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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

日米同盟と原発  第5回   毒をもって毒を制す  その1

2025年03月21日 | SNS・既存メディアからの引用記事
 
 
日米同盟と原発】第5回「毒をもって毒を制す」その1

 (1)マスコミを取り込め 2013年1月23日 東京新聞

 1955(昭和30)年、戦後日本の原子力開発は大きく動きだす。米国産濃縮ウラン受け入れの閣議決定、日米原子力協定の締結、原子力基本法の制定…。

この年、現在に続く原子力政策の原型がほぼ固まり、翌56年、ついに英国から技術導入する日本初の発電用原子炉、東海原発(茨城県東海村)の建設が事実上決まる。

ビキニ事件後の反核世論が一転、原発へ傾いた背景として、日本のマスコミを巻き込んだ米国の原子力平和利用キャンペーンと、

政界入りした読売新聞社主の正力松太郎(1885~1969年)の存在は見逃せない。「原発の父」と呼ばれる正力、米国、マスコミの動きなどから、

原発建設に至る経緯を探った。(敬称略、年齢は当時)

◆すし店での密会神奈川県・逗子の正力氏(左から2人目)の自宅で、日テレ開局に関わった米国人技術者らと食事する柴田氏(右端)。

1950年代前半ごろの撮影とみられている=親族の奥田謙造さん提供

 一九五四(昭和二十九)年三月の「ビキニ事件」から半年以上はたっていた。国鉄新橋駅に近い東京・銀座のすし店で、

後に日本テレビ専務となる柴田秀利(37)は、旧知の米国人男性と席を並べていた。

 ビキニ事件の記憶がまだ生々しく、世間の関心は「原爆マグロ」など魚介類の放射能汚染に向けられていた。

ところが、二人はそんな風潮を気にせず、トロを肴(さかな)に杯を重ね「わさびなくして、すしなし」「いや、タバスコに勝る辛みなし」などと、冗談を言い合った。

 柴田が日テレ退社後に記した自著「戦後マスコミ回遊記」(八五年発刊)によると、この米国人は知人を通じての知り合い

。自らを「ワトソン」と名乗り、柴田が米中央情報局(CIA)職員かと尋ねたところ「違う、僕は米国務省の人間である」と答えていた。

 たわいもない「わさび・タバスコ論争」が一段落した後、ワトソンはビキニ事件後の日本の反核世論に懸念を漏らす。

「何か妙案はないか、考えてくれ」と水を向けると、柴田はこう応じた。

 「日本には『毒をもって毒を制す』ということわざがある。原爆反対をつぶすには原子力の平和利用を大々的にうたい上げるしかない」

 回遊記によると、ワトソンはこの助言に感激。「よろしい、それでいこう」と話し、柴田をぎゅっと抱きしめたという。

 米ソ冷戦当時、米アイゼンハワー政権は「反共の砦(とりで)」日本の反核世論が反米運動や左翼運動につながることを警戒。

この世論沈静化を対日戦略の要と考えていた。

 CIA説を否定したワトソン。しかし、首都ワシントンの米国立公文書館に保管されているCIAの五四年十二月三十一日付の機密文書には

「柴田は自分がやりとりしている相手がCIAだとは知らない」との記述がある。ワトソンがCIAかどうかは不明だが

、いずれにせよ柴田の言動は米諜報(ちょうほう)機関からマークされていた。

 当時、新興テレビ局の関係者にすぎなかった柴田。その柴田に米国はなぜ注目したのか。

 柴田は愛知県瀬戸市生まれ。実家は瀬戸物の販売業を営んでいた。少年時代、近所の英国人牧師から英語を学んだ。読売新聞に入り、

得意の英語を生かして連合国軍総司令部(GHQ)の取材担当記者を務めた。

 その柴田の名が一躍有名になったのは四六年の読売争議。経営側についた柴田は、左傾化する社内勢力を抑え込む立役者となった。

この際、取材で知り合ったGHQや時の首相、吉田茂(68)の力を借りたとされる。

 その七年後の五三年、読売は民放初の日テレを開局する。柴田はこの時も、渡米してテレビ技術を導入するなど中心的な役割を果たした。

反共精神と米国に幅広い人脈。柴田は社主の正力松太郎(68)から絶大な信頼を得るようになっていた。

 日テレで柴田の秘書を務めた現在七十歳の飯沼不二子。「正力さんは会社に着くなり『柴田を呼べ』と言うのが口癖でした。

他の重役も参加する御前会議が終わると、二人だけで部屋にこもることも多かった」と話す。

 日本の世論形成に影響力を持つ新聞、テレビのオーナー、正力とその懐刀の柴田。ビキニ事件の対応で手をこまねいていた米国が見逃すはずがなかった。

当時、米政権中枢に提出した米CIA極秘文書には「大手日刊紙とつながりを持つため正力と柴田を取り込むべきだ」との助言が盛り込まれていた。

 柴田がワトソンに「毒をもって毒を制す」と語った、あのすし店の密会があった翌年の五五年元日。読売新聞は朝刊一面で、

世界初の原子力潜水艦「ノーチラス号」を建造したゼネラルダイナミックス(GD)社長ジョン・ホプキンス(61)率いる

米原子力平和利用使節団を招聘(しょうへい)する、と報じた。

 GD側との交渉をまとめたのは、やはり柴田。掲載前日の大みそか、柴田が仲介役の米実業家に送った手紙のコピーが残っている。

英文タイプで書かれたその手紙には、お礼とともに「共産主義者の反米運動は激化している。

何も手を打たなければ中国やソ連の攻勢を許してしまう」と記されていた。

 使節団は民間交流だった。が、後に公開された米公文書で、CIAや米原子力委員会(AEC)など米政権も関与していたことが判明している。

 使節団招聘の記事からほぼ二カ月。五五年二月二十七日投開票の総選挙に、柴田が仕える正力は無所属で富山2区から初出馬する。

政界入りを目指し、掲げた公約は「原子力の平和利用」だった

 

東京電力福島第一原発事故は、原発の「安全神話」を根底から覆しました。事故当時、約50基もの原発が稼働していた日本。

世界唯一の被爆国でありながら「原発大国」へと変貌を遂げたのはなぜでしょうか。

2012年8月~13年6月までの長期連載では、戦後政治に多大な影響を与え、今も日本外交の基軸をなす日米関係を手がかりに、

未公開資料や100人以上の証言などから、その謎を解き明かしました。加筆し書籍化もされた「日米同盟と原発」の原稿を掲載します。

本文中の肩書きや括弧内の年齢は当時です。「現在は……」などと断りを入れてある年齢は、取材時点です。敬称は省きました。

 1955(昭和30)年、戦後日本の原子力開発は大きく動きだす。米国産濃縮ウラン受け入れの閣議決定、日米原子力協定の締結、原子力基本法の制定……。
 
この年、現在に続く原子力政策の原型がほぼ固まり、翌56年、ついに英国から技術導入する日本初の発電用原子炉、東海原発(茨城県東海村)の建設が事実上決まる。
 
ビキニ事件後の反核世論が一転、原発へ傾いた背景として、日本のマスコミを巻き込んだ米国の原子力平和利用キャンペーンと、
 
政界入りした読売新聞社主の正力松太郎(1885~1969年)の存在は見逃せない。「原発の父」と呼ばれる正力、米国、マスコミの動きなどから、原発建設に至る経緯を探った。...
 
 
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