2018年7月6日(金)曇 24.5℃~16.3℃
「ヘンリー・スネルとおけい 」
園匠の目黒浄定が、小堀遠州の流れをくんで作ったのが会津の名庭「御薬園」。先月、 規模は小さいが同じ園匠目黒浄定が作った庭、可月亭で茶会があり、古川洋一郎氏の講話があった。
その講話の概要をアップします。
『首相官邸のホームページでは、明治150年施策として「明治の精神に学び、日本の強みを再認識すること」を挙げいろいろな事業に「明治150年」冠に広報されている。
鹿児島県、高知県などでは「平成薩長土肥連合」を結成し、明治国家は我々が作ったのだというキャンペーンが行われている。今更ながらまだ勝者気分なのかと思う。
わが会津は「義」の想いを脈〃と未来につなごうとシンプルだ。
戊辰戦争の結果、一般的に日本の近代国家へと転換されたのが明治維新だといわれてきた。が、しかしその反面、国内には「官軍と賊軍」「勝者と敗者」の構図が勝者側によって物語が作られてしまった。
その戦いではスネルは会津藩に武器・弾薬を提供、販売を商いとし、敗戦するや妻子や・おけいなどの会津人を率いて新天地を海外に求めた。入植後、経営に失敗、妻子を連れて現地を離れ戻ることなく行方はわからず謎のまま』
ヘンリースネルはオランダ国籍、ドイツ・プロイシア人を自称。会津藩軍事顧問 日本名「平松武兵衛」と屋敷(現在古川洋一郎氏跡地所有者)を松平容保公から賜る。
近所の大工(桶屋)伊藤文吉の娘おけいがスネル家の子守をしていた。スネルは容保公にゴールドラッシュに沸く米国/カリフォルニアで未来を開拓することを提案した。金鉱を探しながら、お茶を栽培し、桑の木を植栽して絹の産業を興そうとする案である。
藩士と家族37名が、開拓団に加わった。その中に、子守役の“おけい”も加わっていた。アメリカ移民の日本女性第1号であった。
通称は「若松コロニー」と呼ばれていた。しかし、お茶と桑の木は育たず、1年ほどで崩壊してしまう。
スネルは資金調達をするとのことで“若松コロニー“を出たが、再び戻ることは無かった。
藩士たちは、スネルの言葉を信じ、しばらく待っていたが、やがて1人2人と“若松コロニー“から出て行った。
子守りの“おけい”と元藩士/桜井松之助の2人は残り、スネルの帰りを待ち続けた。
まもなく資金が枯渇し、“若松コロニー“は解体されてしまう。
“おけい”は急な高熱に冒され、19歳という若さで死去した。
夢を描いた入植地“若松コロニー”の見える丘に、桜井松之助が葬ったという。
ゴールドヒルのおけいの墓と同じような墓を会津若松市背炙山に建て、おけい顕彰会と東山小学校が中心になっておけいを顕彰している。
「戊辰150年シリーズは20回で一度休みます」
「ヘンリー・スネルとおけい 」
園匠の目黒浄定が、小堀遠州の流れをくんで作ったのが会津の名庭「御薬園」。先月、 規模は小さいが同じ園匠目黒浄定が作った庭、可月亭で茶会があり、古川洋一郎氏の講話があった。
その講話の概要をアップします。
『首相官邸のホームページでは、明治150年施策として「明治の精神に学び、日本の強みを再認識すること」を挙げいろいろな事業に「明治150年」冠に広報されている。
鹿児島県、高知県などでは「平成薩長土肥連合」を結成し、明治国家は我々が作ったのだというキャンペーンが行われている。今更ながらまだ勝者気分なのかと思う。
わが会津は「義」の想いを脈〃と未来につなごうとシンプルだ。
戊辰戦争の結果、一般的に日本の近代国家へと転換されたのが明治維新だといわれてきた。が、しかしその反面、国内には「官軍と賊軍」「勝者と敗者」の構図が勝者側によって物語が作られてしまった。
その戦いではスネルは会津藩に武器・弾薬を提供、販売を商いとし、敗戦するや妻子や・おけいなどの会津人を率いて新天地を海外に求めた。入植後、経営に失敗、妻子を連れて現地を離れ戻ることなく行方はわからず謎のまま』
ヘンリースネルはオランダ国籍、ドイツ・プロイシア人を自称。会津藩軍事顧問 日本名「平松武兵衛」と屋敷(現在古川洋一郎氏跡地所有者)を松平容保公から賜る。
近所の大工(桶屋)伊藤文吉の娘おけいがスネル家の子守をしていた。スネルは容保公にゴールドラッシュに沸く米国/カリフォルニアで未来を開拓することを提案した。金鉱を探しながら、お茶を栽培し、桑の木を植栽して絹の産業を興そうとする案である。
藩士と家族37名が、開拓団に加わった。その中に、子守役の“おけい”も加わっていた。アメリカ移民の日本女性第1号であった。
通称は「若松コロニー」と呼ばれていた。しかし、お茶と桑の木は育たず、1年ほどで崩壊してしまう。
スネルは資金調達をするとのことで“若松コロニー“を出たが、再び戻ることは無かった。
藩士たちは、スネルの言葉を信じ、しばらく待っていたが、やがて1人2人と“若松コロニー“から出て行った。
子守りの“おけい”と元藩士/桜井松之助の2人は残り、スネルの帰りを待ち続けた。
まもなく資金が枯渇し、“若松コロニー“は解体されてしまう。
“おけい”は急な高熱に冒され、19歳という若さで死去した。
夢を描いた入植地“若松コロニー”の見える丘に、桜井松之助が葬ったという。
ゴールドヒルのおけいの墓と同じような墓を会津若松市背炙山に建て、おけい顕彰会と東山小学校が中心になっておけいを顕彰している。
「戊辰150年シリーズは20回で一度休みます」