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新「授業でいえない日本史」 34話 20C前半 日露戦争後の外交~大正政変

2020-10-24 09:18:36 | 新日本史5 20C前半
【日露戦争後の外交】
日露戦争後の外交にいきます。桂太郎内閣まで行って日露戦争、そこでロシアに勝った。
日露戦争のねらいはどこか。日清戦争もですけど、朝鮮をめぐってなんです。日本が北から攻められる。これ何回も言うけれども、ミサイルがない時代です。

日本を攻める場合、一番攻めやすいのはこの朝鮮半島からです。だからここは日本の生命線で、もう一つ安全策をとろうとすると、やっぱりここまで必要だというのが満州です。「満州は日本の生命線」とよく言われるようになります。


【韓国】 まず韓国です。日本は、日露戦争中の1904年から第1次日韓協約を結び、朝鮮に対して日本の軍事顧問、外交顧問、財政顧問を派遣する。
その翌年1905年には、第2次日韓協約を結びます。日露戦争で勝って、日本はまず韓国の外交権を掌握する。内政面では、朝鮮の統治のために日本の役所を朝鮮に置く。これを韓国統監府といいます。その初代長官に着いたのが伊藤博文です。このとき伊藤はすでに60才を超え、政治の第一線から退いて元老といわれる立場にあります。いわば隠居に近い立場にあります。こういう人が外地の第一戦に出て行くということは、かなり異例な人事です。
これに対して、朝鮮側が反発した事件が起こります。オランダのハーグで開かれた国際会議に、オレたちの国に日本はこう乗り込んで来ているというのを、訴えに行ったハーグ密使事件が起こり、これで日韓関係また悪くなる。
その2年後の1907年には、第3次日韓協約が結ばれて、正式に朝鮮の内政権つまり行政権まで、日本は手に入れます。

この頃から日本に対する反対運動も朝鮮国内で起こります。荒っぽい人たちが武装化して、日本に対して闘争を行う。これを義兵闘争という。
1909年に韓国統監府の初代長官伊藤博文が、ハルピン駅に降り立ったところを朝鮮人によって暗殺されます。伊藤博文暗殺です。こうやって伊藤は最後は暗殺されます。その犯人が安重根です。安重根は逮捕されて死刑になりますが、伊藤暗殺の理由として述べた裁判での法廷証言で、ここでは言いませんが、不思議なことを言っています。

朝鮮では、安重根は今では歴史上の英雄です。伊藤博文は極悪人です。日本では、伊藤博文は、4回も総理大臣になった明治の元勲です。彼を殺した安重根は殺人犯です。教えられることが逆なんですよ。この伊藤暗殺をきっかけにして、朝鮮を併合しないと、ちゃんとした朝鮮の統治はできなくなる、という意見が高まってくる。

翌年1910年日韓併合条約が結ばれる。これは日本が勝手にやったんじゃなくて、それを中国、ヨーロッパ、アメリカなどの国際社会が承認します。これで国際社会に認められている。植民地なんか認めない、そんなこと言うとヨーロッパ自体がアジアやアフリカなどにいっぱい植民地を持っているから、これをダメとは言えないわけです。
朝鮮国内の統治機関も名前を変えて、1910年に朝鮮総督府とする。長官には、寺内正毅という陸軍大将がなります。この人は国内に戻って、このあと内閣総理大臣になります。朝鮮・満州は、日本の重要地点と位置づけられます。


【満州】 さらに、朝鮮だけだと軍事面で不安が残る。その北方の満州も支配下に置きたい。そこで1906年に、満州に関東都督府を置きます。この関東は、日本の関東じゃない。満州の関東です。たまたま満州に関東地域というのがあった。
これが1906年で、約10年後に、この関東都督府は行政部門と軍事部門に分かれます。行政部門は関東庁になり、軍事部門は関東軍になる。ここは日本のエリート軍人の集まりになります。先のことを言うと、日本が中国それからアメリカと戦争に突っ走っていくのは、このエリート軍人の関東軍です。内閣の意向など聞かない。しかも統帥権の独立があるから。内閣から命令されたら、こら誰に向かって言っているのか、という。

経済面では、日本の東海道本線より長いような鉄道をつくる。これが南満州鉄道という大鉄道です。それを運営する南満州鉄道株式会社を設立する。資本の半分は日本政府の出資です。こういうのを半官半民という。しかも単なる鉄道会社じゃなくて、製鉄会社とか、いろんな会社を併合した大財閥です。一大コンツェルンです。日本の産業界のトップ企業にまで成長していく。満鉄本社は大連につくられます。日本は、旅順・大連をまず取ったんです。


【アメリカ】 日本がこうやって、急速に朝鮮・満州に勢力を及ぼしていく一方で、これに不満をもったのがアメリカです。
まずアメリカは、イギリスと同じで、日本が勝つなんて思ってなかった。日本が勝ってしまった。これがまず番狂わせです。予定としては日本が負けて、ロシアが勝つ。しかし、日本もそこそこ戦おうから、ロシアが弱るだろう。弱ったところでイギリスがロシアを叩けばロシアは負ける。日本の勝利で、その予定がくずれた。
日本が勝ったら、はやくストップさせて早く戦争をやめさせないといけない、となる。それがポーツマス条約です。
日本がこうやって朝鮮・満州に進出していくと、アメリカはこの満州問題で日本と対立する。そこから日米関係が悪化していきます。

前にも言ったから、サラッと行くけど、実はアメリカも中国に進出したいのです。とくに満州に。太平洋を西へ西へと進み、ハワイに進出してここを植民地にする。ハワイにはカメハメハ王朝という王国がありました。このカメハメハ王朝は、日本の天皇陛下に会いに来て、どうにか救ってもらえないかと頼みに来ます。天皇陛下は、ごめんなさい、助けたいけれども、日本にはその力がない、というんです。だから無念ですが、ハワイはアメリカの領土になります。
次がグァム、今の沖縄米軍基地の東の島です。そこにも米軍基地があります。
そしてフィリピンを領有する。このフィリピン総督がマッカーサー一族です。戦後日本を180度作りかえていく総督です。この時は父親です。40年後に日本に乗り込んできたのは息子です。ダグラス・マッカーサーです。もともとフィリピン総督なんです。
1899年には、門戸開放宣言を出しています。みんなで分けあいましょう、と。本当はアメリカが取りたいわけです。こういう中で、日米対立が深まっていく。
このことが日本でピカドンと原爆が落ちることの説明の半分と思っていいです。満州問題で日米対立が起こります。

1905年に、移民の国アメリカで唯一、お前たちは移民とは認めない、と指定されたのが日本人です。日本人移民排斥問題です。アメリカは、お父さんお母さんが子供産んで人口を増やした国じゃない。ヨーロッパからの移民、東南アジアからの移民、中国からの移民ですよ。アメリカのサンフランシスコにはチャイナタウンもある。なぜか日本人だけは移民はダメ、来るな、となる。それは日本の満州政策への反発からです。

それをどうにか取り持とうと、アメリカさん、日本さん、手を組みましょう、という一時的な解決が、桂太郎首相とアメリカの国務長官タフトという人のあいだで、協定が結ばれた。アメリカは日本の韓国領有を認める。その代わり、日本はアメリカのフィリピンは認める。これでお相子じゃないの、ということで一旦手を握る。
しかしこれに反発したのが、アメリカの大鉄道王ハリマンです。ハリマンは、満州に鉄道を敷きたくてたまらないんです。ここは儲かると。それを日本が先に手を打って南満州鉄道を通した。ここでハリマンが腹を立てる。ハリマンの計画ができなくなったから。

その後のアメリカの国防総省は、オレンジ計画という・・・・・・オレンジジュースみたいですが・・・・・・実は日本侵略計画を立てる。太平洋戦争の40年も前の段階でです。アメリカには、こういう計画がすでにできあがっていた、ということが戦後に分かります。

さらにこの1924年には、アメリカで日本人を排斥する法律がつくられる。排日移民法の成立です。これはアメリカの法律です。排日移民法というのは。日本人のアメリカへの移民はダメということです。アメリカは移民の国だから、どこからの移民もオーケーのはずなのに。


【ロシア】 ではロシアです。ロシアとは決着ついた。日露戦争に負けて、ロシアは満州から撤退した。撤退してもう敵意がない国とは手を組んだほうが早い。日本は早々と手を組みます。日露協約を結ぶ。ポーツマス条約の2年後、1907年です。これで日露関係は改善されます。だから10年もたたずに、コロコロ国際情勢が変わる。変わって、そういう変化に頭のなかがついていかないと、外国に取り残されていく。

あとは、宿敵だったイギリスとロシアが、日露戦争でロシアが負けることによって、手を組む。この対立はグレートゲームといわれてきた。1800年代の後半、イギリスとロシアというのはずっと対立していた。これが日露戦争をきっかけに協商を組んだ。1907年英露協商の成立です。

前に半分いったけど、これが世界を揺るがす第一次世界大戦のほぼ半分の説明です。
あと、ここにフランスが加わりさえすればいいですが、すでにフランスは加わっている。ロシアとフランスの間には、すでに1891年に露仏同盟があります。1891年の露仏同盟、1904年の英仏協商、1907年の英露協商、この3つの条約によってイギリスを中心とする三国協商が成立します。


(三国協商)


ドイツだけが取り残される。第一次大戦というのは、イギリス対ドイツの対立です。イギリスの三国協商とドイツの三国同盟の戦いです。日本はこの時、日英同盟でイギリス側、勝つ側に回ります。


しかし20年後の1920年代には、ドイツと同じように外されていく、ことになります。


【中国】 そういった時に、お隣の中国、眠れる獅子といわれた清朝が、1911年に滅んだ。これが辛亥の年だったから、辛亥革命(しんがいかくめい)という。指導した人は孫文です。本業は医者なんですけど、嫁さんが宋慶麗という大財閥のお嬢様です。だから資金源はたっぷりです。浙江財閥といって、中国一の財閥のお嬢さんです。
日本が清と戦った日清戦争以降、この人は医者もそっちのけで、清朝を倒すための政治結社をつくり始めた。日清戦争が起こった年の1894年に興中会をつくります。そして日本がロシアにまで勝った1905年には、名前を中国革命同盟会と変える。これで一目で目的がはっきりした。興中会では見ただけでは何なのか分からない。中国革命という意味は、反清朝です。この中国革命同盟会は、どこで結成されたか。このとき東洋の中心は東京です。アジアで日本だけが近代化に成功している。その近代化のモデルになっている。

そして、清朝が倒れて成立した国が、翌年1912年成立の中華民国です。臨時大総統に孫文が就任します。でもこれが今の中国ではない。中華民国は今どこにありますか。今の台湾です。台湾はいま中国とは別の国として中華民国を名乗っています。いま2つの中国とか、台中関係とかいう問題がありますが、ここらへんから発生します。この事情が分からないと中国関係はなかなか分からない。

ただ孫文は中華民国の臨時大総統になりますが、軍事を持たなかった。軍事を持っていたのは、清朝の家来の軍閥です。孫文に、オレと交代してくれ、大総統はオレがやる、という。これが袁世凱です。そうなると、イヤ袁世凱じゃなくてオレだろ、という軍閥がいっぱい出てきて、この国はまとまらない。軍閥割拠の状態になります。このように国がまとまらないなかで、この中国に介入しようとしたのが、日本、イギリス、アメリカです。しかしそれぞれ応援するところが違う。それでまた喧嘩する。仲が悪くなっていく。





【桂園時代2】
いま外交だったけれど、こういうことが起こったときの内閣を見ていきます。この時代は、桂太郎と西園寺公望が、約12年間、交代交代で内閣総理大臣をつとめた時代で桂園時代といいます。日露戦争時の内閣は、山県有朋系の桂太郎内閣だった。それが日比谷焼き討ち事件でつぶれた。



【西園寺公望内閣】(1906.1~08.7)
その後をうけて、1906年西園寺公望内閣が成立します。この内閣は伊藤博文系です。西園寺公望は、伊藤博文の後を引き継いだ立憲政友会の総裁です。だから与党は立憲政友会です。この内閣は、1年半で潰れます。どちらかというと、軍隊をバックにもつ軍人の桂太郎が強いです。


このとき副首相格の内務大臣になるのが、のちに首相として本格的な政党政治をはじめる原敬(はらたかし)です。原敬はこのあと立憲政友会の幹部として、また西園寺公望の右腕として、存在感を強めていきます。

大隈重信系の憲政本党は、立憲政友会をしのぐことができず、このあとしばらくは政権を取ることができません。

時代は薩摩・長州の藩閥政府から、山県系の桂と伊藤系の西園寺の長州系同士の対立となり桂園時代へと移っています。薩摩閥は長州勢に追い出される形で、勢力を弱めていきます。



【桂太郎内閣②】(1908.7~11.8)
1908年第2次桂太郎内閣が成立します。日露戦争から4年後です。
さっきの外交面では、内閣をとばして言ったたけれども、1909年に伊藤博文が暗殺されたのも、そのあとの1910年の日韓併合条約も、この桂太郎内閣の時です。

その年に朝鮮総督府を設置した。この朝鮮総督府の建物は、戦後もずっと韓国に残っていた。国会議事堂みたいな、立派な建物でした。これがつぶされたのは、戦後50年も経った1995年です。それがなんで取り壊されたか。今の日韓関係は良くないからです。現在の政治にも尾を引いています。

それから、この内閣、1911年に長年の不平等条約であった関税自主権の回復を行う。今の自由貿易のルールと違って、この時代は、輸入する側は自国産業の保護のために外国製品に対して自由に関税をかけるのが普通です。そのことをまず理解してください。しかし、戦後になって、自由貿易にして関税なくそうという流れが50~60年続き、それがまたトランプ大統領になって、アメリカは国内産業の保護のためにまた関税をかけると言っています。
そこまではいいですけど、自由に関税をかけてよかったら、中国だって自由に関税をかけたいでしょ。トランプはなぜ関税をかけるのかと言う。ここが合わないです。これで米中関係が、いま悪くなっている。一歩違うと景気が悪くなる。そんな短絡的な問題ではなくても、なんかいま変化しています。少なくとも、50年ぶりぐらいの戦後の変節期ではあります。でもこれはここでの話ではありません。

その関税自主権回復の条約が1911年の日米通商航海条約です。これは小村寿太郎です。一生懸命にポーツマス条約を結んだ人です。今の政治家だったら自己弁護をするけれども、この人は、賠償金が取れなくて石投げられても、それでも内情を明かさないんです。日本には余力がなかった。金庫の中もすっからかんだった。でもそれを言うと、国民が不安がって日本がどうなるか分からないから、グッと我慢して言わないんですよ。そして自分が悪者になる。そこらへんが泣けるところです。昔の人は偉かった、と思うところです。

これとはまったく違った話ですが、この桂太郎内閣時の1911年に、天皇家の正統性に関する南北朝正閏論で、意外なことに政府は南朝を正統とします。南北朝というのは、室町期の南北朝時代のことです。今の天皇家は北朝なんです。しかし政府は逆に南朝を歴史的に正統だとしました。しかしこのことはずっとくすぶっていた問題で、今まで触れてきませんでしたが、明治政府は早くから南朝を正統だとしてきました。それが表面化したのがこの時で、政府はやはり南朝を正統だとしました。これは不思議なことです。1911年、明治天皇みずからも南朝を正統とし、その翌年の1912年の7月に亡くなります。



【西園寺公望内閣②】(1911.8~12.12)
桂太郎の次に、1911.8月に2回目の西園寺公望内閣が成立します。同じ年の1911.10月に中国に大激変が起こり、300年続いた清朝が倒れた。辛亥革命の勃発です。
この辛亥革命に対して、軍部は、満州まで進出したい。実際このあと30~40年かかって、そのとおりなっていく。しかしそうするためには、まず軍隊を増員しないといけない。軍隊を増員するためには、お金がかかる。
そういう軍隊増設の要求を陸軍がするんです。軍隊の数え方は、1個師団、2個師団という。陸軍は2個師団、増やしてくれ、という。二個師団増設要求を西園寺内閣に対して、陸軍が行う。
しかし西園寺は、お金がない、と断る。すると軍部は、こんなチャンスを逃していいのか、と言う。これに対して西園寺は、先立つものがない、お金がない、このあいだまでロシアと戦って金庫には何もない、と拒否するんです。
これ以上したら、日本がひからびてしまう。まず国内の行政をきちっと行い、財政拡充が優先だ、という。

ここから内閣と陸軍と対立していきます。軍部と対立して、内閣の大臣、陸軍大臣がオレは辞める、という。辞めていいよ、何の関係もないじゃないか。ところが、どういう制度があったか。軍部大臣現役武官制という非常に政治的なトリックがあるんですね。
軍部大臣というのは、陸軍大臣と海軍大臣です。そこに座れるのは、現役つまり定年退職してない武官、今でいう自衛官です。軍人です。それでないといけない。軍部は軍部で、独自の組織があって、そのなかのドンが、おまえ陸軍大臣になっておけ、と命令する。

しかし陸軍が腹を立てたら、おまえたち分かってるな、オレの前で椅子に座ったら承知しないぞ、という。すると内閣総理大臣から、陸軍大臣なってください、と言われても、直属の軍部の親分が怖くて誰も座れない。イスが埋まらなかったら、総理大臣は組閣能力がない、ということでクビになる。1912年、これで西園寺内閣はつぶれた。

軍部大臣現役武官制のために、西園寺公望内閣は総辞職せざるを得なくなった。つまり軍部が腹を立てると、内閣がつぶれるという事態になった。つまり最高権力者であるはずの内閣総理大臣の上に軍部があることになる。軍部が内閣をつぶすことができる制度になっているんです。ただこれが民主的なのかな、という疑問は残ります。



【桂太郎内閣③】(1912.12~13.2)
それでその陸軍のドンが出てくる。桂太郎が陸軍のドンです。同じ1912.12月です。第3次桂太郎内閣です。これに対して、これはおかしいんじゃないか、という反対運動が当初から起こる。そこに民衆も気づいたんです。当時の民衆は政治を理解しているんですね。この民衆の疑問があったから、政治家が成功するんです。逆に政治家が無理に焚きつけようとしても、民衆が踊らなかったら、うまくいかないです。ここで政治家が、第一次護憲運動というのをキャッチフレーズとして打ち出す。言葉通りとらえれば、憲法を守ろうという運動です。1912.12月からの動きです。


この目的は、この軍部のやり方が本当に大日本帝国憲法の趣旨に沿っているのか。これを国民に問う、ということです。当時の有権者は、ここで内閣がつぶれることの政治の意味を分かっていた。
この運動の指導者は、前に政党系図でやったけれども、そして日本の政党政治には二つの政党がある。立憲国民党立憲政友会です。憲政本党は立憲国民党と名前を変えています。これはライバル同士だから、めったに手を組まないんだけれども、共通の敵である軍部に対しては、対立を乗り越えて手を組もうじゃないかと、話がまとまったんです。このまとめた政治家が二人います。
一人は立憲国民党犬養毅です。この人は、このあと昭和になって首相になり暗殺されたことで有名になります。もう一人は、立憲政友会尾崎行雄という人物です。

立憲政友会総裁の西園寺公望はこの時、大正天皇から「内閣に反対するのをやめるように」と言われますが、それを断るために、立憲政友会総裁を辞職します。その後任として立憲政友会総裁の職に就いたのが原敬です。

(政党系図)


この2人が手を組むことによって国民運動が盛り上がる。スローガンは、閥族打破です。閥族は軍部です。それともう一つが憲政擁護です。憲法による政治、つまり政党政治を目指すと言うことです。この時代の憲法も運用次第によってはこういうことがができる。それを目指そうということです。二つ合わせて、閥族打破、憲政擁護、です。


さらにこれを応援したのが、薩摩出身の海軍軍人、山本権兵衛です。勢力を弱めていた薩摩閥の海軍は、ここで政党に近づくことになります。この人は次の首相になります。海軍は薩摩の勢力の強いところで「薩の海軍」と呼ばれていますが、薩摩出身の首相はこの人が最後になります。
その前の薩摩出身の首相としては日本銀行や金本位制をつくった金融関係に強かった松方正義がいますが、そのあと松方自身は元老となって力を保持しますが、松方系の政治家が首相になることはありません。それよりも薩摩閥は海軍を拠点としていきます。

陸軍を拠点とする政府側の桂太郎は、立憲国民党を切り崩して、仲間割れさせようとします。立憲国民党を離れてオレに着かないか、ということで、新しい政党をつくるんです。これを立憲同志会といいます。正式な成立は、のちの1913.12月です。

こうやって政党の動きを政府が切り崩そうとした時に、決めては民衆です。軍部はちょっとおかしくないかと、民衆が暴動をおこしていく。東京中心に暴動が拡がり、石投げていく、ということが起こる。別に石を投げろといってるわけじゃないんだけれども、これで、おさまりがつかなくなる。これをおさめるためには、一つには中国流に戦車を出動させて、警官隊に発砲させて鎮圧するという方法もある。これ君たちが生まれ前の、中国の天安門事件というのは、これだった。

しかし日本はそこまでしない。桂太郎は、これは自分が辞めるしかない、ということで辞任します。1913.2月のことです。1912.7月に大正と改元されて、まだ1年も経ちません。これを大正政変といいます。このことの政治的な意味は、国民の運動によって、つまり民意によって、政権を変えることができた、ということです。この内閣は最短記録53日で終わります。

これを世界史的に見るとどうか。中国の辛亥革命に乗り込むために、陸軍を二個師団増設させようとした陸軍の意図は、これによって失敗した。つまりこの段階では、日本は中国に干渉していないということです。

1年ずれたけれども、ここまでがほぼ明治の終わりです。明治は1911年までです。
次から大正時代に入っていきます。世界史で言うと、1910年代のビックイベントは第1次世界大戦です。1914年です。基本は、1894年、1904年、1914年、この順に日清、日露、第1次大戦です。これ以上覚えやすい戦争の起こり方はないですね。
第2次世界大戦は1939年です。頭の整理てもしておいてください。どっちみち戦争への道は複雑極まりないです。たどればたどるほど、わけが分からなくなっていっていくようなところがあります。しっかり見ないとだまされたりもします。
太平洋戦争というのは日米戦争とのことで、第二次世界大戦の地域戦です。これは2年遅れで1941年から始まります。この1939年と1941年を混乱する人もいて、頭の中の序列が混乱していく。そういうところに入って行きます。



【内閣覚え方】 「カサカサカ
カ 桂太郎内閣①
サ 西園寺公望内閣①
カ 桂太郎内閣②
サ 西園寺公望内閣②
カ 桂太郎内閣③





【アメリカの状況】 
ここでアメリカの状況を見ると、いま世界は第一次世界大戦に向かっています。1914年、いよいよ第一次世界大戦が勃発します。
 そのころアメリカでは中央銀行をつくろうとする計画が密かに進んでいます。金融資本家たちはこの中央銀行の設立のため、人目をはばかるように密議をこらしていたという話もあります。彼ら金融資本家たちの中心にいたのが欧州のユダヤ人財閥ロスチャイルド家です。しかし今まで言ったとおり、アメリカ人の多くは中央銀行の設立をのぞんではいません。
 そこで1907年にアメリカにまた恐慌が発生します。



 1907年アメリカの恐慌は、仕組まれたものであった。それはニューヨークの準備銀行が、彼らの預金者である地方銀行に通貨を支払うことを拒否したことから起こり、そのためこれらの地方銀行は、今度は自分たちの顧客の預金引き出しを拒否する必要が生じたのである。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P244)

 1907年、ニューヨークの中堅銀行のニッカ-・ボッカーがモルガンたちの仕組んだ風評によって倒産に追い込まれて、銀行恐慌が勃発します。これらの一連の動きの中で、モルガンやロックフェラーと気脈を通じたセオドア・ルーズベルト大統領が財閥の市場独占を禁止する反トラスト法の停止を宣言すると恐慌はおさまり、銀行業務は正常化されます。モルガンやロックフェラー財閥は反トラスト法停止の下で、ライバル会社を倒産させたり買収したりして独占的地位を強化します。(国難の正体 馬渕睦夫 ビジネス社 P109)



 1912年には、アメリカの大統領が共和党のタフトから民主党のウィルソンに変わります。ウィルソンの本業は学者であって、政治家ではありません。彼は大統領になるため、イギリス系の金融資本家から援助を受け、そのことによって大統領に当選します。
 その前の大統領は共和党のタフトでした。この大統領選で、共和党の大統領タフトの対抗馬として、同じ共和党の元大統領セオドア・ルーズベルトが第3政党として進歩党をつくり、共和党の票を分裂させました。このような不自然な動きの中で民主党のウィルソンが勝利し、大統領に就任します。


 ロシア政府は、村落在住のユダヤ人の活動が、田舎の人々を搾取していると考えていた。アメリカのユダヤ人銀行家たちは、ロシアに対して宣戦布告することをアメリカ大統領に要求したが、大統領のタフトは拒否した。彼らは次の大統領選で共和党を分裂させ、民主党のウィルソンを選出した。(世界権力構造の秘密 ユースタス・マリンズ 日本文芸社 P190) 


 第一次世界大戦の1年前、1913年に・・・・・・「たまたまだ」とアメリカは言うけれど・・・・・・アメリカは中央銀行をつくります。これで紙のお金が自由に印刷できるようになった。金貨と違い、紙のお金はいくらでも印刷できます。戦争で一番必要なのは何か。大砲とかミサイルとかはもちろん必要ですが、それは軍人に任せておけばよいことです。政治家にとって戦争で一番必要なものは何か。お金です。そのお金を作る場所、これがアメリカの中央銀行FRB)です。
 しかもこれが銀行という名前になってない。連邦準備制度という訳のわからない名前になってる。「わざと」そういう名前にしたという話さえあります。これは日本で言えば日本銀行のことです。アメリカ版の日本銀行です。
 我々の1万円札は正式名称は「お金」ではありません。「日本銀行券」です。これは政府がつくったお金ではありません。中央銀行という民間銀行が作ったお金です。この銀行は民間の金持ちがつくったものであって、政府がつくったものではありません。2大財閥として、ロックフェラー財閥、それからモルガン財閥です。これは今でもあるアメリカの財閥です。FRBは彼らの民間資本によってつくられた銀行です。こうやって国家の裏にドカンと金融資本家が居座わります。

 この中央銀行によって第一次世界大戦の資金が湯水のようにヨーロッパに供給されます。 

 連邦準備制度理事会というアメリカの中央銀行(FRB)設立の署名をしたのは、この新しい大統領のウィルソン大統領です。のちに彼はこのことを「うかつだった」と後悔しています。


 ウッドロー・ウィルソンは、晩年になって連邦準備制度設立に加担したことを後悔して、こう言い残しています。

私はうっかりして、自分の国を滅亡させてしまいました。大きな産業国家は、その国自身のクレジットシステムによって管理されています。私たちのクレジットシステムは一点に集結しました。したがって国家の成長と私たちのすべての活動は、ほんのわずかな人たちの手の中にあります。私たちは文明開化した世界においての支配された政治、ほとんど完全に管理された最悪の統治の国に陥ったのです。」(金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った 安部芳裕 徳間書店 P140)

 1900年初頭、ロスチャイルド家は、ハウスをヨーロッパに送って銀行家が政治家を支配する実情を学ばせた。・・・・・・ ハウスは、最初ウィルソンを大統領選で勝利させることを任務としていたが、のち外交関係に関わった。(ロスチャイルドの密謀 ジョン・コールマン 成甲書房 P226)



FRBの株主構成



 1913.12.23日というクリスマスの前日に、多くの議員がクリスマス休暇で欠席している中、この中央銀行設立の法案は議会を通過します。
 中央銀行は発券銀行です。つまりお金をつくるところです。お金をつくるのは国家ではありません。中央銀行です。お金をつくる力を手に入れた者は、巨万の富を手に入れます。お金を人に貸すことによって人を操るのです。


 そもそも FRS(連邦準備制度) が生まれた理由の一つは、議会が税を徴収していると市民に悟られずに財政資金を手に入れるためだったことを忘れてはならない。この搾取にアメリカ人が驚くほど無関心なのは、マンドレーク・メカニズムの仕組みが全くわかっていないからだろう。・・・・・・政府は FRS を通じて国債を貨幣化するだけで、必要な資金を手に入れられる。(マネーを生みだす怪物 G・エドワード・グリフィン 草思社 P253~254)

 ユースタス・マリンズ著「連邦準備制度の秘密」(邦訳「民間が保有する中央銀行」面影橋出版)は、ロスチャイルド家イングランド銀行を支配し、イングランド銀行を通じて「シティ」を支配し、イングランド銀行=シティを通して米国 FRB を支配し、 FRBを通して米国の通貨=マネーを支配する構造を完成したことを詳しく論評している。(ロスチャイルドの密謀 太田龍 成甲書房 P402)

 憲法を無視した犯罪的法案、つまり連邦準備法案の可決によって、ロスチャイルド家ウィルソンを介してアメリカを第一次世界大戦に引き入れることに成功した。(ロスチャイルドの滅亡 ジョン・コールマン 成甲書房 P246)

 アメリカ連邦準備制度がなければ、第一次大戦は起きなかった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P133)

 FRBの設立でアメリカは大量のドルを刷って戦費を捻出し、また他国へ貸し出しすることができるようになりました。(世界を操るグローバリズムの洗脳を解く 馬渕睦夫 悟空出版 P64)


 (アメリカが)ヨーロッパの戦争を援護するために大規模な連邦債を発行したことで、国内で流通する通貨量が激減した。ここで中央銀行がその威力を現した。アメリカ政府は連邦債務を大量に発行し、それをまた FRB が驚くほどの貪欲さでのみ込み、その後は巨額の連邦準備券、つまりドル紙幣が洪水のように市場に溢れ出たのだ。こうして、ヨーロッパのための戦争債券によってもたらされたデフレは補われたが、その代償として、連邦債は一直線に増加し、 FRS が発足してからわずか4年(1916~20年)の間に、10億ドルから250億ドルへと25倍にまで膨らんでいった。(ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 宋鴻兵 ランダムハウス講談社 P139) 


 戦争するときにはお金が必要になります。そのお金をつくる力がユダヤ人財閥を中心とするアメリカの金融資本家の手に入ったのです。

これで終わります。

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