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2020年のアメリカ大統領選以後はムチャクチャ

新「授業でいえない日本史」 41話の1 20C前半 平沼騏一郎内閣~阿部信行内閣

2020-10-24 09:08:15 | 新日本史5 20C前半
【平沼騏一郎内閣】(1939.1~39.8)
近衛文麿が辞意を固めて退陣したあとは、枢密院議長の平沼騏一郎が首相になります。政党政治家ではありません。もともとは司法官僚です。1939.1月の成立です。

日本はすでに中国と戦ってる。敵はアメリカではなくて、ソ連です。さっき言った通り。ソ連が気にかかっている。


【ノモンハン事件】 対ソ紛争が起こる。北朝鮮の北方の満州です。今でいう中国とソ連の国境沿い、そこで日ソ両軍が衝突する。場所はノモンハンです。ノモンハン事件という。1939.5月です。これは何ヶ月も続くんだけれども、結論いうと日本は負ける。北に行くのは阻まれる。これはソ連との戦いで、まだアメリカはぜんぜん関係ありません。
この1939年の7月には、国民徴用令が出される。軍事産業への人的資源、これの国家管理です。本格的に、高校生は授業なんかせんでよかぞ、軍事動員に行け、といって。そういう人を勝手に動かせる。戦時体制です。


【アメリカの日米通商航海条約破棄通告】 今までの流れで、中国は出てくる、ソ連も出てくるけれども、ほとんどアメリカは出てこない。しかし、このアメリカが突然、1939年7月に、日本に対して、日米通商航海条約の破棄を日本に通告する。ここで初めてアメリカが出てきます。日本は、エッ何でだ、と思う。

〇 それまでアメリカは、日本が欲しいものは何でも貿易取引で供給しますよ、と言っていた。メインは石油です。前に言ったように、日本は必要な石油をほぼアメリカに頼っている。それを破棄したということは、どういうことか。おれはあんたに石油を売らいことだってできるんだよ、ということです。エッ脅されてるのか、という感じです。アメリカからの輸入が困難になっていくということです。そして2年後の1941.8月には、アメリカは一滴も石油を売らないことを通告します。

〇 なぜこんなことになるのか。ある教科書には、前年の1938年に近衛首相が出した東亜新秩序声明に対して、「アメリカは自国の東アジア政策への本格的な挑戦だとみなした」と書いてあります。でも東亜とは東アジアのことであって、アメリカの領土とは関係ありません。なぜアメリカは、自分の領土でもない東アジアのことについて、日本が発言したことに腹を立てるのか。日本はアメリカ領土のことをとやかく言っているわけではないのに。日本が、東アジアのことに発言した途端に、アジアから遠く離れているアメリカが腹を立てるのです。

〇 世界大恐慌以来、世界ではブロック経済の形成が進んでいます。イギリス通貨のポンドが流通するイギリスブロック(スターリング=ブロック)、フランス通貨のフランが流通するフランスブロック(フラン=ブロック)、アメリカドルが流通するアメリカブロック(ドル=ブロック)、ドイツのマルクを中心とする為替管理地域も形成されています。そういうなかで、日本は円を中心とする円ブロックをつくれるかどうか、それが日本の死活問題になります。その表明が近衛の東亜新秩序なのです。それに対してアメリカは腹を立てます。

〇 東アジアはすでにアメリカのものになっているかと言えば、インド・ミャンマー・マレーシア・シンガポールはイギリス領、インドシナはフランス領、インドネシアはオランダ領、フィリピンだけがアメリカ領で、アメリカの利害とはほとんど関係ありません。それにもかかわらずなぜアメリカが腹を立てるのか。

〇 実はアメリカはこの前年の1938年から、ルーズベルト恐慌に陥っています。1933年からルーズベルトが実施したニューディール政策はうまくいっていないのです。公共事業の成果が出ず、逆に財政難に陥り、財政支出を削減した結果、恐慌におちいります。アメリカはその打開策を求めています。アメリカが経済回復するのは戦争に参入してからです。
アメリカの日米通商航海条約の破棄通告の意図がどこにあるのか、日本は翻弄されます。日本は、日本にあるアメリカ大使館を通じて、国交改善の要請を行いますが、アメリカ政府は冷淡です。
このことは日本にとってたいへん重要な意味をもちますが、ほとんどの教科書にはたった1行サラリと書いてあるだけです。逆に言うと日本の教科書にはこれ以上書けない部分があるのです。

 1939年7月26日、突如、(アメリカが)日米通商航海条約を廃棄するという通告をしてくる。日本とアメリカは、何の戦争もしていない頃です。通商条約破棄という準宣戦布告のようなことをアメリカは日本に対してやった。・・・・・・日本にとっては当時、全輸出額の半分近くが、アメリカ向けです。こんな貿易関係を破棄するなんていうのは、これだけで戦争行為です。(日米戦争を起こしたのは誰か 加瀬英明他 勉誠出版 P58)

 (アメリカによる)日米通商航海条約の破棄通告は国際法上、また当時の不戦条約に照らしても、日本に対する宣戦布告に該当します。日本はアメリカから事実上の宣戦布告をされていたのです。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P119)

 慣習国際法上は、アメリカが日米通商条約を破棄して日本に対して石油を禁輸したこと自体が、宣戦布告行為と見なされます。・・・・・・(真珠湾攻撃を)「日本による騙し討ちだ」とアメリカは日本を非難しましたが、アメリカが宣戦布告と同様のことをしていたことを目立たないようにして、日本に責任を負わせるためのアメリカ側の情報操作に過ぎません。アメリカは中立を装いながら、支那を支援して日本を攻撃していました。フライング・タイガーズ(アメリカ合衆国義勇軍)と呼ばれる軍隊を組織して、支那の対日戦を支援しています。日本が真珠湾攻撃をする前から、アメリカ軍は日本への軍事攻撃を始めていたのです。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P119)



【独ソ不可侵条約】 ここでまた変なことが起こります。日本は共産主義のソ連が敵だと思っていた。ドイツもソ連が敵だと思っていた。だからソ連を対象に日独防共協定という共産主義を防ぐ協定を結んだ。
そのドイツが、突如として独ソ不可侵条約を結ぶ。1939.8.23日です。ドイツソ連が手を組んだということです。首相の平沼騏一郎は、これを理解できない。
 世界はご都合主義で動いています。この時ソ連は東のノモンハンで日本と戦っているから、西では戦えない。だから西にあるドイツと不可侵条約を結んで、ソ連は西の守りを固めた。ドイツはドイツで、ソ連を叩くにはまず西のフランスを叩いておかなければならない。そうしないと西のフランスと東のソ連との挟み打ちになる。それは避けたい。だからここは一旦東のソ連と不可侵条約を結び、ドイツは東の守りを固めた。ドイツのヒトラーは防共協定よりも東の守りを優先したわけです。
 しかし平沼騏一郎は、「複雑怪奇」という有名で無責任な言葉を残して総辞職する。ここに日本の実力とホンネが表れています。一国の首相さえ世界情勢がよく分からない。君たち高校生が分からないというのも無理はない。8ヶ月間の短命内閣でした。

〇 ではドイツがソ連と結んだのは何のためか。あと1ヶ月もしない1939.9月第二次世界大戦が起こります。ドイツとソ連が挟み撃ちして、どこに攻めていくか。これがポーランド侵攻です。この瞬間に、ドイツにとって思いもよらぬ第二次世界大戦が始まる。


〇 しかしこれはドイツとソ連のフェイントです。ドイツもソ連もこれを本気で守る気がなかった。しかし、日本はそこまで見抜けないまま翻弄されていきます。ドイツがソ連と手を組んだら、日本もソ連と手を組もうということになっていく。
 ドイツとソ連は、この直前までスペイン内戦で敵と味方に分かれて戦っています。ドイツのファシズムとソ連の共産主義は敵対関係にあります。
さかのぼれば、第一次世界大戦の時も、ドイツのパン=ゲルマン主義とロシアのパン=スラブ主義は対立していました。ドイツとソ連の不可侵条約は見かけ上のものだったのです。

〇 このあとのことを言うと、2年後の1941年に日本は日ソ中立条約を結びます。独ソ不可侵条約を見て、日本はドイツと同様に、ソ連と手を組みますが、結果的にみるとこれもソ連のフェイントです。終戦間際、ソ連が裏切っていく。日本は翻弄され続けます。



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【この先の概略】
〇 太平洋戦争を説明する前に、あらかじめここから先の動きをポイントだけ説明していきます。
 広田弘毅内閣時の1936年に日本は日独防共協定を結びます。敵は共産党のソ連なんです。日独 VS ソ、です。アメリカは出てきません。

〇 平沼騏一郎内閣時の1939年にノモンハン事件が起きる。これは、日 VS ソ、です。アメリカは出てきません。

〇 平沼騏一郎内閣時の1939.7月に、突然アメリカが日本に対して日米通商航海条約の破棄を通告する。日本にとっては寝耳に水です。

〇 平沼騏一郎内閣時の1939.8.23日に、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を結ぶ。これで日本は、あれっと、理解できない。ドイツとソ連が手を組んだ。しかしこれはフェイントです。

〇 日本の首相が平沼騏一郎から次の阿部信行に変わった直後の1939.9.1日、ドイツがポーランドに侵攻します。
すると2日後の1939.9.3日、イギリスはドイツに宣戦布告をした。フランスも宣戦布告します。独 VS 英仏、です。
この理由は、イギリスがポーランド相互援助条約を結んでいたからだ、とされます。しかしこの条約は、以前からあったものではなく、独ソ不可侵条約が締結された2日後の1939.8.25日に慌てて結ばれたものです。このことによって宣戦布告への布石が打たれます。

【馬渕睦夫】99%の人が勘違いしているプーチンの現状【ひとりがたり】

(文字起こし 2:30~) ヒトラーも、今日のプーチンのように追い詰められたんです。戦争に行くようにヒトラーが追い詰められた。というのは、これは本当にヒトラーに分があったんですが、つまりポーランドとの、要するに最後の領土交渉ですね。それに対して簡単に言えば、ポーランドに対しアメリカとイギリスとフランスが絶対に妥協するな、ポーランドの独立は保証する、自分たちがポーランドを守ってやる、と言ったわけです。
 ヒトラーは、私からすればごくごく柔和的な提案といえますが、簡単に言えば、ダンツィヒというバルト海に面した、それのドイツへの返還です。90%以上がドイツ人で、もともとドイツ領ですから、それを返還してくれということ。
 もう一つは、ポーランド回廊と言われますが、ドイツ本土とそれからドイツ領の東プロシアですね。その間にポーランドが入り込んでいるわけです。そこがポーランド回廊と言われる地域ですが、これも元ドイツ領です。でもそのポーランド回廊を返せとは言わずに、そこに高速道路高速鉄道ですね。東プロシアと本土を結ぶ。それを建設させてくれという条件だった。それは飲めないはずないです。もともと自分の領土ではないドイツの領土だったところですから。ヒトラーはそのドイツ領土ですら返還は要求しなかった。これで飲めないはずがないわけですが、つまり米仏がバックにいたから飲まなかった。つまり空約束をポーランドは信じたわけです。
 それで何をやったかというと、国境地帯つまり旧ドイツ領にいるドイツ人を虐殺したんです。これなんか今とよく似たような状況です。歴史はだいたい繰り返すわけですが、役者は違っても繰り返すんですが、それでヒトラーも侵攻せざるを得なかった。
 ただそのときに皆さんもご存知の通り、ヒトラーはスターリンと密約を交わしていて、西半分はヒトラーが取る、それから東半分はスターリンが占領するという密約を交わしたわけです。これが有名な独ソ不可侵条約秘密議定書ですが、それに従って、その2週間後に今度はスターリンもポーランドの東半分を占領したわけです。
 ところがその時にアメリカも、ポーランドの独立を保証していたイギリスフランスも、それからポーランドの独立を守ると言っていたアメリカも、ソ連に宣戦布告しなかったわけです。だからポーランドは消滅したわけです。
 だからどういうふうになるのかということの一つの例なんです。だから私は、ヒトラーは1939年までは善政を敷いていた。これはほとんどが内政問題でしたから、ドイツ国民の福利のための政策をやっていたというふうに私は判断しておりますし、それはほぼ歴史的に間違いないんだと思いますが、このポーランドの戦争を強いられたというところから、ヒトラーの歯車が狂っていくということにもなるわけです。

※  第2次世界大戦の前にナチス・ヒトラーが世界侵略を企てているとの根拠なき誹謗中傷が欧米のメディアで連日のごとく繰り返されていました。米国のルーズヴェルト大統領や英国の有力政治家チャーチル(1939年のナチスのポーランド侵攻後に首相就任)などはヒトラーとの戦争は避けられないと決めつけて、折から行われていたドイツとポーランドとの交渉においてポーランドが決してドイツと妥協せず戦争するように執拗に働きかけていたのです。
 ヒトラーはベルサイユ条約によって不当に奪われたドイツ領の回復を目指していました。武装が禁じられていたラインラントへの進軍から始まって、同じドイツ民族国家であるオーストリアとの合併、チェコ・スロバキアのドイツ系住民の居住地域であるズデーテン地方の併合などを経て、最後の領土回復要求であるポーランドとの交渉に臨んでいました。
 ヒトラーの要求は極めて寛大でした。実質的な領土回復要求はバルト海に臨む港湾都市ダンチヒの返還のみでした。住民の9割がドイツ人であるダンチヒはポーランドに使用権がありましたが、国際連盟の管理下にあった国際都市です。その他は、ドイツからポーランドに割譲されたポーランド回廊におけるハイウェーと鉄道の建設でした。ドイツの飛び地である東プロシャとドイツ本土の間に位置する回廊における両者を結ぶ輸送路の建設で、ポーランド回廊のドイツへの返還ではなかったのです。
 この寛大な要求をポーランドが呑めないはずはありません。しかし、ポーランドは最後まで妥協しなかったのです。それには訳がありました。英仏がポーランドの安全を保障していたのです。つまり、ポーランドがヒトラーから侵略されれば、英仏はポーランド側にたってヒトラーと戦うといういわば白紙委任状でした。ポーランドは英米による独立保証を基に、ヒトラーに対し不相応な強硬姿勢をとったのです。英仏に加えてアメリカのルーズベルト大統領からも強力な応援がありました。
 ルーズヴェルトもヒトラーとの戦争を決めていました。イギリスのチェンバレン首相の頭越しに、強硬な反ヒトラー主義者であるチャーチルと接触して戦争熱を煽らせるとともに、チェンバレンからの和平へ向けてのルーズベルトの介入要請を拒否し続けました。ルーズベルトの特使であるブリット駐仏大使はルーズヴェルトの直々の指示に基づき、アメリカは必ずポーランドを支援するのでドイツと戦争するようポーランド政府に執拗に迫りました。アメリカの強い援軍を得て、ポーランドはドイツを不必要に刺激する挑発行動をとりました。ポーランド回廊のドイツ系住民の迫害・虐殺です。1939年9月1日のドイツによるポーランド侵攻の直前には、約6万人のドイツ系住民がポーランド軍などによって惨殺されました。ヒトラーにポーランド侵攻決断の最後の一押しになったのが、ドイツ人の虐殺だったのです。自国民保護という国際法上の大義名分でした。
 ドイツのポーランド侵攻の2週間後には、独ソ不可侵条約秘密議定書(1939年8月23日締結)に従い、スターリンのソ連がポーランドに侵攻し東半分を占領しました。ところがドイツには宣戦布告した英仏は何故かソ連には宣戦布告しませんでした。ポーランドの独立を保証していたにもかかわらずです。この歴史の謎は解明されてしかるべきでしょう。(「ウクライナ紛争 歴史は繰り返す」 馬渕睦夫 著 WAC出版 序章より P3 2022.5月出版(抜粋))

 開戦後ヒトラーは、アメリカのローズヴェルト大統領に調停を求めたが、拒絶されている。(早わかり 世界近現代史 宮崎正勝 日本実業出版社 P240)



〇 こうやって1939.9.3日第二次世界大戦が始まった。ドイツに対して宥和策をとっていたイギリスが突然ドイツに宣戦布告します。アメリカは、まだ出てきません。
しかしイギリスは、約10日遅れてソ連が独ソ不可侵条約にしたがって同じポーランドに侵攻しても、ソ連には宣戦布告をしません。ポーランドと相互援助条約を結んだことが宣戦布告の理由なら、同じ行動をとったソ連にも宣戦布告をすべきなのですが、そうはなりません。理屈が合わないのです。

 第二次大戦というのは、ヒトラーが宣戦布告したんじゃなく、ドイツがポーランドに侵入したというので、イギリスが宣戦布告したんです。ほとんど同時にソ連もポーランドに侵入しているのに。(日米戦争を起こしたのは誰か 加瀬英明他 勉誠出版 P64) 

 (米英は)、1939年にヒットラーを引っかけてポーランド侵攻させて第2次大戦を起こした。(金融世界大戦 田中宇 朝日新聞出版 2015.3月 P109)

 1939年3月末、イギリスとフランスが、ポーランドとルーマニアの独立を保証した。・・・・・・イギリスもフランスもポーランドを侵略から救いだす力がなかったにもかかわらず、その独立を保証した。・・・・・・第二次大戦のスタートは、ポーランドを保証するという失敗にある。それでイギリスはドイツに宣戦布告した。(日米戦争を起こしたのは誰か 加瀬英明他 勉誠出版 P88)



〇 当初はドイツが快進撃、ヨーロッパで強かった。日本は、ドイツにつこう、ということで、1940.9月日独伊三国軍事同盟を結びます。今、さきの流れだけを言っています。詳細はあとで言います。ここで日独伊が手を組んだ。

〇 すると、独ソ不可侵条約に倣おうということで、ノモンハン事件で敵であった日本とソ連が手を組んだ。これが1941.4月日ソ中立条約です。でもこれもフェイントです。

〇 しかし手を組んだはずのドイツとソ連が突然、戦いだす。1941.6月独ソ戦です。これがドイツとソ連のホンネです。日本は戸惑います。日本が、ソ連と1941.4月の日ソ中立条約で手を組んだとたん、その2ヶ月後の1941.6月に同盟国のドイツがソ連と戦う。独 VS ソ、です。また日本は翻弄されます。まだアメリカは出てきません。日本ともドイツとも、まだアメリカは敵になっていません。アメリカには参戦する理由がないからです。

〇 しかし、この1941.12月太平洋戦争が始まる。これが日 VS 米です。これで日本は決定ですね。これが突然だということです。ほとんど流れの中心ではない。この動きは、最後に突然出てくる。だから非常に理解しにくいんです。

〇 最後までいうと、日本とソ連の、日ソ中立条約がありながら、1945年、終戦まぎわにはソ連が対日参戦する。日 VS ソ、です。日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦してくる、ということです。
こういう流れを、次に内閣を追って説明します。

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【阿部信行内閣】(1939.8~40.1)
平沼騏一郎内閣が、1939.8月の独ソ不可侵条約の成立により「複雑怪奇」という言葉を残して総辞職したあと、総理大臣になったのが陸軍出身の阿部信行です。陸軍大将です。1939年8月28日に組閣を命じられ、2日後の8月30日に阿部信行内閣が成立します。
このとき昭和天皇からは、「英米との協調方針」を取ることとの異例の指示があります。外務大臣には、新米英派の海軍大将野村吉三郎が就任します。 


【第二次世界大戦勃発】 今言ったように、1939年8月30日の阿部内閣成立から2日後の9月1日、ドイツがポーランドに侵攻します。

するとその2日後の9月3日、イギリスは突然、ドイツに宣戦布告をした。1939年9月3日、海の向こうのヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発します。
この時には、まだ日本はドイツと軍事同盟を結んでいませんし、ヨーロッパの戦争と日本は関係ありません。日本は大戦不介入を表明します。日本は戦争に加わりません。

〇 さっきも言ったように、第二次世界大戦の直接のきっかけは、ドイツとソ連のポーランドへの侵攻です。ドイツとソ連が、それぞれ東と西からポーランドに侵攻したことに対して、イギリスがドイツに宣戦布告したのであって、ドイツがイギリスに宣戦布告したのではありません。
ドイツがイギリス領土に攻め込んだわけでもないのに、なぜイギリスがドイツに対して宣戦布告をするのか。イギリスとポーランドとの相互援助条約が理由とされますが、イギリスはそれまでドイツに対して宥和政策をとっていたのです。そのイギリスはドイツと外交交渉するでもなく、突然ドイツに宣戦布告をするのです。
しかもイギリスは、同じポーランドに侵攻したソ連には宣戦布告をせずに、ドイツにだけ宣戦布告をします。理屈が合いません。しかしここから第二次世界大戦が始まります。

〇 これにはヒトラー自身が驚きます。ヒトラーはこれで宣戦布告されるとは予想もしていないのです。だからヒトラーは、アメリカのルーズベルトに密かに、この宣戦布告を取り消すよう調停してくれることを頼みます。しかし、アメリカのルーズヴェルトは、素知らぬ顔で、一蹴りします。

 開戦後ヒトラーは、アメリカのローズヴェルト大統領に調停を求めたが、拒絶されている。(早わかり 世界近現代史 宮崎正勝 日本実業出版社 P240)

 ヒトラーは、ポーランド分割によりソ連と国境を接することを、イギリスは容認すると想定していました。しかし、イギリス国内でドイツに対する批判的な世論が形成され、それに押し切られる形で宣戦布告が行われました。ヒトラーにとってこの宣戦布告は「寝耳に水」というべきもので、ヒトラー自身にイギリスやフランスと開戦する意志はなく、ヒトラーは一方的に開戦を突きつけられることになりました。(世界一おもしろい世界史の授業 宇山卓栄 中経の文庫 P364)




〇 実はこの1939年にドイツは「帝国銀行法」によりドイツの中央銀行を国営化しています。イギリス・アメリカの中央銀行は国営ではなく民間銀行です。しかしドイツは国営銀行になりました。これによりドイツの通貨発行権はヒトラーが握ります。これにいちばん腹を立てたのは、イギリスやアメリカの国際金融資本家だったと言われます。

 (ナチス政府は)1937年に公布された「帝国銀行新秩序法」で、帝国銀行取締役会は直接国家元首に指導されることを規定し、その独立性が完全にはく奪された。・・・・・・
1939年に)ナチス政府は「帝国銀行法」を公布した。この法律で、金と紙幣の兌換を禁止する、・・・・・・中央銀行の政府融資額は「指導者と国家元首」が決める、などを定めた。これは、貨幣制度がロスチャイルドの「黄金の十字架」から自由を取り戻したことを意味した。こうして、ナチス政府による中央銀行の法律面と政治面の両方で国有化が完成した。国債銀行家の激しい反対を避けるため、ヒトラーは徐々に実行し、6年間をかけてようやく中央銀行の実権を握ったのである。(通貨戦争 宋鴻兵 ランダムハウスジャパン P297)
(筆者注) これは政府が紙幣発行権を握ったたこと。



〇 同月1939.9月、ソ連とのノモンハン事件は、日本が劣勢です。日本は、これは撤退だ、中止だ、と撤退させます。実質的には日本の関東軍が敗北しています。
1939.10月、価格等統制令を出します。中国とはすでに戦っていて、戦時経済に入っていきます。
国民の間には、戦時経済と物価高騰に対する不満が高まり、それに乗っかる形で、政党勢力が阿部内閣に対する批判を高めます。こういう中で阿部信行内閣は1940.1月に総辞職します。わずか5ヶ月の短命内閣です。



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【世界の状況】
【1940年】
 目をヨーロッパと世界に転じて見ると、1939年に第二次世界大戦が始まって約1年間はドイツが優勢です。ドイツの西隣にあるオランダをまずドイツが占領する。そのドイツの勢いに、イギリスは見る影もない。とっとと大陸から退散していく。フランスもそうです。
 イギリス軍は、ヨーロッパから去って、本国ブリテン島に帰っていく。
そのままドイツ軍は、フランスに入って首都パリを落とす。フランスは、あっという間にドイツに負けます。ドイツがフランスの大半を占領する。フランスは早々と降伏です。
フランスの中にも、フランスよりもドイツにつく人たちも出てくる。親ドイツ政権のヴィシー政府がフランスに成立する。

〇 翌年の1940.9月に、日本は北部仏印進駐を行う。ドイツの快進撃を見て、日本が北部フランス領インドシナ・・・・・・ここは今のベトナムです・・・・・・そこに日本は進出する。
こういうドイツ優勢の動きの中でその同月1940.9月に、日独伊三国軍事同盟が結ばれます。

〇 ドイツに降伏したフランスは、イギリスに逃げたフランス将軍が、フランス国民よ戦え、と呼びかけている。自分は逃げていてこう言うのも変なものですが、これがド・ゴールです。これをフランスの亡命政府という。
しかしド・ゴールはイギリス・フランスが勝ったあと、戦後のフランスを代表する大統領になっていく。ド・ゴール大統領です。しかしこの時はイギリスに逃げているんです。
それに対して、フランス人のなかには、ドゴール将軍の呼びかけに、ドイツと戦おう、という人たちが出てくる。この運動をレジスタンスという。抵抗という意味です。

〇 ちょうどこの頃イギリスは、前の首将のチェンバレンは、戦争反対だったけれども、戦争好きの首相が登場する。これがチャーチルです。これがアメリカのルーズベルト大統領と仲がいい。イギリスはドイツ軍に空爆されながらも、どうにか持ちこたえる。


【1941年】 ここから1941年です。日本はドイツにあわせて、ソ連と手を組む。これが1941.4月日ソ中立条約です。
しかしそのインクもかわかない2ヶ月後の1941.6月に、仲間になったはずのドイツとソ連が戦い始める。これが独ソ戦です。
どうなっているのか、日本は理屈が立ってないんですよ。日本はこうやって翻弄されていきます。ドイツがソ連に宣戦布告する。この理由は私も分からない。ヒトラーがソ連ぎらいであったとしか書いてない。なぜヒトラーがソ連が嫌いだったのか。政治家はそんなに好き嫌いでは動かない。今はヒトラーは極悪人になってるけれど、良い悪いは別にして、一応、名の通った一国の首相です。そんな好き嫌いでは動かないです。

〇 戦況はこれで変わる。今までドイツとソ連は仲間でした。それまでイギリスもソ連とはあまり仲が良くなかったんです。そのソ連がイギリスと手を組みます。これが1941.7月英ソ軍事同盟です。
これで実は半分はドイツの負けです。あとの半分が、イギリスがアメリカのルーズベルトを引っ張ってくる。これで決まりです。

〇 こののち、真珠湾攻撃の同年12月8日アメリカが参戦する。第一次世界大戦でアメリカがイギリス側に立って参戦したパターンと同じです。イギリスとアメリカは常にこうです。政治家が違うだけで、ストーリーは変わりません。
ソ連は、ロシアの民衆の抵抗も手伝って、ドイツ軍の進出を阻む。ソ連はドイツの東にあり、これでドイツの東部戦線は長期化していくわけです。


〇 独ソ戦に戻ります。独ソ戦の開始が1941.6月です。その1ヶ月後1941年7月28日に、日本は南部ベトナムに進出する。これを南部仏印進駐といいます。南部仏印とは南部ベトナムのことです。このときベトナムはフランスの植民地です。南部フランス領インドシナ進駐です。狙いは、インドネシアのスマトラ島に石油がある。アメリカは1939年に日本に、石油を売らなくてもいいんだよ、と言った。だから日本ははやく石油を確保しないといけない。

〇 するとその3日後の1941年8月1日に、アメリカは対日石油輸出禁止を発表します。石油を一滴も売らない、と決定したんです。これを日本は予想してたかというと、ア然とします。エッ何でだ、と。オレたちはアメリカに何かしたのか、という感じです。とにかくこれで石油が入ってこなくなった。石油備蓄は長くてあと1年です。日本は焦ります。

〇 このときの首相は近衛文麿です。近衛文麿は、ヒトラーが取った行動とほとんど同じです。ルーズベルトさん、これはどうにかならないでしょうか、二人で話し合いましょう、と日米のトップ会談を申し込む。しかしルーズベルトは、知らん顔で、また一蹴りする。

 (1941年)8月4日、(日本の)近衛首相は陸海軍大臣と協議し、ルーズベルト大統領との直接会談の道を探ると発表した。引き続き和平の条件を探るという決定は、海軍の支持を得、陸軍も同意していた。天皇は、できるだけ早く大統領との会見に臨むよう指示した。8月8日、東京からの指示に基づいて、野村大使はハル国務長官に対して、ルーズベルト大統領との首脳会談を正式に申し入れた。・・・・・・
大西洋憲章を話し合った時期(1941年8月9日から14日)には、チャーチルもルーズベルトも日本の動きがわかっていた。二人は日本に対して何らかの行動を起こすことを決めていた。近衛首相の提案を無視した上で、日本に対して強い警告を発することを決めた。(裏切られた自由 上 ハーバート・フーバー 草思社 P472)

 1941.9月ルーズベルトは、日本の近衛総理大臣の和平の提案を受け入れ拒否した。(日米戦争を起こしたのは誰か 加瀬英明他 勉誠出版 P102)



〇 一蹴りしてすぐ、その約10日後にイギリスのチャーチルと会うんです。このへんは日付を追わないと分かりません。3日で情勢が変わる。ルーズベルトはチャーチルと会って1941年8月12日太平洋憲章を発表する。
イギリスはこのときまだドイツに負け続けているんです。負けているのに、この大西洋憲章は勝ったあとの予定を話し合っているんです。アメリカ大統領と。
しかもアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦していません。戦ってもいないアメリカと、第二次世界大戦でイギリスが勝ったあとのことを話し合います。これは不自然です。
そしてそこで、この戦いはドイツという悪のファシズムとの戦いだ、と戦争の意味づけと正当化を行います。このドイツのファシズムを懲らしめるために、俺たちアメリカとイギリスは、民主国家として立ち向かうんだ、とアメリカ・イギリスは言います。

〇 さらにここで、勝てば新しい国際組織である国際連合をつくろうということまで決めます。今までの国際連盟はヨーロッパのスイスにあります。今度はアメリカのニューヨークにつくろうという。ニューヨークにはそれだけの空き地がない。それは心配しなくてもいい、大金持ちが寄付しますから、という。これがロックフェラー財閥です。ロックフェラーの私有地がボーンと寄付される。世界平和のためだという。でもお金持ちほど、儲からないことはしないんです。

〇 つまりここで三大国家、米英ソが手を組んでいるんです。これでほぼ決まりです。蒋介石の中国も米英側につきます。そのあとは、どうやってアメリカが参戦するか。その理由作りです。
ソ連のスターリンは、イギリスが嫌う世界革命路線、これを放棄する。イギリスとアメリカは、よしよし、それでいいんだ、仲良くしましょう、とロシアにいう。
日本が太平洋戦争に突入する前に、こういう状況がすでにでき上がっています。

 チャーチルとルーズベルトは、太平洋戦争前の1941年8月に大西洋憲章を調印しますが、その時点でアメリカの参戦について話し合っていたことが、明らかになっています。(太平洋戦争の大嘘 藤井厳喜 ダイレクト出版 P65)


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