田尻のムムリク絵画館があるI邸に一泊した翌日、Iさん親子に大崎市の歴史を辿るドライブに連れて行って頂きました。
[ウィキペディアから。大崎市は、宮城県北西部の大崎地方に属する市である。 2006年3月31日、古川市、志田郡松山町、三本木町、鹿島台町、玉造郡岩出山町、鳴子町、遠田郡田尻町の1市6町が新設合併して誕生した。県内において人口は仙台市・石巻市に次ぎ3番目となり、面積も隣の栗原市に次ぎ2番目となった。 面積: 796.8 km²人口: 13.4万 (2014年5月)]
ドライブの途中、東北新幹線の駅がある古川を通ったが、古川は教科書で習った思想家「吉野作造」の生地だと教えてもらいました。
旧有備館の庭園は樹齢300年ほどの大木の多い、背後に竹も配置されているおおらかな庭園で 気に入りました。
庭園の近くに個人が運営している日本刀の美術館「中鉢美術館」があります。日本刀のルーツが実は東北にあり、その源は遠く韃靼人などの騎馬民族にあると初めて知りました。確かに日本刀の刀身のソリは世界でも独特の形状と美を持っています。案内して下さった中鉢館長は日本刀にこもる精神はここ東北の民から発したと言われました。
Wikipediaから。
毛抜形太刀の直接的な起源は、古墳時代、東北地方の蝦夷が用いてきた蕨手刀である。朝廷の律令軍によって東北地方が制圧支配されると、蝦夷の文化・戦術(武人を含め)などが内国に伝わり、蕨手刀が段階的に改良発展された結果として、日本刀の原型とされる毛抜形太刀へと至る。
まず、蕨手刀の柄に透かしをつけた毛抜形蕨手刀に改良された。これは出土状況などから9世紀初めに蝦夷自身の手によって改良されたものと見られている。この柄の透かしによって、握りやすくなり、柄と刀が一体であった蕨手刀の弱点である斬撃時の衝撃を緩和させることに成功している。
さらに、毛抜形蕨手刀の柄頭から特徴的であった蕨形の装飾が消えて毛抜形刀となる。柄頭の装飾が消えたことからも、実用性に重きが置かれていく過程が分かる。この毛抜形刀についても、蝦夷が9世紀末までに開発したものと考えられている。
この毛抜形刀の刀身をさらに長くして70センチ近くに達したものが毛抜形太刀である。蕨手刀から毛抜形刀までは、東北蝦夷によって成立したものだが、この毛抜形太刀は、これらの刀を参考に内国で開発された。最古のものは、長野県塩尻市宗賀で出土したもので、10世紀のものと推定されている。出土刀も、神社に奉納されていた伝世刀も、全て関東以西である。突き刺す直刀と違い、斬ることに特化していった蕨手刀系統の刀は、馬上での疾駆斬撃戦に有利であった。そのため、毛抜形刀は内国の武人にも好まれたものとみられる。
毛抜形刀から毛抜形太刀への飛躍は、9世紀末から10世紀前半の東国の乱の中で起こったものではないかと下向井龍彦(広島大学大学院教育学研究科教授)は考察している。毛抜形太刀は急速に普及し、衛府官人(天皇親衛隊幹部)の制式太刀として採用されるに至っている。
この太刀の登場により、律令的戦術から脱した武人・武官達は、中世の武士の原型を作ることとなる。