ひょうきちの疑問

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新「授業でいえない日本史」 37話 20C前半 ドイツの状況・関東大震災~金融恐慌

2020-10-24 09:15:00 | 新日本史5 20C前半
【ドイツの状況】
前にも少しいいましたが、ここらへんは、世界の動きとリンクしないとわからないです。第一次世界大戦で負けた国はドイツです。正式にはもうドイツと言わない。1919年にヴァイマール共和国に変わる。このときのドイツは、ヴァイマール共和国またはワイマール共和国という。皇帝は逃げていったから、王政でもなくなった。
そしてそこでは米英中心に・・・・・・半ば日本国憲法と似ていますが・・・・・・新しい憲法をつくりなさい、と押しつけられたんです。世界で一番民主的な憲法と当時は言われた。これが1919年のヴァイマール憲法です。これが戦後すぐできる。


【大インフレーション】 しかしこれでうまくいくかというと、莫大な額の賠償金を科せられたドイツは、なかなかそれを払えない。払えないことに対してフランスが腹を立て、1923年にドイツのルール地方に軍事侵攻してそこを占領した。
それに対して、ドイツの大量の労働者がストライキを打って働かなくなった。そうすると、ドイツの物価が、2倍、3倍どころか、1兆倍になった。大インフレーションが起こる。これが1923年です。このことの庶民にとっての意味は、一生懸命1万円ずつ貯めていて、銀行に預けた100万円の預金額が、パン一個が1兆円するようになると、何の価値もないようになる。国民の資産が奪われていった。
その対策として、シュトレーゼマン内閣のもとで、1923.11月に、1兆マルクを1マルクの紙幣と交換する。これで100万円なんか、ほとんどないに等しいですね。こういうふう金融手法を使って、インフレーション自体は収束したんだけれども、ヴァイマール共和国とはいったい何なのか。自分が貯めた100万円が一気に吹っ飛ぶ、こういう国というのはいったい何なのか、と不満が高まってくる。
ドイツでは、大インフレーションに揺れるヴァイマール共和国への不満から、同月の1923.11月にヒトラーがミュンヘン一揆という軍事行動を起こしています。このころからヒトラーの動きはあります。すぐ失敗して捕まえられますけど。このあとヒトラーらは投獄される。この間に書かれたのが「我が闘争」です。
アメリカも同時に、ドイツにはお金がない、賠償金が多すぎるからお金を貸しますよ、という。これが1924年のドーズ案です。アメリカがドイツにお金を貸すことになった。
しかし、5年後の1929年には、アメリカ自身が世界大恐慌を起こして、お金が足らなくなると、貸したドイツからまっ先にお金を引き上げる。するとドイツが一番失業率が高くなる。アメリカが恐慌を起こして、ドイツ人が一番苦しむという形になっていく。このような中で、4年後の1933.1月にヒトラー内閣が誕生します。


この他の国際情勢を見ると、この前年1922年には、戦争に敗れた大帝国オスマン・トルコが崩壊して、小さなトルコになる。この旧オスマン帝国領にもイギリスやフランスが乗り込んでいきます。




【山本権兵衛内閣②】(1923.9~23.12)
では日本に戻ります。どこからの続きか振り返ってみると、1921.11月に原敬暗殺のあとを受け、ピンチヒッター的に高橋是清が首相になった。しかしアメリカが第二ラウンドとしてワシントン体制に持っていって、日英同盟は破棄された。海軍軍縮条約では米:英:日で、5:5:3だけど、本当は10対3で日本不利になる。こういう状況になって、第一次大戦で勝ったと思っていたら、どうもおかしいということで、その高橋是清内閣もつぶれた。
次は1922.6月に、ワシントン会議で全権を勤めた海軍の加藤友三郎が総理大臣になります。ここで政党内閣がいったん切れます。非政党内閣です。しかし加藤は任期途中の1923.8月に病死した。

加藤友三郎内閣のあとを受け、1923.9月同じ海軍の第2次山本権兵衛内閣が成立します。2回目の組閣です。しかしこの山本権兵衛が首相として組閣作業をしている最中にも、とんでもないことが起こります。



【関東大震災】 1923.9月、関東大震災の発生です。1923年は、ドイツでは大インフレーション、日本では関東大震災、どっちも踏んだり蹴ったりです。
日本は、この3年前の1920年に戦後恐慌が起こって景気が悪くなったばかりのところに、さらに追い討ちをかけるように関東大震災が起こる。ここから景気がさらに悪化していき、震災恐慌に陥っていく。

そうすると銀行から借りたお金が返せない企業が続出する。家も潰れて、工場もつぶれたら、入ってくるはずの売上代金が入らないから、そうなると返せるはずの借金も返せない。ではそのまま工場を潰していいか、というと、この人は、まず支払い猶予を出す。30日間は借金返せと言うな、と命じた。
そうすると、借りた人は、手形で借りています。私が銀行から、100万円借りるときには、私が手形を発行して100万円と書いて、支払期日を書いて、名前を書いて、印鑑打って、その手形を銀行が持っている。これを銀行は、期日に払ってもらうことで、利益を上げているけれども、結局私は払えないんです。30日間だけ待ってといっても、うやむやになる。私は家もつぶれて、食うや食わずで、ちょっと待ってくださいよ、と言うしかない。銀行がそういう返済の見込みが立たない手形をいっぱい持ち腐れしていく。こうやって銀行に溜まった不良手形を震災手形という。返済できるのか、できないのか分からないような手形、これが銀行の金庫の奥にいっぱい溜まっていく。

このままだったらお金が回収できずに銀行自体が潰れる。そういった時に、本当はやったらいけないけれども、日本銀行が金本位制の制約を破って、お金を刷る。日本銀行は1万円札を刷れるんです。ガバガバ刷って、それを銀行に貸すんです。これを日銀特融という。日本銀行の特別融資のことです。A銀行がつぶれそうだと思ったら、日本銀行がA銀行にお金を貸す。これで急場をしのぐけれども、根本的解決にはならない。本当は、未払いの震災手形をちゃんと支払ってもらわないといけない。これを一日延ばしにしていくんです。
数年間そのままです。あれどうなったかと、みんな不安なんだけれども、解決策がないから、みんな手を触れない。こういう状態で、じわじわと日本の銀行の経営が悪化していく。


【虎ノ門事件】 この時は大正時代で、のちの昭和天皇が皇太子です。1923年、その皇太子を暗殺しようとする事件が起こった。これが虎ノ門事件です。銃を発砲した青年の父親がこともあろうに国会議員だった。それで大騒動になって、山本内閣はその責任を取って総辞職していく。これが薩摩出身の最後の内閣総理大臣です。その後は、薩摩出身の総理大臣は出てきません。長州出身者はこのあとも出てきます。




【清浦奎吾内閣】(1924.1~24.6)
次の首相は清浦奎吾が就任します。貴族院出身で枢密院議長の清浦奎吾が内閣総理大臣になる。1924.1月です。清浦奎吾は衆議院議員ではない。選挙によって選ばれた人じゃない。こういうふうに、大正時代は政党政治の時代だといったわりには、清浦奎吾は、貴族院出身で政党内閣ではない。山本権兵衛は海軍軍人で政党内閣ではない。その前の加藤友三郎内閣も海軍出身です。3代続けて非政党内閣が生まれた結果、これあんまりだ、ということですぐに反対運動が起こる。これが1924年第二次護憲運動です。


【第二次護憲運動】 これを第一次に続いて第二次護憲運動という。護憲というのは憲法を守るという意味です。
ここで、お互いライバルであった三つの政党が、この時だけは手を組もうという提案に賛成した。憲政会立憲政友会革新倶楽部の三つです。この三つを、護憲三派といいます。立憲国民党は、1922年に革新倶楽部と名前を変えています。
内閣は議会を解散して、総選挙を行います。するとこの護憲三派がみごと勝っていく。下の政党系図で確認してください。

(政党系図)


このとき三派を結成した各党の中心人物は、憲政会加藤高明です。この憲政会が第一党になります。政党内閣が目標です。ということは、一番勝った政党のリーダーは次の総理大臣です。
立憲政友会の総裁は、総理大臣であった高橋是清です。ここで政党のナンバーワンとナンバーツーが逆転した。立憲政友会は反主流派が政友本党として分裂し、憲政会に議席数で負けた。
三番手になった革新倶楽部の総裁は、犬養毅です。

こういう護憲運動が、第一次護憲運動以来、約12年ぶりに盛り上がった。第一次護憲運動は1912年、この第二次護憲運動が1924年です。この結果、清浦奎吾は1924.6月に総辞職します。約半年の短命政権です。

ほぼここで大正は終わりです。大まかに言うと大正時代とは、第一次護憲運動と第二次護憲運動にはさまれた時代です。

昭和元年は1926年です。だから昭和換算は1925をひきます。


【内閣覚え方】 「山のお寺 原たかし 賛成
山の 山本権兵衛内閣①
お  大隈重信内閣②
寺  寺内正毅内閣
原  原敬内閣
た  高橋是清内閣
かし 加藤友三郎内閣
賛  山本権兵衛内閣②
成  清浦奎吾内閣






【加藤高明内閣】(1924.6~25.8)
1年割り込むけど、ここからほぼ昭和史になります。次の首相は一番多く議席数を取った憲政会加藤高明です。1924.6月からです。


加藤高明は東大卒業後、三菱に入社し、創業者である岩崎弥太郎の長女・春路と結婚し、その翌年から政界入りした政治家です。大隈重信の秘書を務めています。このことから後に「三菱の大番頭」と皮肉られるほど、三菱との関係の深い政治家です。憲政会と三菱との関係は、立憲改進党の大隈重信と三菱創業者の岩崎弥太郎以来の深い関係を引き継ぐものです。 

全体としていうと、日本は経済が悪いから、余裕なんてない。経済発展をしないといけない。アメリカが、日本にこのぐらいで我慢しておけといっても、それどころじゃない。うしろは崖っぷちなんです。とても我慢できない。
しかしワシントン会議以降、日本の外交は親米方針です。親米英です。アメリカ、イギリスに逆らわないほうがいいぞ、ということでずっと行きます。
この時の、内閣を支える政党は、護憲三派の連合ですが、メインは憲政会です。この憲政会の党首が加藤高明です。そこに2番手の立憲政友会が手を組む。3番手はこのあと弱小政党になっていく革新倶楽部です。

こうなると、本格的な政党内閣が続くかに見えた。彼ら政党員は、これこそ政党政治の本来の姿だという意味で、憲政の常道といった。これが常識だと。政党政治はこういう形でないといけない。これがいつまでも続くはずだ、政党政治の完成だという意味です。
しかしこれは10年も持たずにつぶれます。首相が暗殺されることによって。この事件がのちの1932年五一五事件です。このとき、すでにニューヨークウォール街の世界大恐慌は始まってます。それ以降、政党政治は息を吹き返しません。


【普通選挙法】 でも先のことは分からないから、加藤高明がやったことは、今まで大正時代に民衆が強く求めていた制限選挙、所得制限の選挙を無くします。これが1925年普通選挙法です。
今までは、金持ち中心で、所得がいくら以上という制限があった。具体的にいうと、税金をいくら以上払っている者だけという制限です。これを撤廃した。ただし女性の参政権はもっとあとです。だから25歳以上の男子に選挙権が与えられた。所得制限はないということです。年齢制限だけです。年齢制限があるじゃないか。何も分からない小学生に選挙させたら大変でしょう。年齢制限はどこにでもあります。


【治安維持法】 しかしそれと同時に一つの法律をつくります。普通選挙をやったらソ連好きの国民から社会主義にしようという動きが出てくるぞ、それだけは許されない、彼らが出てきたらすぐ逮捕できるようにしないといけない、と考えた。これが1925年治安維持法です。治安を維持して、いい法律に見えるかもしれませんが、天下の悪法はいつも名前だけはすごく立派な名前で出てくるのです。ここでも治安維持という立派な名目で出てくる。
これはどういう法律か。普通はリンゴを盗みたいと思っただけで、犯罪は成立するんですか。しないんですか。しないんですよね。ところがこの法律は、するんですよ。社会主義にしたい、と思っただけで犯罪になる。なぜそんなことが分かるのか。ここに本があるじゃないか、と言われる。だから自由に本が読めなくなるんです。つまり思想統制です。


【幣原外交】 外務大臣は幣原喜重郎です。彼は協調外交を取ります。協調とはどこと協調することか。親米親英です。アメリカとイギリスに従っていこう、という。日本がアメリカとの戦争に負けたあと、真っ先に日本の総理大臣になるのがこの人物です。

幣原喜重郎の妻・雅子は三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の四女です。三菱財閥と関係の深い政治家です。

しかし日本はこの時、いろいろな要求を受け入れるほど経済的には豊かではない。しかも戦後恐慌、震災恐慌と2回も恐慌が起こっている。実はあと3回目、4回目が来ます。そして4番目が一番大きいんです。もうがまんできない、そう追い詰められていく。経済が悪いとそうなっていく。



【加藤高明内閣②】(1925.8~26.1)
ただ、こういう幣原喜重郎の協調外交に対する反対もあって、護憲三派による連立内閣は崩れます。

1925.8月、首相加藤高明は内閣をつくりなおす。これが第二次加藤高明内閣です。ここで立憲政友会は三派連合をはずれます。革新倶楽部もはずれます。憲政会だけになる。それで弱くなる。
その協調外交に対して、こんなにアメリカに譲歩してたら大変なことになるぞ、という危惧を持っていたのは軍部です。だから、景気が悪くなるに従って、アメリカにハイハイと言っていてホントにいいのかな、と思う人たちの意見が軍部に集まる。不況下の経済の動きと、軍部への期待が歩調を合わせていく。
この1925年、立憲政友会は、もと陸軍の大物、長州の田中義一立憲政友会の総裁として迎えます。田中義一は軍人から政党政治家になるわけです。

ここで、また首相が死にます。1926.1月、加藤高明が病死します。




【若槻礼次郎内閣】(1926.1~27.4)
加藤高明が死んで、1926.1月にピンチヒッター的に憲政会の若槻礼次郎が総理大臣になっていく。与党の憲政会は変わりません。しかしピンチヒッターだからといって、危機はぜんぜん待ってくれない。それどころか、逆にそういった弱いところを狙い撃ちするようなところがあって、内閣が弱いときに限って何か起こります。
これは理屈が合っていると思う。政治が弱いときには、危機を防ぎきれずに何かが起こるからです。ここで3回目の恐慌が起こる。1927年金融恐慌が起こる。
ちょっと復習すると、第一次世界大戦後、日本は好調な輸出が一気にストップし、また輸入超過に戻って貿易赤字国になった。戦争が終わったから景気が良くなるかというと、逆です。そうすると1920年に戦後恐慌が起こった。
そこで弱いところを吸収合併していくのは財閥なんです。財閥が肥え太っていく。財閥が大きくなるのは、景気がいいときではない。逆に悪い時です。その3年後の1923年には関東大震災が発生し震災恐慌が起こっていく。


【金融恐慌】 1927年に3つ目の金融恐慌が起こります。1923年の関東大震災で発生した震災手形がすぐには処理されなくて、銀行手持ちの震災手形、いわゆる不良債権、これがずっと銀行内に残る。しばらく見て見ぬふりをしていたけれど、知ってる人はこの手形のことを財界のガンという。
この当時ガンは治らない病気です。これを誰が処理できるか。そういう時に、オレがやってやるぞー、とかけ声だけは立派だったけど、十分な力量と知識がないと、こういうことは失敗するんです。大蔵大臣の片岡直温が、処理するぞーといって、処理するどころか、ある銀行が危ないんじゃないか、という噂に火をつけるような失言を国会でしてしまった。それでみごと失敗するんです。
そうすると銀行というのは、立派な経営の健全な銀行でも、あそこの銀行が危ないという黒い噂がたつと、自分の預金も危ないんじゃないかと思って、銀行預金を引き出しに来る。銀行はもともと人のふんどしで相撲をとっている。例えば、人の預金を1%で預かって、それを3%で他人に貸すことによって、儲けを2%取る仕組みです。そのことによって成り立ってるのが銀行だから、もともとの原資である預金、自分の預金100万円を引き出せ、引き出せと、みんな押し寄せたら、健全な銀行でもつぶれてしまう。こういう構造になっている。

こういうのを取り付け騒ぎという。景気が悪くなると取り付け騒ぎが起こる。これは、私が生きてる間にもありました。ある銀行が不安だぞとなると、お金を入れるカートン、あれがもう銀行の中でとんでいた。それがニュースで流れていた。平成不況のはじめには、そういう大混乱に落ちていった。

これがきっかけになって取り付け騒ぎが、全国に広がっていった。日本の中小銀行などの関係のないところまで休業に追い込まれた。1920年代の不景気の中で。これが1927年の金融恐慌です。1920年の戦後恐慌、1923年の震災恐慌、1927年の金融恐慌、1920年代には3回も立て続けに恐慌が起こる。日本は、めちゃめちゃです。

その時に、鈴木商店という・・・・・・なにか田舎の商店のような名前ですけれども・・・・・・そのころの日本の三大商社の一つです。これは株式会社じゃないけれども、当時は誰でも知っている個人経営の大企業です。これが倒産してしまった。このままだと、この倒産した会社にお金を貸し付けている銀行も、資金回収できずに倒産する。それが台湾銀行なんです。なぜ日本史に台湾が出てくるんですか。台湾はこのとき日本の領土です。ということは、台湾銀行は台湾にとっては日本銀行みたいなものです。日本銀行がつぶれたら日本の血液がストップして、日本の経済は一瞬で潰れてしまう。これはどうしても潰せない。
それで若槻内閣は、台湾銀行を救済しようとする。これは理屈じゃない、つべこべ言っているうちに、潰れてしまったら遅いんだ、という。
戦前には急きょの策として、勅令がある。勅は天皇です。議会にはかるんではなく、天皇の勅令でこれを切り抜けようとした。しかしこの時には、天皇の相談役機関がある。これが時々、絶大なる力をふるいます。これが枢密院です。この枢密院が拒否します。天皇に言うんです。これはよくない、署名したらダメですよ、と。それで台湾銀行は融資を受けられずに、休業してしまいます。

ではなぜ、枢密院が拒否したか。1920年代の日本人の不満はずっとどこの国にやられっ放しなのか、知っているんです。アメリカなんです。そのアメリカに歯向かわずに、手を取っていこうと言ってたのが外務大臣の幣原喜重郎です。協調外交です。対米協調、対英協調です。対米英協調外交です。なぜ無理難題をふっかけられても、ハイハイと頭を下げ続けて協調しているのか。こういう不満です。それで若槻内閣が望んだ勅令案を、天皇の相談機関である枢密院が拒否した。
すると金融恐慌は拡大の一途をたどって、日本経済は大混乱に陥る。銀行はバタバタ倒産するし、中堅企業もどんどん倒産していく。
しかし幣原喜重郎の協調外交に対する反発は、軍部だけではなくかなり大きい。

総理大臣の若槻礼次郎は事態の収拾を図れず、総辞職していきます。これが1927年、昭和2年です。昭和の始まりというのは、「昭和枯れすすき」という暗い歌があったんですけど、これと同じく暗いです。ひどい恐慌から始まる。

芥川龍之介が「将来に対する漠然とした不安」を感じて自殺するのもこの年です。もちろんそれは政治上のことではなく内面的なものですが、それは明治以降の近代化、つまり西洋化に向かう日本人の心に巣くう、共通した不安だったように思えます。個人主義を突き詰めてその限界を感じた彼は、将来に大きな矛盾が横たわっているのを作家独特の嗅覚で感じとったのでしょう。
その不安は、イギリスの力をバックにしてイギリス追随の外交を進めてきた伊藤博文が、晩年になってイギリスとの日英同盟に不安を感じそれに反対したことと、どこかで共通しているように思います。

大正は明るかったけれども、昭和は暗い。不景気で始まる。
大きな問題は、アメリカ・イギリスに対する協調外交をどうするか。それと相次ぐ恐慌をどうするか。つまり「外交」と「経済」をめぐる問題です。とくに外交では、明治維新以来のイギリス追従の外交が、日米同盟を廃棄されたことによって大きな曲がり角に来ています。これを政党政治が乗り切れるかどうか、これが昭和がすぐに直面した課題です。


いらない話をすれば、私の親父が生まれたのはこの頃です。高校卒業すると赤紙が来て兵隊に取られ、外地に行く前に終戦になったからどうにか生きて帰れたのですが、そのとき近くの町が焼け焦げている景色を見ながら帰ってきた。帰ったその日に、私の祖母が、近くの食品工場が空襲で焼けたために不要になった焼き砂糖を拾い集めてオハギをつくってくれた。そのオハギのうまかったこと、その味が忘れられない、と言っていました。

ここで今はない機関をまとめると、元老というのは天皇の相談役です。これは個人です。
もう一つは天皇の諮問機関つまり相談機関、これが枢密院です。


最後に、年号と西暦の換算をまとめます。
明治は何年を引いたか。1867を引く。考え方は1868年が明治1年だから、そうなるように1867を引く。
大正換算は1911を引く。
昭和換算は1925を引く。
君たちが生まれた平成換算は1988を引くんです。
ちなみに令和換算は2018を引く。2019年が令和1年になるから。

これで終わります。

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