阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

塩飽本島を訪ねる

2007年04月03日 | ゲストルーム
広島県廿日市市のSさんからお便りを頂きました。画像はご友人のSkさんが撮影されたものです。

3月14日にTSS文化大の終業式の翌日、歴史探訪の修業旅行として総勢21名
でバスを仕立てて岡山の児島経由で「塩飽本島」(クリック)に行ってきました。瀬戸内海の島で周り
からの影響がなかったので、多くの史跡が残っていて大変勉強になりました。人名
(大名ではないという意味のようです)制と言う自治組織が信長、秀吉、家康らか
ら認知され、650人で1250石を領有することが認められた朱印状が交付さ
れ、代表の4人の年寄りで島を治めたそうです。大変珍しいことだと思います。

いずれも木烏神社です。鳥居が珍しいのです。笠木が反り返っているところです。これは年寄り宮本家の位牌型供養塔です。

この史跡として制札場、千歳座、年寄り(人名の代表者)家のお墓、塩飽勤番所
(行政、立法、司法の全てを取り締まっていた所)、笠島の町並みなどのほかに木
烏神社、東光寺、徳玉神社、笠島城跡等あって、日本にもこのようなところがあっ
たのかと驚きをもって見学しました。このようになったのは「塩飽水軍」が大いに
活躍したためで、その優れた操船術を生かして水軍として活躍。室町幕府の水運を
荷い勘合貿易(幕府と明の公式な貿易)を許されるまでになったそうです。

信長の石山本願寺攻めに参加以降「塩飽水軍」の名が知れるようになり、その活躍
ぶりは境港での「触れ掛り」の特権である信長の朱印状からはじまって、秀吉から
徳川幕府へと受け継がれ、これまでに例を見ない「人名 (にんみょう)」の制度が
確立されたそうです。「東回り航路」や「西回り航路」で繁栄をもたらされたが享
保(」1716年~)にはいり経済が逼迫して塩飽の水運は衰退、船方は舟子とし
て出稼ぎを余儀なくされた。厳しい状況下「塩飽大工」が台頭して、彼らは宮大工
や舟大工として「塩飽文化」を開花させ、全国に神社仏閣の建築工芸を広めたそう
です。
東光寺の木造薬師如来坐像です。平安後期の作といわれています。

名人芸といわれる宮大工の第一人者橘貫五郎は、備中国分寺や讃岐・善通寺の五重
塔を建造したことで知られています。塩飽船方衆最後の勇姿は、万延元年(186
0年)1月の咸臨丸の太平洋横断であるそうです。長年幕府の船方として高度な航
海術を身に着けた塩飽船方は、艦の操船者50名のうち実に35名に登ったそうで
す。開国以来初の海外渡航は、塩飽船方衆の快挙でもあったようです。

☆ Sさん、塩飽島があり塩飽水軍の存在も聞いた事がありましたが、こんな住民
自治の長い歴史があったのは知りませんでした。我々は明治以降の中央統制システ
ムに完全に慣らされ、官製教科書などでもこのような事実は取り上げられていない
のではと思います。
メールと画像有り難うございました。またあちこちの訪問先のことをご連絡ください。
コメント (1)
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