に行ってよかったというのは、白いおまんまが日に三度食えるからです。激戦に行って、第二次世界大戦のように、飯もない、鉄砲もない、鉄砲はあってもタマがない、ようなところで惨殺された人は、悲惨な限りですけど。
それで米が足りなくなる、米がどんどん値上がりしていって、1918年に米騒動が起こる。最初に起こしたのは富山県の漁村のおばさんたちです。農村ではない。漁村はだいたい気が荒い。そこのおばちゃんたちが、何でこんな米が高いのか、と文句言い始める。
しかしこんな時でも、がめつい人間はいるんです。彼らには分かるんです。米が不足しているときに、戦争が起きたら、米が足りなくなって米の値段が上がる、と。それなら上がる前に買っておけば儲かる、という人が出てくる。これが米の買い占めです。めざといというか、あくどい人はこれをやる。
そうすると騒動が予想以上に広がって、各地で一揆が起こる。うちもだ、うちもだ、ということで、全国的に米騒動が拡大していきます。

庶民が腹を立てれば、さっきも、第一次護憲運動で桂太郎が総辞職に追い込まれたように、米騒動が全国で暴動が起こりだすと、内閣総理大臣も責任をとって辞めざるをえなくなる。1918.9月に寺内正毅内閣は総辞職します。




【大戦景気】
【原因】
 次は経済です。第一次大戦中の日本は、いま言ったような理由で景気がよかったんです。ヨーロッパは大戦で経済が混乱し、物を作れなくなったらからです。これが大戦景気です。一部が戦争すると、それ以外のところが儲かる。
 
ヨーロッパでは金融制度もガタガタになり、ヨーロッパ各国は金本位制度を離脱していきます。すると日本も、ヨーロッパに金融制度を合わせるために、1917年に金本位制度を離脱します。このことは1930年に大きな問題になっていきます。

日本が景気が良くなったのは、ヨーロッパが戦争しだすと、生産力が落ちて、ヨーロッパが輸出していたアジア市場に空白ができる。ものが入ってこなくなる。
そこに日本が、物が不足するんだから、そこに持って行けば売れる。ヨーロッパも、軍備品が不足する。日本に注文が来る。日本はウハウハです。

もう一つ、戦争には人も兵隊もかかるけど、まずはお金です。戦争した国にお金を貸した人は、儲かるんです。そういう構造は戦争につきものです。戦争は、お金がなくてでもやる。借り手でもやる。背に腹は代えられないということで。貸したのはアメリカです。


【産業】 まず儲かったのは、ヨーロッパまで運ばないといけないから、船が足りない。船持っていた人は何倍も儲かる。これを船成金という。成金というのは、将棋で歩が相手陣地に入ったら、急に変わって金の動きをする。一気に大金持ちになった人を成金という。


【紡績業】 日本の産業というのはこの時代、まだ軽工業が力を持ってる。メインは紡績業です。それと織物です。綿織物を作る。紡績業はアジア市場独占です。


【製糸業】 高く売れる高級品としては、製糸です。この糸はシルクです。絹です。高級品です。これはアメリカに輸出する。日本はかなり輸出先としてアメリカ市場に頼っている。
アメリカに頼っているもう一つは、ここから急速に出てくるエネルギー源が、時代はまだ石炭ですけれども、これが石油に変わっていきます。まだ今のような、サウジアラビアとか中東の石油は見つけたばかりで、まだ採掘されていない。エネルギーへの生命線、日本の石油はほぼ100%アメリカ依存です。こういう状態です。次の太平洋戦争というのは、アメリカが日本への石油を切ると言った。これは日本で死活問題になっていく。


【鉄鋼業】 鉄鋼業については、石油の前の石炭です。中国に南満州鉄道が経営する鞍山製鉄所を日本がつくります。
それから、国内製鉄としては北九州に八幡製鉄所がある。今の北九州は鉄冷えで、人口減少率は九州ナンバーワンです。八幡製鉄所は、このあと新日本製鉄所になります。今は住友金属と合併して新日鉄住金という。日韓関係の問題は過去20年間は従軍慰安婦問題だった。最近、韓国がこの新日鉄住住金がらみで、また新たな問題を要求してきた。日韓併合で韓国は日本の領土だった。そこで工場労働者として強制的に日本に連れてきたから、これを徴用工問題といって日本に賠償を求めた。そういう問題が持ちかけられているところです。ここらへんは八幡製鉄所がらみです。


【化学】 化学部門では、それまで日本はドイツから薬品や肥料を輸入してたんだけれども、第一次大戦でドイツと戦っているから、ドイツからの輸入が入ってこなくなる。そうすると日本は自分で作るしかない。それが作れるんですね。日本はすでに技術的にその水準にあります。薬品や肥料の国内生産が可能になったということです。


【電力】 それから新たな動力源として電力です。それまで明治時代は蒸気力だったんです。福島県の猪苗代発電所から送電線を張って、まず東京に送電を開始した。それまでは電気なんかないです。

私が生まれたころにはすでに電気はあったけれども、まだ電灯に使っているだけだった。まだ水道がなかった。100年も200年も前のことじゃないです。私がハナタレ時分の50年ぐらい前のことです。どうやって水飲むか。ちゃんと農家には水瓶があって、寝る前に汲んでおくんです。そして一晩、寝かせる。堀の水は今のように淀んでいなくて、けっこう流れていたから、水道の水ほど綺麗じゃないけれども、今の堀の水ほど、濁ってはいないんですよ。一晩寝かせると泥はだんだん底に沈殿していく。朝起きてお母さんたちがまずやることは、ひしゃくで水瓶の上澄みをすくう。そしてまず湯を沸かす。そしてご飯を炊く。いわゆるカマドでの飯炊きです。こういうカマドがあって、ここでワラを燃やす。そのカマドの上に釜をのせる。この炊き方が、はじめチョロチョロなかパッパで、1時間ぐらいかかってご飯を炊く生活です。時代としては、戦後までこういう生活は続いていました。
水瓶の上澄みをとるから、炊きたてご飯のなかにメダカが2~3匹入っていたりした。そんなことは大したことないんです。メダカを食ったって、死にはしない。あれが食えなかったら、この時代は腹空かして何も食えなくなる。そんなに驚くほどのことじゃない。

私が小学校のころまではクーラーとかなかった。こんなにハエがいないような世界じゃなかったんです。ハエは食堂でもブンブン飛ぶし、夏に出てくる蚊は、こんなもんじゃなかった。道路脇の電信柱に街灯があると、蚊が光を求めてわんさかと集まって、蚊柱が立っていた。台所にはハエたたきがあって、これを横に置きながら飯を食って、ハエがいるとパチッとたたく。うちのお袋とかものすごくうまかった。成功率98%ぐらいだった。
天井からは、ハエ取り紙といって、ベターッとノリがついた巻紙を天井から垂らすんです。最初はグルグル巻いてあって、画びょうで天井に留めると、自然に1時間ぐらいで垂れてくる。そこにエサを求めたハエが1匹、また1匹とやって来て、10日ぐらいでほぼ満席ですね。時々、死んだハエがちゃぶ台にポトッと落ちる。ご飯を食べていると、上からポトっとハエが落ちてくる。それでも大したことはない。取り除けばそれで終わりです。味もちがわない。

むかしは干し柿があって、よく家の二階に吊してあった。縄に挟んで干し柿を吊すんです。自家用としてつくっていたから、食べたらいかんと言われても、ときどき勝手に取って食べていた。あるとき妙に味がおかしい。柿が干すとしぼむんで、シワシワになって、その中にハエが食い込んで抜けきれなくなっている。ハエが柿の中に2~3匹つまって、私はそれを知らずに食ってから分かった。だから私はハエの味を知ってる。それでもこうやって元気に生きている。どうもなりはしない。今だったら、死ぬか生きるかの騒動しないといけないようなことでも、大したことないです。人間は死ぬときは死ぬけど、死なないときはそう簡単に死なない。あまり心配しなくていい。今の衛生観念から言うと、こんなこと言ったらいけないかも知れないけど。
今は虫一匹いたら大騒動して、こんなもの食えるか、という。虫も住めないような世界は、逆に恐ろしくて、人間だって住めない世界です。人間の都合だけで世の中は成り立っていない。虫一匹おかずに入っていたら、こんなもの食えるか、という。冗談じゃない。そんなことを言っていたら飯なんか食えない。これはついこの間のことです。と言っても50年は経つけれども。


【結果】 結果として日本は、それまで貿易赤字国で、輸入が多かった国だったけれども、大戦期間中は輸出が増大し、輸出超過で貿易黒字国になった。今まで農業生産額が1位だのが、工業生産額が1位になる。つまり日本は農業国か、工業国かと問われたら、工業国だと言えるようになった。工業国になると、工場地帯ができて、都市が発達してくる。都市が急速に発達していく。明治時代までは、農村生活の方が都会生活よりも水準が上だった。地方の生活が上だったから、好んで東京に行く人は、あまりいなかったんです。
東京に行くのは、多くは農家の次男、三男なんです。食い扶持がないから。それが好んで都会に行くようになる。都会の方が生活水準が上になっていく。政府もそれを奨励して、田舎にはない文化住宅、といっても今から見ると、普通の台所があるだけなんですけど。カマドに下りなくても、そのままご飯がつくれるような家です。カマドは土間にあって、当然一度ゲタに履き替えて行くんです。それがゲタに履き替えなくても行ける台所になった。まあ今からいえば当たり前といえば当たり前ですけれども、そういうのが文化の象徴としてもてはやされる時代になった。

となると、今まで都会で働いていた人は、実際は貧しい農家の娘さんたちなんです。これも口減らしです。「女工」と言われていた。それが自らすすんで都会に出て行く男子労働者が中心になっていく。
ここでは何が違うかというと、女工さんは若い時に働いて、いずれ実家に帰る。そして田舎に帰って結婚するんです。結局、田舎の人になる。
しかし、男は一度都会に出て行くと、田舎に帰ってこないんです。都会で嫁さん見つけて、そこに住み続ける。男が多いから、結婚の競争率は高いんです。
都会では、400年前に江戸ができた時から、男の結婚は厳しいです。うまく嫁さん見つけられると、次に子供が生まれる。この子供は東京っ子です。こうやって人口がどんどん増えていく。
今ではすっかり東京が日本の中心のようになってますけど、そういう都会中心への変化が、この時代から起こっていきます。
これで終わります。

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