アグリコ日記

岩手の山里で自給自足的な暮らしをしています。

今、地球は、 4

2017-01-09 07:50:11 | 思い
 僕たち自身の最も身近な存在である「心」の構造、すなわち信念体系については、思えば奇妙なことに、一般にほとんど知られていない。よくよくその目で見れば、イエスの言ったことも釈迦の教えも、その枢要ではしっかりと信念体系のコントロールについて述べている。ただそれは、今僕が話してるような語彙や表現ではない。一つにはその当時の人々の意識状態に原因がある。現在のように、メディアを通して世界中のあらゆる情報や思想、文化に触れることの無かった時代、庶民はただ、小さな社会の中で決まりきった身の周りの事どものみを世界にしていた。当然持っている概念もボキャブラリーもその域を出ない。実際、ここ数千年で見る限り地球人類の意識レベルは確実に上昇している(ただし部分的には例外もある。例えばアメリカインディアンや日本の縄文人などは、一般的な現代人よりも遥かに精神性が優れていた)。そしてその人類全体の意識の向上は、ここ30年ほど更に加速度的な伸びを示している。
 だからイエスは、当時の民衆に最も受け入れられやすい、理解可能な表現でそれを表した。卑近な譬えを多用し、(ここでの僕のように)理屈で押し通すなんてことはしなかった。でも例えば彼の説く「許し」なんかは、信念体系の支配から脱して自分自身を取り戻すそうとするうえで「要」となる強力なツールのひとつだ。自分(この場合は自分の信念体系。過去も現在も)を許し、自分と同じように自己の信念体系に操られてきた他者を許す。いずれこれなくして、人生の主体者としての地位を奪還することはできない(このことは早晩、これから君が信念体系に取り組むにつれて実感としてわかることになる)。総じていえば、古今東西の主要な精神的教えは、シャーマニズムから現代のスピリチュアリズムに至るまで、すべてなんらかの表現でこの信念体系に触れている。
 さて、具体的に信念体系を操作し変える方法はいろいろとあるのだが、ここでそれらを僕の知る限りの範囲で、おおまかにざっくりと分類してみよう。それらは大きく3通りに分けられる。一つは大木の太い幹や枝ごと一気に落としてしまうこと。もう一つは剪定するように表面の枝葉から順次中の方へと切っていくこと。そして最後は、養分の補給を絶って木全体を衰弱させていくこと。
 まず一つめの荒療治だが、これは例えば、なにかをきっかけに人ががらっとその人格を変えてしまったり、暴れん坊が悟りの境地に至ったり、今までに無かった超感覚やそれに伴う意識の飛躍をいきなり成し遂げたりするケースがそれに当たる。大概は、生命にかかわる事故や病気といった危険、精神的、経済的、社会的な(しばしば致命的な)危機的状況、それまでの価値観全体を揺るがすような非日常的な局面に直面することなどがきっかけとなる。ばっさりと切り捨てる信念も、幹そのものだったり太い枝の数本だったりもっと小規模なものだったりとさまざまだ。この方法は時間的に短くて手っ取り早いといえばそうなのだが、しかしそれ相応のリスクを伴う。一度に大きなものを手に入れるには、今握りしめている大きなものを一気に手放すことになるかもしれない。精神的なショックを覚悟しておいた方がよい。またワープするようにあまりに急激に事が進むので、非常な混乱が伴うし、ここで述べているような信念体系そのものについての体験的理解は期待できない。
 二つめは、とりあえず木の表面(見える部分)から剪定していくことだ。信念体系を巨大な氷山になぞらえてみよう。水の上にぷかぷかと浮かぶ氷は、見えている部分が実は全体の僅か10%にも満たないことは、みんな知っているだろう。信念体系も同じことが言える。さて、要らない信念を取り除くぞ!と決心しても、そもそも該当するであろう信念のほとんどが、まずその人には見えていない。だからとりあえずは、目についたもの、手にしたものからかたっぱしに(もちろん要らないものだけ。これはとっておこうという信念は、そのまま持ち続けていい)外していく。具体的には自分の内面(感情と想念)に意識の焦点を当てること。感情も想念(心に思いつくものや思考を含む)は、信念体系の産物である。もし信念がなにも無ければ、それらはなにも浮かんで来ない。だからこの物質世界を体験できないことになる(これはもちろん、今の僕らの魂の意図するところではない)。よって、信念あっての感情と想念だから、それらがどんなものかに注意を払えば、おのずから自分の持つ信念に辿り着くことができる。
 例えば同じ状況、同じ現象を目の当たりにしたとしても、人が違えば往々にしてまったく違った印象や捉え方をするのに、誰しも心当たりがあるのではなかろうか。方や怒ってるのに、方やなにも感じない。一方では感動して涙を流してるのに、もう一方ではしらけている。それらは信念体系が違うからに他ならない。この世で二人として、同じ信念体系を持っている人はいない。だからこそ同じ状況が、十人十色の世界を産む。言葉を変えれば、「あらゆる状況には色が無い」とでも言おうか。信念体系の持ち方でポジティブにもネガティブにも捉えられるし、どちらにも偏らない中立の地点(なんの感情の抱かず、ただ冷静に、ありのままに受け取ること)から見ることもできる。過酷な紛争地域にあって心に平安を持つこともできれば、平和この上ない恵まれた環境にありながら自ら首をくくる羽目に陥ることもある。
 イメージとして言えば、自分の心の背後(または頭上)にもう一つ違った自分の意識があって、その視点から俯瞰的に、自分の心の動きを観察する、と言えばわかりやすいだろうか。これをできるだけ多くの時間(理想を言えば24時間)行ってほしい。まあ例え数分でも数時間でもすれば、自分のネガティブな信念を見つけたその分だけ軽くなっていくから、やる分に応じて必ず得るものはある。そんなことしてたら日常生活に支障が出るのではないかとか、危なくて車の運転などできないなんて考える必要はない。実際そうはならないし、いずれその状態が習慣となる。そもそもこの視点は、僕らが生まれた時からずっと持っていた由緒ある「目」なのだ。それがあまりに長いこと使わないでいたものだから、すっかり錆びついてクモの巣が張り、その存在さえ忘れていただけ。実は高次意識は、この視点から僕らの一挙手一投足、知覚し沸き起こる感情、行動し直面するすべての状況を、一切の感情や固定観念を伴わずに観察し続けている。この機会に、君は生来の感覚であるこの「目」を復活させることになる。
 そうして捉えた感情(特に不快感、不満感、怒り、憎しみ、悲しみ、寂しさなどの苦しみを伴う感情)を元に、それを引き起こす原因となった信念を見つける。その過程に論理的思考や推理、直感が入ってもいいし、また湧き起こった感情そのものに焦点を当てれば、その信念を抱くに至った元々の体験の記憶を蘇らすこともできる(原因がわかると、信念を外すのが更に容易になる。始めのうちは遠い昔の記憶なんてなかなか呼び出せないかもしれないが、信念を外すごとにエネルギーを取り戻していくので、記憶を蘇らす力も次第に強まっていく)。そうして見つけたその信念が、もう古いもので、客観的に見れば理不尽な内容であり、ただ自分に苦しみを与えるだけのものに過ぎず、もはや今の自分にはそぐわないことを理解すれば、その時点で自動的にその信念は体系の中から外される。呪文を唱えたりエイや!と気合を入れたり声高らかに宣言したりする必要はまったくない。信念はそれをかつて(無意識に)受け入れた時と同じように、発見され認識され不要と判断された時点で、自動的にお役御免となるのだ(その代わりになにか他の、外す信念とは正反対の新しい信念と置き換えるのも一つの手法ではある。が、それはしたければしてもいいし、したくなければしないでいい)。
 信念の中には、すぐに呆気なく外れるのもあれば、外したはずがなぜかまたちょくちょくと顔を出すものもある。それまでの何十年という習慣(エネルギー・パターン)が、全体との兼ね合いの中で依然維持されているのかもしれない(柱を一本引き抜いたとしても、すぐには家全体が倒壊しないのと同じことだ)。しかしそれはかつてより一段力を失くしているから心配ない。その出現に気づき、ただ(あ、また顔をのぞかせているな)と思うだけでいい。それに対して不満に思ったり、否定したり打ち消したり努めて他のことに注意を逸らせたりする必要もない。ただ浮かんでは消える感情をそのまま「流れ去る」に任せるだけだ。そこでそれに焦点を当てると、逆にエネルギーを注いでしまうことになる。感情や想念は、たとえその背後にどんな強力な信念があったとしても、ただ気づいて流してる限り、それが現実世界に効力を持つことはない。
 ここで留意しておかないとならないのは、信念体系はとても複雑でこんがらがったような構造をしているということだ。一つの信念の上にたくさんの小さな信念が載っかってることもあれば、逆に一つの信念を複数の信念が支えていることもある。また一見別々のようでいて意外な信念同士が繋がっている場合もある。だからある感情の元になった信念を外した!と思っても、なぜか幾度も幾度も、以前と同じ感情が湧き上がる(つまりなにも変わっていないように見える)ことも多々ある。そんな時は、まだ見つけていない他の信念がどこかに隠れている公算大だ。それはすぐに見つかるかもしれないし、ある程度先に進まないと解決できないかもしれない(信念体系にも階層構造があって、信念によって外す順序があったりする)。またそれら関連する信念がたくさん、場合によっては両手の指で数えきれないくらいあったりすることもある。そんな時は、とにかく諦めないでやり続けることだ。常に新しい信念、新しい信念と見つけていく。そうしているうちに、必ずすべての信念が外されて、同じ感情は起こらなくなる。
 さて氷山に戻って見ると、上の方の信念をポイポイと外していくうちに、全体が軽くなっていって、その分それまで水面下に隠れていた信念が顔を出すようになる。これから、なんだ自分はこんな信念を持っていたのか、まさかこんなものが!と思うような経験をたくさんするだろう。人間は自分自身のことを一番よく知らないものだ。過去の辛い記憶が次々と蘇ってくるかもしれない。でも歩を進めるにしたがって、それら記憶の辛さ悲しさは徐々に薄まっていって、あらためて冷静に客観的に観れるようになってくる。心配しないでいい。外した信念の分だけ、過去の体験と感情を浄化し、新しい自分を創っていっている。そして信念体系の再構築は、直截的に身の周りの世界へと反映される。それに気づくと一層弾みがついて、もう信念を見つけ外すのが喜びとなってくる。嫌な出来事、苦しい状況ほど、それだけ深いネガティブ信念を発見する絶好のチャンスだ。そうして見つけてはポイしていくうちに、氷山全体はますます小さくなっていって、潜在意識や無意識が次々と顕在化し、残った信念は自分になんらかの喜びや幸せをもたらすものだけになっている。元々潜在意識も無意識も、複雑で内部矛盾を抱えた信念体系の所産であったと言える。本来「意識」にそんな階層付けなど必要ないのだ。不要な信念、好ましくない信念を外していくことによって、自分の意識全体がまるごとはっきり見えるもの、自己掌握できるものに変わっていく。
 信念体系への取り組みを深めるにつれ、エネルギーがたくさん戻ってくるので、信念体系そのものを改変する余地もそれだけ増えてくる。自分を幸せに導くような信念を新しく加えてもいい。そうして好きな世界、楽しみたい世界をどのようにでも想像することができるのが、本来の信念体系の役割だったのだ。ただ地球上の僕らの多くは、そのためにまずは大掛かりな手術をしなければならない。それが自分自身の過去の清算であると同時に、そのような信念体系を受け継ぎ続けてきた両親や先祖たちの悲しみの連鎖、過去数千年の人類の不幸の歴史の清算にも繋がっている。
 この「自分の内面を観る」ことの他に、もう一つ別の、自分の信念を見つけるにとっても有効なやり方があるのだが、それについては少し後に譲ることにする。まずは先を続けよう。
 この信念を一つずつ外すやり方は、それ相応に時間はかかるけれども、その体験自体が貴重なものであるし、地獄から天国へと駆け上がる一つのドラマチックな物語を途中飛ばすことなく(つまりフルバージョンで)目の前に展開してくれる(きっと、こんな体験できるなんて、と涙が溢れることだろう)。またそれと同時に僕ら自身に「信念体系」というものへの理解を育んでくれる。そのどちらも、この地球という惑星に生まれることを選んだ魂たちの、まさに望んだことだったのかもしれない(いや、中にはこの地球に単に「地獄を味わってみたい」という目的で生まれた魂もいるかもしれない。また現状の世界に満足している人もいることだろう。それらの人たちはもちろん、自分の信念体系などに手を付ける必要はない)。
 さて、信念体系にメスを入れる三番目の方法は、「信念体系自体に力を与えない」ことだ。先に例えに出した「おもちゃに囲まれた子ども」を思い出してほしい。僕らが持つ信念は、それ自体にはなんの力もない。威力を発揮するのは、僕ら自身が手に取ってそれに(僕ら自身の)エネルギーを注いだ時だ。つまり信念体系は、その生存も活動も完全に僕ら自身の持つエネルギーに依存している。だから、そもそも気に入らない信念は始めから手に取らなければいい、ということになる。ただここで問題は、この手に取る信念を、僕らが選ばずに「信念体系」自体が選んでしまっていることにある。そしてその信念は、僕らがそれに対して無自覚でいる限り、力を発動して目一杯に広がり、信念が別の信念を呼ぶという独自の展開をなして、僕ら自身からとれるだけのエネルギーを吸い取っていく(そんな状況を四六時中繰り返しているものだから、僕らは慢性的なエネルギー枯渇状態にあるのだ)。だからこの場合はいっそのこと「なにも信念を手にしない」という選択をする。信念体系全体を働かせない(または世界を知覚する最小限の活動状態に抑えてしまう)ということだ。
 瞑想や座禅などはこの手法のとっかかりとなる。なにも信念を働かせない時間を日常に挿入することで、その際の心の状態は日常の精神状態全般に影響を与える。いや、これはなにも特別なことではなくて、誰しもよく体験していることなのだ。例えばなにかに没頭しているとき、無心に単調な反復行動(車の運転でも農作業でもいい。柿の皮むきだったり編み物であってもいい)をしているとき、スポーツやゲームに全神経を集中させているとき、子どもが遊びに夢中になっているとき、いずれの時も、信念体系は働いていない(正確には必要最小限の信念のみ稼働している)。それを難しい言葉で言えば、「無我」の境地や、「内的沈黙」と呼んだりする(暴走した信念体系は四六時中なにがしかを僕らに呟き続けている、と見ることができる。それは「内的対話」と言って、信念体系が僕らを支配する、単純ではあるが強力確実な常套手段だ)。このような心の状態は、なにもあらたまって座布団に座るまでもなく、誰しも日常的に体験している。ただ人によって、その体験を意図的にしているかそれとも無意識か、頻繁なのか稀なのかの違いがあるだけだ。
 このような信念体系の不活性化状態を意図的に、少しずつ長期化、恒常化していくのがこのやり方だ。もしかしたらバラモン教の苦行なんかも、元はこんなところに発端があったのかもしれない。具体的な方法はさまざまあるし、個人的な嗜好や取り組みやすさ、効果の出やすさなどあるので、自分なりのやり方を見つけていく必要がある。例えば毎朝瞑想をすることは、信念体系を鎮めると同時に自分の高次意識との結びつきも深めてくれるので(曇ったガラスを磨き直すようなものだ)、とても有効だ。またなにか自分の好きな、本気になって没頭できる事に打ち込んでみるのもいい。達人が世俗を超越した境地を開くのも、こんなところに理由があるのかもしれない。
 この無我の境地を体験するたびに、信念体系は追い払われる。もちろんまた帰って来るのだが、その時は以前より少しだけ力を失くしている。そんなことを繰り返すうちに、やがてはまったく帰って来なくなるという。実は僕も経験不足で、まだその状態のことを自信を持って語れる立場にない。ただそれを体験した者によれば、全く信念体系を失ったとき、その時はそれまでに経験したことがないほどの(言語に絶する!)不安定さ(例えて言えば宙ぶらりんの状態)を感じるそうだ。そしてやがて、また信念体系を作ればその状態は改善されるだろうことに思い至る。そこで白紙の状態から新たな(今度は自分の望み通り、思い通りの)シンプルで平和的な信念体系を組み上げるんだそうだ。人生を初期化すること、肉体を持ちながらにして、死んでまったく新しい生に生まれ変わる、千載一遇のチャンスが与えられるんだそうだ。

 (つづく)
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