ふと気がついたら、いつの間にか寝ていた・・・
ということがこのところよく、というか毎日のように、いや正確には確実に毎日ある。
夜にふっと目が醒める。炬燵に横になっている自分がいる(わが家ではまだ炬燵を出したままだ)。ところがいつ寝たのか全然憶えていない。炬燵の上には皿が並んでいるのでどうやら夕食は食べたみたいだ。こんな時いつも気になるのは猫たちの餌なのだが、流しを見るとちゃんと彼ら用の皿が汚れて積まれているのでどうやらちゃんとやったみたいだ。ところがそれがどれもこれも記憶にないのが問題だ。胸を張って「記憶にありません!」俄かに政治家になったみたいだ。
という子どものころ聞いたイルカの曲があったと思うけれど、こんな時には今日のことさえさだかに憶えてはいない。はてさて何をしたっけか・・・と頭を使うのも面倒くさい気がするので、忘れないうちに早いとこ風呂に入ってビールを立て続けに何倍か水のように飲む。酒を飲むのもきっと本日二度目なんだろう。机の上のカップがそう言っている。幸い仕事の上でしたことはまめにメモしてるのでそれだけが確かな記憶、いや記録として残っている。
農繁期になるといつもこうだ。特に春先から5月一杯は冬眠から醒めたばかりだから余計体(と脳)に堪えるみたいだ。この時期腰をいかに壊さず体力の限界に挑戦するか・・・が目下の課題となる。その他のことはもうどうでもいいのである。それほどまでに事態は逼迫している。なにしろ一年の実りの大部分が、今何をするかで決まってしまうのだ。
特段機械化もされていないつましい自給百姓は、きっと今も半世紀前の暮らしさながらに生きてるのだろう。どうすればもっと楽になれるのか・・・なんてことも既に田植えを目前にした今となると(疲れすぎていて)メンド臭くて考えていられない。かくて貧しい者はいつまでも貧しく、ということになるのだろうか?
昨日は用事があって銀行に行ったのだが、長椅子で雑誌を読みながら坐っているといきなり「あぐりこさ~ん」と窓口から呼ばれた。驚いて行ってみると先ほどまで確かに手元に持っていたはずの私の貯金通帳を見せられるではないか。手品のようだ。行内の遺失物として今さっき届けられたそうだ。そういえば先刻申込書を書いた際に、書き込み台の上に置き忘れてしまったのかもしれない。まったくとんでもない忘れ物だ。自分の事ながらあきれてしまう。
今日は昨夜来の雨が降り続いていた。そこで久しぶりに休みの日らしく買い物に行ってきたのだった(安売りのスーパーまで片道40分かかる)。たまには珍しく旨いものでも食べて明日の活力としたいものだ。
でも帰って来てから思い出すのである。そういえば先日捌いた鶏もあるしどぶろくを搾った時の酒粕でパンも焼かないとならない。何日か前にジャガイモも煮ている。蓋を開ければ鍋もどっさりとある。いかな私でもこんなには食べきれない。つまり日頃の強固な生活習慣から毎日の食事の用意だけは怠っていなかったのだが、いかんせん当の本人が何をしたかを覚えていない。したがって食べる分をはるかに越えて用意してしまったということらしい。
そんなこんなを思いついてブログに書いていたら、ふと見るとビールの空瓶が3本並んでいる。どうやらもうこれだけ飲んだ・・・ようだ。これもまた憶えていないのだから本当にあきれる。
春の宵は散る花びらに人の世の儚さを感じ・・・というのはたぶん下界の人の社会のことなのだろう。確かに平場に下ると今は桜が満開で美しい。でもこのでは今朝やっと咲き出した桜の花びらを見たばかりだから、例年通りこの連休後半には見頃になるだろう。庭の桜はいまだ蕾で、こちらは遅咲きなので皆がとうに見飽いた頃、田植えのさ中に満開を迎える。それに先立ってわが家の周りは菜の花や水仙、ヒメオドリコソウやスミレ、カキドオシの花盛りだ。昨日はいつの間にやら側溝に水芭蕉がさいていた。チューリップもひとつふたつほころび始めている。
すべてが忘却の彼方へと流れがちになる今日この頃、庭や畑の花たちだけが正確に、春の推移を教えてくれている。
【写真はアンズの花。3年前に植えた苗がようやく花咲かせました。】
ということがこのところよく、というか毎日のように、いや正確には確実に毎日ある。
夜にふっと目が醒める。炬燵に横になっている自分がいる(わが家ではまだ炬燵を出したままだ)。ところがいつ寝たのか全然憶えていない。炬燵の上には皿が並んでいるのでどうやら夕食は食べたみたいだ。こんな時いつも気になるのは猫たちの餌なのだが、流しを見るとちゃんと彼ら用の皿が汚れて積まれているのでどうやらちゃんとやったみたいだ。ところがそれがどれもこれも記憶にないのが問題だ。胸を張って「記憶にありません!」俄かに政治家になったみたいだ。
昨日のことさえ 思い出せないほど
僕は いつも疲れてた♪
という子どものころ聞いたイルカの曲があったと思うけれど、こんな時には今日のことさえさだかに憶えてはいない。はてさて何をしたっけか・・・と頭を使うのも面倒くさい気がするので、忘れないうちに早いとこ風呂に入ってビールを立て続けに何倍か水のように飲む。酒を飲むのもきっと本日二度目なんだろう。机の上のカップがそう言っている。幸い仕事の上でしたことはまめにメモしてるのでそれだけが確かな記憶、いや記録として残っている。
農繁期になるといつもこうだ。特に春先から5月一杯は冬眠から醒めたばかりだから余計体(と脳)に堪えるみたいだ。この時期腰をいかに壊さず体力の限界に挑戦するか・・・が目下の課題となる。その他のことはもうどうでもいいのである。それほどまでに事態は逼迫している。なにしろ一年の実りの大部分が、今何をするかで決まってしまうのだ。
特段機械化もされていないつましい自給百姓は、きっと今も半世紀前の暮らしさながらに生きてるのだろう。どうすればもっと楽になれるのか・・・なんてことも既に田植えを目前にした今となると(疲れすぎていて)メンド臭くて考えていられない。かくて貧しい者はいつまでも貧しく、ということになるのだろうか?
昨日は用事があって銀行に行ったのだが、長椅子で雑誌を読みながら坐っているといきなり「あぐりこさ~ん」と窓口から呼ばれた。驚いて行ってみると先ほどまで確かに手元に持っていたはずの私の貯金通帳を見せられるではないか。手品のようだ。行内の遺失物として今さっき届けられたそうだ。そういえば先刻申込書を書いた際に、書き込み台の上に置き忘れてしまったのかもしれない。まったくとんでもない忘れ物だ。自分の事ながらあきれてしまう。
今日は昨夜来の雨が降り続いていた。そこで久しぶりに休みの日らしく買い物に行ってきたのだった(安売りのスーパーまで片道40分かかる)。たまには珍しく旨いものでも食べて明日の活力としたいものだ。
でも帰って来てから思い出すのである。そういえば先日捌いた鶏もあるしどぶろくを搾った時の酒粕でパンも焼かないとならない。何日か前にジャガイモも煮ている。蓋を開ければ鍋もどっさりとある。いかな私でもこんなには食べきれない。つまり日頃の強固な生活習慣から毎日の食事の用意だけは怠っていなかったのだが、いかんせん当の本人が何をしたかを覚えていない。したがって食べる分をはるかに越えて用意してしまったということらしい。
そんなこんなを思いついてブログに書いていたら、ふと見るとビールの空瓶が3本並んでいる。どうやらもうこれだけ飲んだ・・・ようだ。これもまた憶えていないのだから本当にあきれる。
春の宵は散る花びらに人の世の儚さを感じ・・・というのはたぶん下界の人の社会のことなのだろう。確かに平場に下ると今は桜が満開で美しい。でもこのでは今朝やっと咲き出した桜の花びらを見たばかりだから、例年通りこの連休後半には見頃になるだろう。庭の桜はいまだ蕾で、こちらは遅咲きなので皆がとうに見飽いた頃、田植えのさ中に満開を迎える。それに先立ってわが家の周りは菜の花や水仙、ヒメオドリコソウやスミレ、カキドオシの花盛りだ。昨日はいつの間にやら側溝に水芭蕉がさいていた。チューリップもひとつふたつほころび始めている。
すべてが忘却の彼方へと流れがちになる今日この頃、庭や畑の花たちだけが正確に、春の推移を教えてくれている。
【写真はアンズの花。3年前に植えた苗がようやく花咲かせました。】
だって今日、こちらは5月なのに真夏の朝のようでした。
そちらはちゃんと春を味わい、ちゃんと春の眠たい気分が人の体にも起こるのですね。
アグリコさんは困っておられるようでもあり、楽しんでおられるようにも思えてちょっと物忘れには自信のある?私も面白くてにっこりしてしまいました。
そろそろ記事を書かないと・・・と思うのですが、ここのところ毎日が体力の限界に挑戦する日々なので思うにまかせません。なにしろつい先刻思っていたことを忘れるのですからね。坐っているのがやっとで、それさえもできない時があります。
暖かい春のような励ましの言葉、ありがたく受け取りました。ところで庭の桜が今日満開になりました。でも田植え直前の正念場なものだから、ろくに愛でる余裕もなく気がついた時には散ってるのですよね。毎年の事ながら。・・・こんなことでいいのだろうか?