土曜日、日暮里へ出かけました。切支丹お蝶ゆかりの護國山天王寺と寶珠山延命院を見るためです。
先に行ったのは天王寺ですが、ブログは延命院から。
日暮里駅の西口を出ると、御殿坂に沿った右側に本行寺経王寺延命院とお寺がつづきます。いずれも日蓮宗のお寺です。
日蓮宗のお寺の多くは仏壇も山門周辺も、寺の中にあるものを全部持ってきて飾ったみたいでゴテゴテしていますが、延命院(画像)は天台のお寺のようにスッキリしていて、端正な趣がありました。
このお寺の開創は慶安元年(1648年)。寺内の七面大明神(現在も七面堂に祀られています)は四代将軍徳川家綱の乳母・三沢局をはじめとして多く人の信仰を集め、江戸名物の一つとなりました。
それからおよそ百年ののちの享保年間、この端正なお寺に大変な事件が発生します。
事件の主は日道(日潤とも)という若い僧侶です。
若いだけでなく、眉目秀麗、声は朗々として、さながら娘道成寺の安珍のようだといわれ、参詣のご婦人方で魂を飛ばされぬ者はいなかったということですから、さあ大変……。
ご婦人方といっても、町家の女たちではありません。武家、それも大奥の、という但し書きがつくものですから、大事件となってしまうのです。
日道は俗名を丑之助といいました。歌舞伎の初代尾上菊五郎の息子だったという噂があります。
役者の息子がなにゆえに坊主になったかというと、始まりは菊五郎の息子でありながら、実は息子ではなかったということにあります。
菊五郎は京の人です。
京にお袖という妾を抱えていました。このお袖が菊五郎の目を盗み、義道という本国寺の坊さんと佳い仲になって産んだのが丑之助だったというのです。
これが菊五郎一つ目の間違い。
しかし、菊五郎は我が子と信じて育て、二代目を継がせるつもりだったのでしょう。市村座から招かれて江戸に下ったときも、十六歳になっていた丑之助を伴って行きます。
江戸に居を定めてから、丑之助の芸を江戸前に仕立てたほうがいいと考えて、江戸ふうの踊りを習わせることにしたのが二つ目の間違いです。
丑之助は同じ師匠の許で踊りを習っていた小間物店のお梅という娘と人目を忍ぶ仲になってしまったのです。
お梅の店には少しばかり頭の足りない手代がいました。お梅の両親が、お前は将来見込みがある、と煽てたのを間違って、店の跡継ぎは自分だと信じ込んだ。そんなところに、丑之助とお梅の噂が立ち始めたものだから、内心穏やかならず。
落とし前をつけてやるとばかり、懐に出刃包丁を呑んで市村座近くで待ち構えたのです。
そこへお高祖頭巾を被った役者が暗闇に紛れて出てきたものだから、得たりや応とばかり、ドッと走り寄るや、お高祖頭巾のドテッ腹に出刃を突き立て、当人は江戸橋南詰の木更津河岸に身を躍らせて死んでしまった。
ところが、この手代が手にかけたのは丑之助ではなく、菊五郎だったのです。