
進藤隆三郎さんは赤軍派兵士で、連合赤軍のいわゆる山岳ベースリンチ事件で2人目に亡くなった(殺された)方です。
以前も書きました通り、わたしは2月に行われた【連合赤軍殉難者追悼の会】にて、この進藤さんについて発言しました。
当時のお連れ合いだったAさんの証言を元にしたものです。
その後、ひょんなことから救援連絡センターの機関紙「救援」へ、この取材を通して感じたことなど書いてみないかと言われ、喜んで、と書かせていただきました。
すでに発行されている号に掲載されたようなので、以下同じ内容のものを転載します。
もし“連合赤軍全体像を残す会「証言」9号”をお持ちの方は、わたしの発言部分と合わせて読んでいただければと思います。
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『連合赤軍事件がわかつもの、繋ぐもの』
2月25日「連合赤軍殉難者追悼の会」が開かれました。
私はこの会に主催の「連合赤軍の全体像を残す会」の側から参加し、また、発言をさせて頂きました。
私は今、33歳です。団塊世代の息子世代に当てはまります。そんな自分がなぜこの会で発言するに至ったかと言いますと、現在「赤軍」に関するドキュメント映画を撮影しており、その取材の傍ら「残す会」の活動にも携わらせていただいているためです。
発言した内容は、赤軍派の坂東隊に所属し、1972年1月1日に榛名ベースにて亡くなった進藤隆三郎さんに関すること。当時、坂東隊の中で共に活動した、進藤さんのお連れ合いだったAさんから電話でお話を聞き、その内容を公開させていただきました。
それはマスコミや関連書籍から読み解く「進藤隆三郎像」とは違ったものでした。
元ヒッピーで女ったらし、赤軍派メンバーとしての意識の低さ等、一連の媒体で語られるキャラクター像や総括にかけられた要因は数あれ、Aさんの口から語られる進藤さんは、非常に硬派な考えを持った方でした。
秋田明大さんに触発され、東大闘争に参加。逮捕されて獄中で血を吐き、下獄後再び「新左翼でありたい」という想いから坂東隊に合流。その後、M作戦を繰り返し、革命左派と接近した赤軍は、山へ入ろうとしていました。
Aさんは「路線が違うのに、それはおかしい」と、進藤さんを止めます。「赤軍派を抜けて。抜けないなら目の前の警察署に駆け込む」
そう言ったAさんに対し、進藤さんはこう返したそうです。
「30分待て」
なぜ30分かと聞き返すと
「30分あれば資料をまとめて皆を逃がすことができる。俺が森のオヤジと赤軍派を守らなければならない」
と。
こうしてAさんは赤軍を離れ、進藤さんは山に入ります。後は、皆さんご存知の通りです。
森さんは彼の死を「敗北死」としました。
Aさんは赤軍派に入る折、森さんと坂東さんの前で決意表明を行いました。
「全ての人々が飢えることなく 全ての子供達が学べる社会にするため 邁進します」
Aさんはその宣言通り、進藤さんが、皆が生きていたら何をしたかったか、考えた末、寄せ場に行き着きました。
そして今もそこに住んでいらっしゃいます。
元・赤軍派の金 廣志さんは「それぞれの、亡くなった同志達は家族を形成できなかった。そのことがまことに、残念だと思っています」と、涙ながらに発言されていました。
以下のことは時間の都合上も考え、会では発言しませんでした。
当時、Aさんは進藤さんの子供を身ごもっていたそうです。それゆえ、山に入るという選択肢を選んだ進藤さんに愕然とした、と語っていました。
もし、進藤さんが山に入らなかったら。もし、家族を形成できていたら。
二人はどんな人生を歩んでいたことだろう。
個人の未来を捨て、大義に向かった彼ら。
彼らを突き動かしたものは何だったんだろう。それを少しでも知ろうという試みが、息子世代の私が作っている映画のテーマでもあります。
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以上。
写真は進藤さんたちが亡くなった榛名山のベース近く
以前も書きました通り、わたしは2月に行われた【連合赤軍殉難者追悼の会】にて、この進藤さんについて発言しました。
当時のお連れ合いだったAさんの証言を元にしたものです。
その後、ひょんなことから救援連絡センターの機関紙「救援」へ、この取材を通して感じたことなど書いてみないかと言われ、喜んで、と書かせていただきました。
すでに発行されている号に掲載されたようなので、以下同じ内容のものを転載します。
もし“連合赤軍全体像を残す会「証言」9号”をお持ちの方は、わたしの発言部分と合わせて読んでいただければと思います。
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『連合赤軍事件がわかつもの、繋ぐもの』
2月25日「連合赤軍殉難者追悼の会」が開かれました。
私はこの会に主催の「連合赤軍の全体像を残す会」の側から参加し、また、発言をさせて頂きました。
私は今、33歳です。団塊世代の息子世代に当てはまります。そんな自分がなぜこの会で発言するに至ったかと言いますと、現在「赤軍」に関するドキュメント映画を撮影しており、その取材の傍ら「残す会」の活動にも携わらせていただいているためです。
発言した内容は、赤軍派の坂東隊に所属し、1972年1月1日に榛名ベースにて亡くなった進藤隆三郎さんに関すること。当時、坂東隊の中で共に活動した、進藤さんのお連れ合いだったAさんから電話でお話を聞き、その内容を公開させていただきました。
それはマスコミや関連書籍から読み解く「進藤隆三郎像」とは違ったものでした。
元ヒッピーで女ったらし、赤軍派メンバーとしての意識の低さ等、一連の媒体で語られるキャラクター像や総括にかけられた要因は数あれ、Aさんの口から語られる進藤さんは、非常に硬派な考えを持った方でした。
秋田明大さんに触発され、東大闘争に参加。逮捕されて獄中で血を吐き、下獄後再び「新左翼でありたい」という想いから坂東隊に合流。その後、M作戦を繰り返し、革命左派と接近した赤軍は、山へ入ろうとしていました。
Aさんは「路線が違うのに、それはおかしい」と、進藤さんを止めます。「赤軍派を抜けて。抜けないなら目の前の警察署に駆け込む」
そう言ったAさんに対し、進藤さんはこう返したそうです。
「30分待て」
なぜ30分かと聞き返すと
「30分あれば資料をまとめて皆を逃がすことができる。俺が森のオヤジと赤軍派を守らなければならない」
と。
こうしてAさんは赤軍を離れ、進藤さんは山に入ります。後は、皆さんご存知の通りです。
森さんは彼の死を「敗北死」としました。
Aさんは赤軍派に入る折、森さんと坂東さんの前で決意表明を行いました。
「全ての人々が飢えることなく 全ての子供達が学べる社会にするため 邁進します」
Aさんはその宣言通り、進藤さんが、皆が生きていたら何をしたかったか、考えた末、寄せ場に行き着きました。
そして今もそこに住んでいらっしゃいます。
元・赤軍派の金 廣志さんは「それぞれの、亡くなった同志達は家族を形成できなかった。そのことがまことに、残念だと思っています」と、涙ながらに発言されていました。
以下のことは時間の都合上も考え、会では発言しませんでした。
当時、Aさんは進藤さんの子供を身ごもっていたそうです。それゆえ、山に入るという選択肢を選んだ進藤さんに愕然とした、と語っていました。
もし、進藤さんが山に入らなかったら。もし、家族を形成できていたら。
二人はどんな人生を歩んでいたことだろう。
個人の未来を捨て、大義に向かった彼ら。
彼らを突き動かしたものは何だったんだろう。それを少しでも知ろうという試みが、息子世代の私が作っている映画のテーマでもあります。
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以上。
写真は進藤さんたちが亡くなった榛名山のベース近く
マスコミの誹謗中傷歪曲はよくある事です。映画は若松監督のものともまた違うのですね。完成を楽しみにしています。
映画はインタビュー中心のドキュメントになります。
活動家にの人たちにもしかしたら
まったく違った感情を持っています。実は。
それをいつか発言できる場があればな、
と思っています。
あ、そーゆーのをブログで書けばいいのか!
でも自分とこのはそういうの書ける
雰囲気じゃないしなぁ。ここずるいなぁ。
それにしても
Aさんの妊娠話しにはびっくりした。
今度、聞かせて下さい。
まー、ブログの雰囲気はありますよね。知らず知らず読者を意識してしまう、みたいな。
自分も、こういうこと書いて「みんな引いてないだろか」と最初は気になってました。
それが今やほとんどそれ系のワードで検索して来る読者の方々ばかりで・・・
へい、いらっしゃい。
という感じです。
日本人は怒りは悪い感情だといいますが、逆です。こんな萎えた時代だからこそ怒りと自信が必要なのです。自分に自信を持ちなさい。やられたらやり返しなさい。
今こそ銃を以て立ち上がるべきときだと思うのです。くそったれの政府を倒しましょう。
躊躇せず前へ進むのみであります。