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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

ガジュマルの木が鉢で元気に育っている

2019年06月08日 | 花・草・木・生き物

1990年ごろ大阪の淀屋橋の花屋で小さな鉢に植わった、高さ10㎝ほどの丸く樹形を整えられていた本当に小さなガジュマルを買った。緑の葉っぱがきれいだったから。
当時、会社の自分の机の上に置いても気にならない大きさだった。大阪から広島に転勤になってもしばらく淀屋橋のオフィスに置いていたが間もなく神戸の自宅に持ち帰った。
昨年の引越しで、地植えしていた木を鉢に移して東京の住まいのベランダに置いているが順調に美しい葉を茂らせている。
昨年5月

神戸で冬の間、葉を落とした幹に小さな葉の芽が出てきてほっとした。

昨年6月


昨年7月


昨年9月 ハイポネックスのアンプルは確かによくその役割を果たしている。

今年5月 東京では冬の間も葉が残った。神戸の六甲山麓の家は冬は外気温が零度以下になることが多かったので葉は落ちたが。

時々ウイスキーのロックを手に緑の葉っぱをボーっと眺めている。

先島諸島の木、ガジュマルを見ていると那覇の居酒屋「小桜」で飲んだオリオンビールの味を思い出す。

 動画制作は同行したHalimaoさんによる。

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イタリア一人旅行第三報   半島のかかとの位置にある街バーリから日帰りでマテーラへ

2019年06月08日 | ゲストルーム

イタリア旅行中のTnkさんからメールの第3報が届きました。
⇒「いまバーりから日帰りでマテーラのカフェにて休憩中です。酷暑の中をさまよった分ビールがうまいです。ようやく食べ物がでてきました。
地元ソーセージのグリルとのことでうまいかもしれません。


現在の拠点バーリは半島の踵なる事に興味を持ってコースに入れたのですが歴史的にも重要な都市でした。
石灰岩基調の白さが美しい街で妙に落ち着きます。☝と☟の写真はマテーラのサッシ(洞窟住居群)です。」


Wikipediaから部分引用;

バーリ(伊: Bari )は、イタリア共和国南部の都市で、その周辺地域を含む人口約32万人の基礎自治体(コムーネ)。プッリャ州の州都であり、バーリ県の県都である。
アドリア海に面した港湾都市であり、東地中海の国々と広範囲な貿易をおこなう商業の一大中心地である。サンタクロースのもととなった聖人ニコラオス(聖ニコラ)ゆかりの地として巡礼地とも。

歴史[編集]
バーリは古代にはバリウムと呼ばれた。もとはギリシャの植民地で、後にローマの商業の中心地となった。その後はランゴバルド族、東ローマ帝国の支配を受けた。1071年、ノルマン人によって征服されたことで、東ローマ帝国の南イタリア支配が終わり、12世紀前半に成立したシチリア王国の統治下におかれた。第二次世界大戦中はイタリア海軍の主要な基地となったが、1943年9月には連合国軍に占領された。同年12月2日にドイツ空軍によって空襲が行われ、港湾施設などに多大な被害を受けた。

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―亡き杉葉子を偲んで― 「青い山脈」の成功と失敗 半澤健市 

2019年06月08日 | 音楽・絵画・映画・文芸

          
リベラル21から引用。

《ヤミ屋に囲まれて生まれた「青い山脈」》

 昭和24年1月に作曲されたこの曲のメロディーは、当時服部(良一)が大阪駅から京都駅へ行くすし詰めの電車の中で生まれた、という。ハッピ姿やハチ巻きの闇屋の大群がぎっしりと乗り込み、服部は身動きも出来ないまま、車窓からくっきりと見える美しい山脈(やまなみ)を眺めながら、健康的なメロディーを頭に画いていた。これと思った旋律が浮かんだので、忘れない中に直ぐに書き留めておかなければ、と考えた服部は、五線紙をカバンから取り出す隙もないので、ポケットの手帖を辛うじて引っぱり出し、手帖の鉛筆で、ハーモニカの略符1,2,3を使って素早く書き留めた。まわりの闇屋さんも、商売の計算をしている仲間と思ったのか、同情的に見てくれたので、電車が京都駅に滑り込むまでに、最後の小節を無事書き終って、目出度く「青い山脈」の名旋律が完成した。

 これは、三枚組のCD『服部良一―僕の音楽人生』(1989年、コロムビアミュージックエンターテインメント(株))に、音楽評論家瀬川昌久が書いた解説の一部である。

《「青い山脈」を選んだのは一人だけ》

 30人ほどの映画同好グループで、「世界映画史上・私のベスト3」という人気投票をしたことがある。20年ほど以前と記憶する。上位には「天井桟敷の人々」、「ローマの休日」、「第三の男」、「ライムライト」といった不朽の名作が、邦画では小津安二郎、黒澤明、溝口健二の代表作が並んだ。
「青い山脈」を挙げたのは私一人だった。服部良一が「闇屋さん」に囲まれて名曲を作ったとき、私は13歳であった。「青い山脈」と杉葉子は、私にとって青春の象徴であったし、私の中では「戦後民主主義の象徴」であり続けた。
それは「青春」の輝きと儚さ、未成熟に終わった「戦後民主主義」をずっと想起させてくれたからである。原節子(教師島崎雪子)、木暮実千代(芸者)、若山セツコ(その妹)、池部良(受験浪人金谷六助)、竜崎一郎(独身の町医者)、伊豆肇(旧制高校生ガンちゃん)。彼らは既に映画に出演していた。特に原節子、木暮実千代、竜崎一郎は、戦意高揚作品の主役、準主役でもあった。杉葉子だけが唯一の「新人スター」である。その肢体の美しさに私は息をのんだ。私は今でも映画館のどの席の近くで見たか―混んでいて座席に座れなかったのである―をハッキリ覚えているし、その後テープやDVDで何度も見て場面の展開を覚えている。

《杉葉子と原節子は戦後民主主義の象徴だった》

 今井正によるこの作品のあと、「青い山脈」は三回のリメイクがあったが、誰もが思い出すことはない。杉葉子はその後、成瀬巳喜男の「山の音」「めし」、市川崑の「結婚行進曲」「青春銭形平次」、田中絹代の「月は上りぬ」などで一定の評価を得たが、結局「青い山脈」の寺沢新子(旧制高等女学校5年生)の衝撃を超えられなかった。女子大出の英語教師を演ずる原節子は理念の具象化として表現されている。それもあって彼女の住まいが画面に現れることはない。杉葉子も「お母さんが二人いる」設定にもかかわらず、その家庭も画面に出てこない。主題歌「恋のアマリリス」の歌詞にある「姉と呼びたき師の君も悩み給うか恋の夜は」は新子の目線で見た雪子である。前編で、二人が女学校に近い小高い丘の芝生でおどる場面に、このメロディーは雪子が口笛を吹く設定で使われた。

《名曲だけが残るのだろうか》

 監督の今井正はなぜか、服部作曲の「青い山脈」を高く評価しなかったという。しかし藤山一郎と美人歌手奈良光枝が吹き込んだレコードは空前のヒットとなった。70年後の今でも、懐メロのTV番組は、「青い山脈」の全員合唱で終わる。今井はそれでも、前編―前後編二本あったのだ―のタイトルバックに合唱で入れた。後編、恋人たちが砂浜に向かって銀輪を走らせる場面にも使った。婚約した原節子と竜崎一郎を望遠レンズに入るラストシーンでもゆっくりした旋律を歌い上げている。
私個人は、レコードB面で、二葉あき子が歌った「恋のアマリリス」を好む。杉葉子らは撮影中に後者をくちずさむことが多かったという。両曲は米国のポピュラー音楽家パーシー・フェースが、大編成オケ用に編曲して録音しているが、叙情性において映画タイトルバックのコーラスに遠く及ばない。

《人は71年前を知っているだろうか》

 昭和24年は今から71年前である。そこから71年遡ると、1877年(明治10年)である。国会も憲法もまだ出来ていなかった。右大臣三条実美の時代である。官軍は西郷隆盛と西南戦争を戦う一方で、上野では内国勧業博覧会が開かれていた。「音楽取調掛」が「東京音楽学校」に改組されたのはこの10年後である。
私が「青い山脈」を見たときに、71年前のそういう過去を回想することはできなかった。ならば、私の「青い山脈」回想は、今の13歳に、伝わるであろうか。私は「青い山脈」を論じて次のことを伝えたいのである。

《歴史認識はバラバラにされ百田某が歴史を語っている》

 昭和の前半に生まれた「青い山脈」は、その昭和を生き延び、平成をも生き延びた。されば、年相応に、老いたといわねばならない。「青い山脈」が夢見た生活水準は、その後40年ほどで実現した。GDP世界第二位になったからである。しかしそこが頂上だった。平成の30年間は、映画の恋人たちの成果が、次々にハゲ落ちる過程であった。更にいえば、もともと「青い山脈」の精神的な理念は実現されなかった。「男女同権」や「基本的人権」は、競争第一の企業社会の門前で立ちすくんだのである。同権の代わりに不平等と格差が、そして人権社会の代わりに同調圧力の共同体が出現したのである。「令和の御代」は、「青い山脈」の精神的側面の実現に失敗した日本の現実を、更に厳しい姿で我々に突きつけることになるだろう。人々は今、70年どころか、100年単位の長期展望を迫られている。同時に百田某の「歴史書」がベストセラーであるのが現実である。(2019/06/03)

引用元。  

半沢健市さんの追加コメント

 ■杉葉子さんは2019年(令和元年)5月15日に、90歳で、死去されました。
今井正監督の「青い山脈」(1948年)で青春を謳歌した3組のカップル、竜崎一郎・原節子、池部良・杉葉子、伊豆肇・若山セツ子、はもう一人もこの世にいなくなりました。2010年に書いた池部良氏の追悼文も下記に掲げておきます。同世代の読者が一人でも多く読んで下さるように。京マチ子さんが「羅生門」で登場する場面、「雨月物語」で扮した森雅之と戯れる美しい亡霊。これも日本映画が世界に誇る名場面だったと思います。(半澤健市)
「青い山脈」の時代(1)(2)http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-1356.html
「青い山脈」の時代(3)http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-1363.html

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