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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

中国・北京飯店で食べた「冷や麦 」は涙が出るほどおいしかった。      昭和50年代の海外あちこち記  その8  

2024年07月01日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)はじめて中国に出張したのは1979年8月のことです。北京の町はまだあの緑色の人民服の人たちと自転車で一杯でした。

マイクロバスで同行の人たちと交通部(運輸省)へ行く途中にえんえんと続く高い塀を巡らせ、門ごとに拳銃を吊るした紅軍の兵士が

厳めしく門衛をしている広大なエリアがありました。「ここは何ですか?」とアテンドの外事課のエリート役人の若いミス曹に聞くと

「共産党のカンブー(幹部)が執務をしたり、住んでおられる「中南海」というところです」と敬意のこもった口調で教えてくれました。


自分がそれまで何となく持っていた共産主義の国は皆平等という概念がありゃこれは違うとまず感じた最初の一歩でした。

女性の幹部も多く、男女差別は殆どないようでしたが、一般人と幹部クラスの生活は天と地ほどの差があるようでした。

例えば百貨店の玄関に、当時でもあまり見かけない紅旗という国産の運転手つき大型高級車が何台も女性や子供を乗せてやって来ます。

「あの人たちは誰ですか?」と聞くと「幹部の専属車でご家族の方々が買い物に来られておられます」とミス曹はこれまた当然のように答えました。

2)技術交流という名目の費用当方持ちの勉強会ですから、先方も気を使って日曜日に万里の長城にマイクロバスで案内してくれました。

まだ観光客相手のレストランもなく昼食もすべてバスに積み込んでありました。長城はさすがにこんなものを作った漢民族の底の知れぬ力と

これを作らせた匈奴の想像の出来ない恐ろしさ、威力の両方を思いました。

7月の暑さでお湯のようになった心尽くしのビールで乾杯をして、パサパサのサンドイッチを食べながらの話の中で、

「何百年もかけてこの長城をつくるために中国全土から徴用された労働者を出来るだけ長く働かせるために毎食食べさせたものがあります。

また、もう一つ月からも肉眼で見える人工構造物であるピラミッドを造るエジプト人労働者に同じく食べさせたものがあります。

それぞれわかりますか?」と聞かれました。両方の正解は誰も出来ませんでした。



  答えは中国が「にんにく」、エジプトが「ゴマ」でした。

 3)北京の有名な焼き肉屋

 出張業務が終わり、気のいいメーカー(ボクの元勤務先)を中国へ連れ込んだ商社が「清の国」以来、北京でも有名な羊の焼肉屋で打ち上げをやってくれました。

 後日札幌でサッポロビールがやっているビール園で焼肉を食ったとき、同じ道具が出てきたので、北京の「ヨースーロー」だったか?のあの店の道具を

そのまま真似していると思いましたが、半球型の鉄板で焼いた羊肉を腹一杯食べました。

  漢民族の中国に「元の国」を作った蒙古族や「清の国」を作った満州の女真族の後裔も今の中国に当然中国人として暮らしていますが、

いまやその出自を隠しているという話を元清の高官の出の一族と称する、いま中国政府の運輸省の下っぱの酔っ払ったお役人から宴会の席で聞きました。

中国は多民族国家やなーと実感し、かつ差別はどこの人間、地域、いつの時にもつきものやなーと思い、漢民族中心主義は共産主義体制と関係なく

しっかりずっとあるのやなーと思いました。 

  4)北京飯店の冷や麦     1983年8月ごろに出張したときの話です。

 当時の中国のホテルはどこもいつも満室で、殆ど毎晩違うホテルを商社の佐藤さんと二人相部屋で渡り歩きました。

 人気のタバコ、セブンスターを一箱フロントにつかませると、満室のホテルにも突如空室が一部屋出てくることがあります。

 ある日曜日、ようやく泊まることが出来た郊外の古い「北京中央体育館付属飯店」からバスで北京一のホテルである北京飯店に麻雀とメシに行きました。

 北京市内を一人でバスで行動すると(当時はタクシーが極端に少なかった)乗客全員から毎回奇異というより冷たい目で降りるまでずっと注視され続けました。

当時背広を着ている人間は、人民服の北京普通市民から見ると全員外人ですから、戦前の日本と同じで外人はみなスパイ?敵性人?と

いうことかなと能天気な身も思わざるを得ませんでした。(特にまたどう見ても典型的な日本人の私にとって)。

  北京飯店の中に商社のオフィスがあり支店長が住んでいます。支店長は二部屋持っていて一部屋を支社員全員の会議室兼娯楽室にしていました。

 マージャン卓もその部屋にありました。

ホテルに着いたら、ちょうどメインレストランで日本の「冷や麦」をホテルのコックに作らせて、

その広い娯楽室で中国出張中の各メーカー社員達と駐在商社員が十数人で食べはじめるところでした。

 3ヶ月近く北京、天津、大連を渡り歩いて、ほとんど中華料理しか食べてない身にとってこんなうまいものがこの世にあったかと涙がこぼれそうでした。 

(画像は全てネットから借用。当時、阿智胡地亭が撮影したものではありません)

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アメリカのニューオーリンズへ水平引き込み式クレーンを対米初輸出するのに営業担当として参加した。      昭和50年代の海外あちこち記   その7 

2024年06月18日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1978年と1980年の2回 アメリカのニューオーリンズに行きました。

 ミシシッピイ川河口で、上流からハシケで運ばれるカオリン(お白粉などの原料)を本船に積み替えるのに

旋回式水平引込みバケットクレーンが最適ということで、色々な経緯がありましたが受注が決まり、河口の真ん中に基礎を打ち、

その上に日本製のクレーンが設置されることになりました。水平引き込み式クレーンのアメリカへの輸出はこれが初めてでした。

☟(富山県伏木港へ納入された同型の旋回式水平引込み式クレーン。 アメリカ納入機には車輪はなく固定式で、ロープの先端に大型バケットをつけた。

(旋回式クレーンは上部全体が360度旋回する。)

 愛媛県の工場の岸壁から 上部と下部に分けて組み立てしたクレーンを台船に乗せ、高馬力の曳船で太平洋を渡り、パナマ運河を通り、

メキシコ湾に入りサイトの近くまで辿り着いたとき、折あしくハリケーンが近付きタンパ港へ緊急避難するなど紆余曲折がありましたが、

無事クレーンを載せた 曳船に引かれた台船は太平洋を押し渡りミッシッピー河口に到着しました。

そして吊上げ工事も完了し、うまく所期の機能を発揮しお客さんに喜ばれました。

 以下の体験は海上輸送や現地工事の前の、注文が決まった前後の時期のことです。

発注内示後の契約書条文の確認を営業担当としてする場所は、お客さんの本社があるニューオーリンズでした。

  ニューオーリンズの街

 街はミシシッピー河口に位置するせいか、市中はかなり湿度が高く、空港について冷房の効いた飛行機から機外に出ると、

あっというまに眼鏡が白く曇り何もみえなくなりました。 湿度が高い上にホテルの冷房の具合も悪く、下着を洗濯して部屋に吊るしても殆ど乾かずまいりました。

 郊外に車で出ると木々のどの枝にも高温高湿のせいで地衣類が着き、長い毛をたらしていて何となく不気味でした。

昭和30年代の始め頃、この町に来たことがある亡父の アメリカ土産の中にあった絵葉書を見て、気味が悪かったので覚えており、

その地衣類の実物を自分の目でもみることになり、親子2代でニューオーリンズに来ることになったのも不思議なことでした。

「欲望という名の電車」という芝居の舞台となった町で、当時も路面電車が走っており昔フランスの植民地だった頃の

コロニアル形式の今はペンキも剥げかけた木造の家並みが、森の中にけだるく幽霊のように立っていました。

繁栄時から時が経ち、時代に取り残された町がここにもありました。


 ジャズとフレンチクオーターとナマズ料理

 ニューオーリンズと言えばジャズです。もちろん土曜日、日曜日は出張チームのみんなでフレンチクオーターに繰り出し、遅くまでジャズを楽しみました。

そして名物料理はナマズ料理と言う話です。夜が来るのが楽しみでした。

まあ刺し身は無理としても焼き物、煮物などどういうふうにやっつけてくれるのか。土地で有名なレストランに入り、

バドワイザーを飲みながら待つこと暫し、出てきたのはナマズのフィッシュボールの揚げ物が皿にどさりでした。

 やはりそこはアメリカでした。フライドボールの山を前にして一人ため息をつきました。

おいしかったけど「洗鱠」や「鯉こくならぬ鯰こく」を想像したのが間違いでした。期待が大きかっただけに落胆の度合いが大きかったです。

 南部という土地柄を感じた

あのじとっとした空気の中で北部のニューヨークと違って、何となく去勢されたような黒人が遠慮がちに町を歩いていました。

本屋でもプレイボーイなどの雑誌が置いてある一角にはロープが張ってあり黒人は入れないようにしてありました。

白人女性のヌード写真は彼らには見せないということだったのでしょう。

 先日テレビの深夜放送で、シドニーポワチエが主演した「夜の熱気の中で」という映画を20数年ぶりに懐かしく見ました。

南部の町に別件捜査に来たNYの黒人刑事が殺人事件に巻き込まれ、偏見の目の中で地元の署長にも反発されながら、

事件を解決して去っていくという流れ者ヒーロー西部劇を当時の南部に置き換えた映画です。つい終わりまで見てしまいながら、

南部と北部での黒人系の人達の意識の差や白人系住民の彼らの扱いの差を、通り過ぎのよそ者ながら感じたことを

あのニューオリンズの出張の記憶と共に思い出しました。

 頭では、差別はよくないと思っていても、夜 ニューヨークで(当時  ニューヨークの今は崩壊してなくなったOneワールドトレードセンタービルに

会社のニューヨーク支店があり、アメリカ出張の時には必ず寄っていた)一人で飯を食いに行きホテルまで帰る道すがら、

ビルの間で目だけが白く光って見える黒人にじっと見られた時の気味の悪さは、理屈ではなく体がすくみました。

アメリカという国は日本と違って大変な幅の人間を含んで成り立っているんだなと、その大変さをつくづく思います。

それと同時に、映画や小説に出てくる少数民族の扱いが変わって来ているように、

少なくとも表向きは公平性を拡大していることにも凄い連中やなあとも思います。

 (2002年頃メールで友人知人に発信)    (画像は全てネットから借用。当時、阿智胡地亭が撮影した写真ではありません。)

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台湾高雄、ニューデリー、パリで経験した支払いや両替時の金額確認の重要性。     昭和50年代の海外あちこち記  その6  

2024年05月28日 | 昭和50年代の海外あちこち記


1、台湾で(中国本土も同じですが)お客さんの招宴を受けた翌日は、必ずこちらが同じメンバーを招待して宴会をします。

紹興酒で乾杯、乾杯の連続でそれほど酒に強くないホスト役の上司も勘定の時はフラフラです。

しかし驚いたのは、このぐでんぐでんに酔った課長がたくさんオーダーした料理の勘定書の長い長い明細書を一品一品

身体をゆらゆらさせながら、注文していない料理まで請求されていないかどうかを チエックしていきます。

そしてレジのおばさんにこれは頼んでないよと何品か確認していきます。

 大声でもめながらも おばさんがボーイに聞いてオーダーしてなかった料理を消して再集計しました。

お客さんが紹介してくれた一流の店なので、ひやひやして そばについていました。

後で上司に「いつもこうやらんといかんのですか?」と聞くと、

外国ではこれも当たり前、時々注文もしてないのに紛れ込ませて請求されることがある。

日本人はいつもノーチエックで支払うと思われると、この後に来る日本人がなめられて迷惑するから必ずやってください」 と言われました。

 この勘定書の明細表の一品一品のチエックは いやあホンとになかなか慣れませんでした、普通の日本の習慣が身に付いたボクにとっては。

2、インドのニューデリーのホテルの両替窓口で円をルピーに換えました。

その場で数えるともらったルピーが掲示されているレートで計算した事前に想定した金額と違いました。

金額が合わないというと、平然と机の下から差額相当分を出して来ました。素早くしかも顔色一つ変えずに。

 翌日、日本の農協VIPの使節団が同じホテルに泊り,同じ窓口でたくさんの人が 両替し誰もチエックしなかったため、

その場は誤魔化され後で気がつき ホテルの責任者ともめていました。しかしチエックしない方が悪いという考えには日本人はなかなか慣れませんね。

3、パリの銀行でフランに両替しました。窓口の女性はキュートなパリジェンヌです。

やはり渡された金が数えると足らず、文句を言うと机の下からこれまた素早く平然と出してきました。

手品みたいに数枚抜くようです。ぼんぼん顔のボクだからなのか、覚束ない英語のせいなのか、日本人はお札をその場で数えないと知られているのか・・

しかし上司の台湾でのOJT(現場教育・指導)のおかげで、必ずその場でお金を数える習慣が身に付いていたので、海外のどこの国でも一度も実害にはあいませんでした。

 (アメリカのあちこちのホテルでは 当時よく国際電話代という印字が請求書にあって 支払いの時にこんな電話はしていないから項目と金額を消せ、

いやかけたとか不愉快なやりとりをしたものだ。)

 ボクが子どものころ住んでいた町に、時々外国の貨物船がつき、外国人船員が食料品を買いに近所の店に来ていました。

そこの店主は船員相手には2、3倍ふっかけて売ると評判で、皆の噂になっていました。

人間の持つ「せこさや狡さ」は11面観音の一面ですが、いずこの国の人間も変わりませんね。

(画像はいずれもネットから借用。当時の写真ではありません。)

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1人でバスに乗ったら。   台湾高雄、ホノルル、北京で。          昭和50年代の海外あちこち記 その5

2024年04月21日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)台湾の高雄で出張中に休日に一人で市営バスに乗りました。

降りるときに車掌に料金を払おうとしましたが手に広げた小銭を見て車掌が何かぶつぶつ言います。

 どうも金額が足りないらしいが言葉がわかりません。

あわてて紙幣を出したが大きすぎたらしく、又文句を言います。(ように思えました。)

そのとき、すぐ後ろの席の年配の女性が席から つと立って、ボクの手のひらに小銭を足してくれました。

そして車掌に何か言いました。車掌が全部の小銭を受け取って下りろとボクに身振りをしました。

彼女の方を振り向いて謝謝と言ったら、少しはにかんだ少女のような笑みを浮かべて軽く会釈を返してくれました。

ボクはこういう時の常で全身に汗をかいて急いでバスを降りました。

(昭和54年ごろ。当時、中国鋼鉄<CSC>に搬送設備の納入業務で高雄によく行っていた。)

2)ハワイ州電力庁の幹部との面会日が決まるのに時間がかかり、ホテルで待機していましたが泊まったホテルはワイキキビーチのすぐ傍で日本の観光客で一杯でした。

本来の目的が果たせるまでは泳ぐ気にもなれず、同行の技術屋さんも皆手持ち無沙汰でした。ようやく翌日にアポイントが取れたので、その日は自由行動としました。

暇なので市内循環バスに乗ってみました。

バスが市街地を離れていくと「満腹食堂」や「妹尾美粧院」などの古びた日本語の看板が出ている集落に入りました。

道路の舗装も穴ぼこだらけで、街を歩く人はお年寄りの日系人だけでした。町並みはペンキが剥げた家が多くて寂れていました。

一瞬日本のどこかの裏町を走っている錯覚におちいりました。

ホノルルのダウンタウンからわずか20分くらい走っただけのところに、このような集落が次々表れました。

表のホノルルと別の顔のホノルルを見たような気がしました。

しばらく走ると高台に出ました。ダイヤモンドヘッドを左に見てワイキキビーチが真下に見えます。

ふと面白いことに気が付きました。ワイキキビーチの左側4/1が真っ黒に人で埋まっています。

そして右の4/3は広大で人はまばらにポツポツとしか見えません。私が泊まっているホテルは左側でした。

なんでこんなに極端に密度が違うのだろうと不思議でした。

 あとで聞くと左側は日本資本が買ったホテル街、右側はもともとのアメリカ資本が所有しているアメリカ本土観光客向けのホテル街でした。

そうか泊まったホテルの前の浜に日本人ばかりが、芋を洗うように密集していたのはそういうことかと完璧に納得でした。

(昭和55年ごろ。ハワイ州電力庁の発電設備計画に石炭火力があることがわかり、大型港湾荷役設備の売り込みに行った。)

3)北京市内を一人でバスで行動すると(当時はタクシーが極端に少なかった)乗客全員から毎回奇異というより冷たい目で降りるまでずっと注視され続けました。

当時背広を着ている人間は、人民服の北京普通市民から見ると全員外人ですから、戦前の日本と同じで外人はみなスパイ?敵性人?と

いうことかなと能天気な身も思わざるを得ませんでした。(特にまたどう見ても典型的な日本人の私にとって)。

国営の新聞、ラジオ、テレビしかない(当時はインターネットがないから、お上の言う事と違う情報は一般市民は誰も入手出来ない)国へ普通の民間会社の人間が商売で行って、

日本の大手メデイアのデスクがフィルターにかけた駐在員報道と、随分違う面白い経験をしたのかも知れません。

 そうは言っても仕事で付き合う自分と同じような中国人と、あのバスの乗客達の落差は、生身で個人的に一回でも付き合えば埋まって行くこともいろんなことを通じて実感しました。

(昭和57年ごろ。中国3港港湾設備近代化の世銀入札案件で中国に3ヶ月ほど出張していた。)

*画像は全てネットから借用。

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早朝のパリの街路 & 四日市の港中学校の後輩がオーナーシェフのパリの日本料理店「伊勢」       昭和50年代の海外あちこち記 その4

2024年04月02日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1977年にパリに3回出張しました。

 森村桂さんの往時のベストセラー「天国に一番近い島」の舞台、南太平洋のニューカレドニア島は旧フランス領で、ニッケル鉱の世界の一大産地です。

ニッケル鉱山から積出港までの長距離コンベヤ設備が計画され、その設備の国際入札に所属貿易部が参加しました。ニッケルの鉱山会社の本社はパリにあります。

1)ある朝6時頃、ホテルで目が覚めてタバコが切れているのに気づき、外に買いに出ました。小さなホテルで自動販売機なんかありませんでした。

道路に出ると、昨夜はなかった物が驚くほど沢山落ちています。

 よく下を見て歩かないとすぐ踏んでしまうくらいそこらじゅうにあります。それは犬の糞でした。

マンションやアパートなどの集合住宅で飼われている犬達が早朝飼い主に散歩に連れ出され、排便したものでした。

フランスではポピュラーな煙草、ジタンを買ってホテルへ帰る途中、

大きなタンクローリーが走ってきて道路中に水を撒き、犬の糞を側溝へ押し流しているのが見えました。

ああそうかパリの有名な下水道に流しているんだと気が付きました。

 クロワッサンとコーヒーの朝食を済ませて、お客さんのオフィスへ出かける頃の道路は鏡のように塵一つないきれいな街路でした。

毎朝、パリの全ての街路で恐らく何百年もされていることを見ることが出来たと一人ごちたことでした。

写真はネットから引用。当時の風景ではありません。

2)フランス語もメルシーボクーくらいしか解らないので、1人でホテル暮らしの時は、近くのスーパー(昭和52年頃の当時、

もうパリの街のあちこちにありました)に行って結構おいしい当地のサンンドイッチや惣菜類を買って食べていましたが、

ある時、日本メシが食べたくなり、JALがくれたパリマップを見てホテルの近くに「伊勢」という日本料理屋を見つけ歩いて行きました。

 入るとすぐのところに寿司のカウンターがあり、35、6才のフランス人が1人黙々とうまそうに寿司を食べていました。

後で店の女の子に聞くと、日本で働いて日本食にはまったフランス人が、国へ帰ってきて

一ヶ月に一度、給料を溜め、ああやってこの店に来る人が結構いる、その1人だとのことでした。

 寿司は高かったので、椅子席でメニューを見てそこそこの値段の親子丼を頼み、着物姿の日本人のアルバイトらしい女の子に

「伊勢」という店の名前はどうしてついたのか聞きました。

「マスターが確か三重県の出身だから伊勢と付けたと聞いた」と言ったので、「自分も三重県に居たことがあるので、

もしマスターが手が空いたら席にきてくれないか」と頼みました。日本酒を頼み、久しぶりの親子丼をおいしく食べ終わった頃、

マスターが来てくれました。パリに来てこの店を初めて3年くらいのこと。

 話をしていくと、驚いたことにマスターは四日市市の出身で、しかも同じ市立港中学校の3年後輩ということがわかりました。

習った先生方も丁度一回りした同じ先生達でした。大入道の四日市祭など話が弾みました。

 父親の数多い転勤のせいで住む土地が頻繁に変わり、小学校は3校、高校は2校に通いましたが、中学だけは唯一入学して同じ学校を卒業しました。

 その中学校の後輩にここパリで会うとはと驚きました。

板前も自分でやっているその主人の名前も顔も忘れてしまいましたが、先般、娘が友人と二人でパリを旅行した時、

行かなかったけどマップの[味でお薦めの店]に「伊勢」があったと聞き、後輩はずっとパリで 頑張っているんだと嬉しく思い出しました。

一言多いとあいかわらずヒンシュクを買うことが多いボクですが、どうして店名が「伊勢」なんだろう?と好奇心を持って聞いてみて良かったと思いました。

(本稿は2000年ごろ作成して知人友人に送信)

  パリの日本レストラン  引用元 

 いまパリには日本食のレストランはどのくらいあるのか。一説では1000軒を超えるという。

パリ1区のサン=タンヌ通りの両側には和食、ウドン、ラーメン屋などが軒を連ね、昼どきともなると、ラーメン屋の前に行列ができて、

そのなかには多くのフランス人も多く混じっている。言わずと知れた日本色ブームだが、なかには外国人がスシを握ったり、ラーメンを茹でたりしている店も多いと聞く。


 最初にパリに住んだ1970年代初頭、この界隈にはすでに数軒の日本レストランができていた。

サン=タンヌ通りがオペラ大通りと交わる角に東京銀行の支店があり、パリ在住の日本人の多くが口座を開いて、故国との金銭の送金をしていた。

戦前の横浜正金銀行の流れをくみ、海外貿易の決済や外国為替業務に慣れた東京銀行がもっとも便利だったのである。

そのためこの界隈を大勢の日本人が往来し、それにつれて日本食を供する店が出来ていった

本格的な店としては1958年に開店した「たから」や、その後にできた「伊勢」などがあった。

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ジャカルタ空港の「鮭の新巻き10本」の通関には大汗をかいた           昭和50年代の海外あちこち記 その3

2024年03月28日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1976年12月、インドネシアのジャカルタへ出張しました。

 入社9年後に突然 それまでの国内営業部から貿易部に配属されて海外出張2回目に、インドネシアのジャカルタへ年末に役員のお供で出張しました。
 
 アルミのアサハンプロジェクトが立ち上がり、お客さんの会社がジャカルタオフィスを開いていたので、受注活動の一環で陣中見舞いの年末ご挨拶です。
 
役員は「お客さん達が正月を初めて家族でジャカルタで過ごすんだから、鮭の新巻をお土産に持ってくぞ」と言い、10本の新巻きを持って行くことになりました。
 
 さあ、ガルーダ航空がジャカルタ空港に到着し通関です。同行のみなさんは機内のお酒で、機嫌よくパスポートチエックの方に行き、通過していきます。
 
空港の税関で 持ち込んだ10本の鮭の新巻を通すのは一番下っ端のボクの仕事です。
 
 カートに自分のトランクと新巻10本を乗せて後をついていったボクは、係の役人からこっちへ来いと別室に連れ込まれました。
 
物凄い剣幕で「この大量の荷物は何んだ?」と言っているようですがよくわかりません。
 
しどろもどろで「魚のサーモンのソールト漬・・なんじゃかんじやです」と説明しますが、こちらの英語もいい加減、向こうはハナから聴く耳もたずです。
 
 時間は経っていくし、これをここで没収されたらエライ人から何を言われるかわからんと大汗かいて全身が熱くなりました。
 
そうこうするうちに 相手の口はガタガタ言っているけど目はニヤニヤ笑っているのに気が付きました。
 
そうか話に聞いていたアンダーテーブル・袖の下や と米ドル10ドルを財布から出して渡すと
 
(早くそれを出したらいいんだよ)という感じですぐにポケットに入れ、向こうのドアを開けてくれました。
 
 それでも、出張の一行が心配そうな顔で出口で待っていてくれました。
 
「やっぱり引っかかったか」と役員が言いました。
 
「よう通してきたな」というお褒めの言葉を期待していたボクの甘さを思い知りましたが、これから後の同じような経験の初めの始めでした。
 
役人の給料が安いのでこうして集めた金をプールしておいて年末なんかに仲間内で分けると後で聞きましたが、
 
その後各国でこのような事を何遍経験しても、その都度身体がフリーズして大汗かきまくりでした。
 
 海外出張2回目の社員に外国の通関には日本と全く違う事態がありうると その対処についてなど貿易部の上司が誰も教えてくれないのに
 
困惑の中でああこれは袖の下で解決する状況だなとわかったのは 学生時代から好きで いろんな日本人の海外旅行記をそれまでに読んでいたおかげかも知れません。
 
 そして10ドル紙幣を持っていたのは 海外出張一回目のスマトラ島メダンへの出張時に
 
同行の大阪コンベヤ設計部の竹中技師が1ドル紙幣を何十枚も持ってきたことを知っていたからです。
 
なぜ米ドルを1ドルに小さく崩して持ってきたのですかと問うと、「あんなあ 阿智やん、ドル札の現金は世界最強や。
 
どこの国に行っても困ったときにはこれが効くんや」と。
 
 この話を聞いていたので 私も貿易部にいて出張のときにはずっと何枚かドル現金を小さく崩して財布の中に忍ばせていました。
 
 
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バングラディシュの肥料工場建設サイト出張記・1979年12月               昭和50年代の海外あちこち記 その2           

2024年03月26日 | 昭和50年代の海外あちこち記

 

 
1979年12月、 バングラデイッシュのダッカから汽車に乗って奥地にある肥料工場の建設サイトへ出張しました。
 
1、 バングラデイッシュの奥地に世銀の資金で国営肥料工場の建設が計画され、国際入札に参加した結果、工場内の製品搬送設備一式を落札しました。
 
 工事が始まり建設サイトへ設備の据付工事を指導する3人の社員が派遣されました。サイトの下請業者には国際電話が設置されておらず、
 
テレックス以外は週に一回ほど一日1本だけ走る汽車に乗り、首都ダッカにある商社のオフィスまで行って 何時間も電話がつながるまで待って日本と連絡していました。
 
テレックスも原稿をサイトからの列車託送便でダッカに送り、商社のダッカオフィス経由打電ですからやりとりが2日かかります。
 
派遣した社員との連絡の行き違いも重なり、元請けのイギリスのエンジニアリング会社の現地からも要請があったので
 
上司から諸件連絡と現地慰問を兼ね技術部門の松木技師と二人で現地へ行けとの指示を受けました。
 
 成田からは、バンコック経由でダッカに入ります。バンコック空港の隅の方にいつクリーニングしたかわからない薄汚れた飛行機が駐機しています。
 
我々は国営のバングラデイッシュ航空のチケットを持っており、この飛行機に間違い有りません。
 
飛行機の中もスパイスの匂いが染み付き、汚れが壁やシートに目立ちます。きっと清掃代の予算がないのでしょう。
 
二人ともに無言で出来るだけ機内のどこにも触れる部分が少ないように身体をすくめて座りました。疲れた・・。
 
シンガポール航空でのバンコックまでの飛行とは天と地の差です。世界最貧の国に行くんだと実感しました。
 
  余談ながら、どこの国の空港も飛行機から外に出るとその空港の匂いがします。
 
シンガポール空港のシャンツアイ(香菜)の匂いのように。
 
(行った人はご存じのように、彼らはどんな料理にも最後に三つ葉かパセリのようにこのハッパをのせます。
 
シャンツアイは最初あぶらむしの臭いだと思いましたが、すぐに好きになり今も種を買って、夏は家のプランターで栽培しています
 
ボク以外家族の誰も食べませんが・・)
 
また、台湾の高雄空港の単車の排気ガスの匂いのように。(まだ庶民のマイカーは単車で街中を単車が走りまわっていたころの話です。
 
休日には奥さんと子供3人くらいを満載して一家全員が一台の単車に乗っている家族をよく見かけました)
 
 ダッカ空港はドアが開いて機外の空気が流れ込んだ瞬間、ああここは下水道設備がないんだと思うあの匂いでした。
 
子供のときは日本でも映画館やあちこちいつも匂っていた臭いですが、このところ無くなっていたので
 
町中の空気に24時間漂うこの臭いは懐かしさを通り過ぎて子供のころ食物がまだ食べられるかどうかの判定係を家でやらされていた
 
鋭敏な嗅覚の持ち主の私には刺激が強すぎて頭が痛くなるほどでした。
 
 2、本案件の扱い商社のダッカ支店に寄り、その日はダッカに1泊して翌朝商社の車で駅まで送ってもらいました。
 
首都とは言え高層の建物はほとんど無く街の中は貧しい服装の人達と人力車で一杯です。車はミゼットみたいな小さな車が少し走っています。
 
 商社の人の話し:この国は金がなく民間の仕事は皆無で、時々政府の官庁へ行くのだけが私の仕事です。
 
各社の駐在員も3年間の任期をクーラーの効いたオフィスとホテルの行き来だけでただ病気にかからぬようじっと帰国の日が来るのを待っています。
 
危険地手当てが悪くないので日本に帰ったら家の頭金になります。そうでもなければこんなところに来たいやつはいません。
 
町をあるくなんてことは危険で汚くて考えたこともありません。
 
 華の商社マンも色々いるのだなー。しかし前線の人の本音だろうなーと、どこの国へいっても誰とも必ずする雑談を交わしながら思いました。
 
 
3、翌朝、ダッカ駅まで商社の車で送ってもらい、二人は構内に入りました。ホームには製造後5、60年くらい経ったような客車と貨車をつないだ列車がいました。
 
中は満員で、硝子も無く屋根の上にも荷物を持った人が溢れています。勿論貨車にも人が一杯です。
 
事前にエンジニアリング会社のフォスターフィーラーUKの現地事務所に届けを出していたので、我々は最後部に1輌つながれたF社の専用貸切車両に乗りました。
 
乗客は我々を含めて4、5人です。バー付きのボーイ付きの贅沢な車両です。
 
独立前に支配していたイギリス人が使っていたのでしょう。
 
 列車は長い鉄橋を何回も渡り、首都から離れていきます。鉄橋は線路があるだけで柵も無く屋根の上の人のことが、気になります。
 
汽車が古くて時速30kmくらいでしか走らないのが救いです。サイトがある駅までに何度も停車しましたが、止まる度に子供の売り子が列車全体を取り囲みます。
 
バナナ、水、お菓子類、食べ物、なんでもありです。男の子も女の子もいます。大きな声を張り上げ精一杯の笑顔でニコニコ笑いかけます。
 
ほとんどのものが1単位日本円換算で4円とか5円で買える値段でした。
 
4、サイトに近い駅に指導員が迎えて来てくれていました。
 
サイトに到着し、FW社の現地本部オフィスで先方の責任者に挨拶をした後、ゲストハウスにチエックインし滞在中のゲストルームをもらいました。
 
それから当社の納入設備の据付け現場に案内してもらいました。稼動後の運転要員のトレーニングも契約範囲でしたから、バングラデシュ人が10数名、
 
事前に日本に来て訓練を終えサイトに詰めていました。日本でアテンドした顔なじみの何人かが懐かしそうに挨拶をしてくれます。
 
リーダーだったハッサンさんが隅っこの小さい部屋で本来は自分の国の所有の施設なのに大きなイギリス人の現場監督や業者の連中の中で、
 
なんとなく遠慮がちに、はにかんだ笑顔を向けてくれました。
 
広大な建設現場は高さ2.5mほどの城壁のような壁がぐるりと取り囲んでいて中には門衛が許可しないと入れません。
 
マンション、教会、プール、ダンスホール、図書館、映画館が最初に作られていて一つの町のようです。
 
ここに家族で派遣されているイギリス人中心のヨーロッパ人からなるエンジ会社、コンサル、建設業者が多数、工事の進捗にあわせて、
 
入れ替わり住んでいます。行く前に想像していた工事現場の概念から全く違い、面食らいました。
 
周囲の僻村と隔絶していてバングラデシュにいる気がしません。イギリス人は植民するときいつもまず、
 
生活インフラ、コミュニテイ造りから始めると本で読んではいましたが、世銀の金で請け負っている工事の現場でも全く同じなんだ、
 
連中には日本のような仮の現場ハウス生活の概念はないんだ、とちょっとした衝撃でした。
 
 日本人が払っている税金も世銀に供出され、バングラデシュ人は何十年もかけてこの建設資金の借金を返していくのです。
 
5、FW社のスーパーバイザー・現場監督
 
1)彼らはエンジ会社に職種別に個人登録をしていて、電話で今回こういう国でこういう仕事があるが契約するか、
 
という電話問い合せがあると都度応じるかどうか内容を吟味して回答する。
 
 3回か4回問い合せを受けて応じないとリストから削除される。だから条件がそれなりの間に応じないととんでもないサイトの長期の仕事しか声がかからない。
 
聞いた人は前はコンゴの発電所建設のサイトへ行っていた。アマゾン上流の病院建設に行っていた人もいました。
 
2)暑いせいもあるがほとんどが上半身裸で現場におり、倶梨伽羅紋紋のおっさんも沢山いて、ある人の極彩色の蛇の刺青があまり見事だったので、
 
おもわず「Pretty Tatoo!」と声をかけてしまい、駐在社員から「因縁つけられたらどうするんや」と後で怒られました。
 
しかし自分としては彼は誉められたという感じで笑っていたと思ったのも事実です。
 
3)奥さん連中は日がな何もすることがなく、一日中プールサイドでカードをするか酒を飲むかでほとんどがアル中や・・とのことでした。
 
あれ以来鯨のような中年白人女性の水着姿に目を向けたくなくなりました。
 
4)毎晩ダンスパーテイがあり、トラボルテのサターデイナイトフィーバーばりのダンスをやる 新居浜工場から派遣された当社の技術員の岡君は
 
奥さん達の人気者になっており、旦那方にも名前が売れている有名人で 芸は身を助けるとはほんまやと思ったことです。
 
6、エンジ会社のFW社の現地最高責任者は背の高いアメリカ人でした。奥さんは小柄な日系アメリカ人で、
 
サイトで苦労している当社の3人と一緒に自宅の夕食に招待してくれました。
 
 心尽くしのテンプラみたような一品もテーブルにありました。はっきりは言わなかったけれど、
 
会話の中でヨーロッパ人のアメリカ人に対する見下しとアジア人への蔑視という2重のご苦労をされているように感じました。
 
 それでも現場の最高責任者の夫人ということで、小さな体の背骨をピンと伸ばし、狭いサイト社会で頑張っておられた様子は忘れられません。
 
  まず初日に、持っていった日本食を3人に渡し次の日から情報連絡の行き違いの整理や、届いていない部品の確認、工程確認などの打ち合わせをし、
 
悩み事を聞き引き渡しまでの健闘をお願いし最終日となりました。
 
 7、何日かいて帰国の日が来ました。
 
 ダッカ行きの列車は夜の7時くらいのダイヤでした。関係先に挨拶をすませ、3人に車で送ってもらい最寄りの駅に着きました。
 
駅に着いたと言われても、その夜は星もなく真っ暗やみで本当に何も見えません。
 
ここで汽車が来るのを待とうと言われた場所だけに5蜀?くらいの豆電球がぶら下がっていて、それが駅の唯一の明かりです。
 
人の顔は勿論見えず、煙草をつけるライターの火がある時だけそこに人がいることがわかります。
 
ひとしきり皆と話し、そのうち沈黙の時が流れました。
 
 するとどこかからずるっずるっという音が聞こえ、だんだん近づいてきます。
 
ふと何かが靴を叩きました。足元を見ると暗闇に少し慣れた目に、人が這っているようなカタチの白い固まりが見えました。
 
それが包帯を全身にまいた人間だと理解できた時・・・・。あちらからもこちらからも十数人の固まりが、こちらに 這って来るのがぼんやり見えた時・・・・。
 
 思わずワーつという叫びが口から出て、身体は棒立ちになり息ができませんでした。
 
「病気の乞食や、悪さはせえへん。じっとしとき」と経験者の岡君の声がしました。
 
恐らく顔面蒼白、脂汗が浮かんでいたはずですが、それも人には見えない暗さです。何とかその場を離れ、列車が到着するまでに聞くと、業病にかかった人は村に住めなく、
 
人里離れたこの駅舎に集まって乗客のお布施を頼りに生きている。立って歩ける人はそれでもあちこち貰い歩くが、末期で這うしかない人達がここにいるのです。
 
 日本ではこの病気は完絶し先年法律も改正され、隔離されるという悲劇はなくなりました。
 
   包帯の中の5蜀の電灯の明かりを受けて見上げたあの眼はいまでも忘れられません。
 
 何年も経ってから家でテレビを見ていたら、マイケル・ジャクソンの「スリラー」のビデオクリップが流れました。
 
不謹慎かも知れませんが無意識にテレビを消していました。
 
8、やはり数人しか乗っていない専用車輌で、二人はほとんど無言でした。
 
窓から見るともなく外を見ると、小さな焚き火のようなものが延々と線路の横に続いています。
 
よく見ると焚き火の向こうに掘立小屋にしか見えない家が続いています。夕食の時刻なので、煮炊きをしているのかと想像しました
 
ほとんどの土地が海抜0メートルの国土で、来る時も大きな木は全く見えませんでした。
 
 女性の一日の仕事の大半は燃料と飲料水の確保だと読んだのを思い出しました。
 
燃やすものが乏しい中、大事に燃やして夕飯の支度を家の前でしているんだと思いました。
 
 ダッカを出て、またバンコックで一泊し乗り継いで成田に帰ったはずですが、
 
覚えているのはバンコックで辛い海鮮鍋をビールで流し込んだことくらいです。
 
(本稿は2000年前後に作成してメールで友人知人に送付した。)
    
  注 画像はネットから借用 出張当時の画像ではありません。
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2022年05月05日追記
 
バングラデシュの今を描く最近の映画 「メイド・イン・バングラデシュ」☞ こちら
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忘れられない二人、香港空港の待合室とグラスゴーのホテルで 。                  昭和50年代の海外あちこち記 その1

2024年03月24日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)香港空港のトランジットルームで   (日本語ってこんなにきれいな・・


昭和50年代のある年、香港空港で乗り継ぎのため待合室にいました。

その時、70歳少し前くらいに見える女性から「日本の方ですか?」と日本語で声をかけられました。

「そうです」と答えると、懐かしそうに、

「東京もすっかり変わったのでしょうね。 わたくしは戦争前に東京の女学校に行っておりました。

現在は台湾の南部の町で暮らしていますが、久しぶりに日本の方とお話をいたしました。

今回の旅行は、シンガポールの親戚を訪ねました。今はその帰りです。」と言われました。

時間が来て長くお話できませんでしたが、節度のある 美しく格調の高い話し方でした。

小津監督の「東京物語」などで原節子が喋る日本語の世界以上にも思えました。

わずかな時間の出会いでしたが、この台湾の一女性の生きてこられた道筋や現在の生活までおもわず想像し、いまだに忘れられない一人です。


2)グラスゴーのステーションホテルで。

昭和50年代のある年、出張でスコットランドのグラスゴーへ行きました。夕方、仕事がすんで部屋に戻るとメイドさんが魔法瓶の水の補給に来てくれました。

ほっぺたの赤いまだ少女のような人でした。

 用事が終わったあと、何か話しかけたいそぶりでドアのそばにたたずんでいるので、「なにか?」と声をかけると、

はにかんだ笑顔で「どこから来たのですか」と言いました。東洋人は珍しいのでしょう。

 日本からと答えると、

「遠い遠いところから来たのですね、私は田舎から出てきて家族と離れて、スコットランドで一番大きな都会に勤めることが出来たけど、

 きっと一生ロンドンまでも旅行することはないと思います。このようにあちこち旅行するのですか?」と言いました。

 仕事で時々外国へ行っていると話すと、

「私には想像も出来ません、もしそんな事がいつか出来たらどんなにいいでしょう」と窓の外の夕暮れの空にふっと視線を向けました。

        この僅かな何分かの彼女との会話のおかげで、通り過ぎの身にグラスゴーにも日本と変わらぬ人達が暮らしているんだなあと、

今でも地名を見たり聞いたりすると、街並みとあの少女のことを思い出します。


* 画像はインターネットから借用。阿智胡地亭が現地に行った当時に撮影したものではありません。

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昭和50年代の海外あちこち記   その28  中国/大連篇その二

2023年08月18日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)大連駅を降りると駅前は大きな放射線状のロータリーになっていました。

他の中国の都市の道路は碁盤の目の設計ですが、この都会は1899年にロシア人によって完成したため、ヨーロッパ式の町作りになっているそうです。

ロシアの後は日本が戦前まで統治していましたから沢山の日本人が住んでいました。

  現在市内人口177万人という大都会です。出張で行った20年前はまだ町全体が暖房用の石炭の煤のせいか、くすんで見えました。

大連港には旧式の港湾クレーンが林立していましたが、大型外航船の数は少なく神戸港やシンガポール港を見た目で見ると寂しい限りです。

旅客船埠頭に立ち、ここと日本の間をどれだけ多くの人達が船で往来したのかと思いながらしばらく立ち尽くしました。

 入札に備えての事前調査で大連機械公司を訪問した訳ですが、沢山の製缶工場や機械工場がある大きな会社でした。

 

2)余談ながら、大連に滞在している時は頭に浮かびませんでしたが、満州からソ連の参戦で脱出した家族の中に新田次郎の家族がいます。

藤原てい作『流れる星は生きている』という本があります。戦後すぐのベストセラー小説です。

夫がソ連の収容所に連行され、27歳の作者は子供三人を連れて満州から脱出せねばならない。

正広六歳、正彦三歳、咲子は生後まだ一ヶ月である――昭和20年8月9日のソ連参戦の夜から昭和21年9月に日本にたどり着くまでの一年におよぶ記録です

作者の夫は「強力伝」「八甲田山死の彷徨」「アラスカ物語」などを書いた新田次郎ですが、この本が出た当時は彼は気象庁勤務の一介の技官でした。

  たまたま藤原ていさんが諏訪二葉女学校で母の数年後輩であり、母はていさんの姉と同級で寄宿舎も一緒だったというご縁で、この本が家にあり阿智胡地亭は小学生時代に読みました。

昼間は隠れ、夜間だけ歩きに歩いてプサンを目指して移動。毎晩泣く子をしかりつけ、子供の足裏に食い込んだ小石や砂を指でほじくり出すのが日課だった。

沢山の引き上げ日本人が経験した極限状態の逃避行の記録です。

 新田次郎は同じく諏訪の角間新田地区の出身で、角間新田は僕の父の実家から上の方にあり、角間新田の新田をペンネームにしたと聞きました。

新田次郎は気象庁ではノンキャリアであったことと、奥さんが先に世に出たこともバネにして、官舎で夜こつこつと小説家を目指して習作に励んだと知り合いから聞きました。

 「若き数学者のアメリカ」を書き、 『心は孤独な数学者』などの作者で、最近はエッセイも多い藤原正彦は引き上げ当時3才だった2人の次男です。

また、乳飲み子で背負われて日本に辿り着いた藤原咲子さんが最近「父への恋文」という本を上梓したようです。

  中国、台湾、韓国など乗りこまれた方と乗り込んだ方、いい目にあった方とエライ目にあった方、

一瞬にして攻守ところを変えられて翻弄された一軒一軒のそれぞれの国のそれぞれの家族の歴史。町の歴史。

いつもそんなことを思って出張するわけでは毛頭ありませんが、アジアの国の町で出張の中の休日に町を一人で歩くと、

パリやロンドン、ソルトレイクシテイなどを歩くのとは違う思いが時にはします。

特に大連には旧大和ホテル、満鉄大連本社、その社員の宿舎群、アカシア並木等が残っており、

おいしい肉饅頭をほおばりつつ、当地にご縁のある自分の何人かの知り合いの方のことを思い出しながら歩きました。

 (2003年ごろ記憶をもとに記す。)

 トップの画像はこのサイトから引用。他の画像はネットから引用。

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昭和50年代の海外あちこち記   その27  中国/大連篇その一

2023年08月10日 | 昭和50年代の海外あちこち記

 (画像はネットから引用)

世界銀行の融資で、天津、上海、黄舗の3港に港湾大型荷役設備を設置する国際入札案件がありました。

入札の前に、クレーンの鉄構構造部を中国現地で製作した場合の見積もりを、依頼する為に会社の製造部の人と大連の重工会社へ行くことになりました。

1、火車(汽車)の旅

予約していた北京からの飛行機が飛ばなくなり、汽車で行かざるをえなくなりました。

同行の人や商社の人は、ガッカリしていましたがボクは内心喜びました。確か北京から40時間ほどの行程で寝台列車に乗れるからです。

一度中国の長距離列車に乗ってみたいと憧れていました。

1)中国はレールゲージが広軌ですし、機関車は鉄の塊で、山のように大きく、車輌そのものもがっちり鉄と木材で造られており、これぞ「鋼鉄列車」と言う感じです。

車輌の内装は、子供の時に乗った国鉄の窓枠、床、座席全てが木製のあの懐かしい車輌と同じです。アルミを多く使う最近の日本の車輌とは全く違うものでした。

車輌は硬座席と軟座席に分かれており、軟座席が日本のグリーン車でした。

軟座車の乗客は高級軍人の家族らしき一家と出張帰りの東北の省のえらいさんと見える人達でした。

当時、まだ大都市間の高速道路網はなく、飛行機も「中国民航」しかなく、これは軍人と中央、地方官僚の専有物みたいなもんで、

一般庶民の長距離移動は鉄道だけですから、硬座車の混みようは相当なものでした。

2)軟座車には女子服務員が同乗しており、大きなアルミ製のポットにお湯を絶やさず、各自渡された蓋付きの湯飲みが空になる頃、ついでくれます。

  ところで、儒教ベースの中国、韓国では接客業というのは、人間として最低の仕事で誰もが出来たらやりたくない、身を落とした仕事と思って従事していますから、

お客に笑顔や丁寧な対応など普通しませんが、天安門事件以降少しづつ変わったのか、服務員は愛想良く車中を歩いていました。

韓国人や中国人が日本に観光に来て、皆が皆驚くのは、日本のどんな店に入っても「店員や従業員が笑顔で応対してくれる」ことだそうです。

そういえば、初めてこの両国に出張した時の店やホテルの従業員の態度はつっけんどん、無愛想で戸惑いました。

3)食事は食堂車で青島ビールを飲みながら、中華の定食(量が多すぎて食べきれないほど)でしたが、好奇心で、昼時硬座席を覗いてみると、車内販売で弁当を買っています。

中国人は冷えたものは食べ物ではないと思っていますから、車内販売でも熱々の饅頭類を折り箱に入れて売っているようでした。

何でも油でジャーっと言う中華めしの基本は、日本と違って魚でも豚肉でも食材入手から料理するまでに何日もかかり、高温多湿の国土で食中毒を避ける長年の智恵だろうと思います。

4)車窓から見る風景は北京郊外を出ると単調な農村とえんえんと続く畑だったのでしょう。

残念ながら、いまは殆ど記憶に残る風景はありません。明け方、大連に近づくと工業都市らしく大小の煙突群が見えてきました。

大連は戦前、沢山の日本人が住んでいたところで、かっての日本人の居住区には、まだ日本家屋が残っていると新聞や本で読んでいました。

「アカシヤの大連」という本がベストセラーになった頃だったかもしれません。大連駅は豪壮な駅舎で、駅前は広い広いロータリーになっています。

   本稿は2003年ごろかっての記憶を辿って書きました。

                         

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昭和50年代の海外あちこち記   その26 インド ボンベイ篇

2023年07月26日 | 昭和50年代の海外あちこち記

ボンベイ(現ムンバイ)には、港湾近代化の第一段階の大型荷役設備の商談で何回か行きました。

東京から商社の担当者と、勤務していた会社の技術者チームを組んで行きました。

 設備投資はされるのか この時点では海のものとも山のものともわからない商談ですから、課長クラスなどはどちらの会社からも参加せず、

私をはじめ商社の長谷さんも含めて担当者ばかりのチームです。

 日本からボンベイに行くにはヨーロッパ便のフライトで行きますから、行きも帰りも真夜中の2時頃にしかボンベイ空港に離発着しません。

空港から真夜中、ホテルオベロイにチエックインし簡易ベッドで仮眠しました。

昼前に、商社の現地代理店のオフィスへ行き、ファ○○社の社長ファ○○さんに挨拶をし、彼の行き付けのレストランで昼飯を共にしながら状況の説明を受けました。

  この時の食事がスパイシーなほんまもんのインド料理との阿智胡地亭の最初の出会いでした。

阿智胡地亭は同行メンバーと違って、出てくるどのインド料理に何の違和感もなく、全部おいしく平らげ、招待してくれたファ○○社長にすっかり喜んでもらいました。

 身長190cmを越える痩身の彼は、町で見掛けるボンベイ人とは風貌が全く違いました。

あとで長谷さんに聞くと父親の代に宗教的な迫害にあい、パキスタンからインドへ移住したパーシー、パールシー( Parsee)と呼ばれる一族とのことでした。

彼のかもしだす雰囲気は何となく映画「荒野の7人」のジェームス・コバーンに似ていました。

余談ですが、彼の役柄はオリジナルの黒沢映画「七人の侍」では宮口精二がやりました。彼の登場場面は、何度「七人の侍」を見ても息を止めて見入ってしまいます。

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Wikipediaから一部引用。 パールシーパールスィー(ヒンディー語पारसीPārsī)とは、インドに住むゾロアスター教の信者である。

サーサーン朝の滅亡を機にイランのゾロアスター教徒のなかにはインドグジャラート地方に退避する集団があり、

現在、インドはゾロアスター教信者の数の最も多い国となっている。今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州ムンバイ(旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、

開祖のザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。

インドでは、ペルシャ人を意味するパールシーと呼ばれ、数としては少ないが非常に裕福な層に属する人や政治的な影響力をもった人々の割合が多い。

インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シク教徒と類似する。インドの二大財閥のひとつであるタタは、パールシーの財閥である。

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ファ○○社は長年、日本郵船の現地乙仲をし、港湾局に食い込んでいる会社でした。付き合っているうちにわかってきましたが、

日本郵船NYKのエージェント契約をしているという事に強い誇りを持っており、その延長上でダイヤマークの会社と仕事をすることに誇り持っていました。

NYKという会社の世界ブランド力の一端を垣間見る思いでした。

 お客さんはボンベイ港湾局で、First  Mechanical Engineerという肩書きの個室にいる施設部長が面談の相手でした。

ファ○○さんは必ず同席しましたが、相手の部長もファ○○社が連れてきた商社、メーカーということで安心して面談してくれました。

 二人のやりとりを横で見ていて直感的にこれはベストなエージェントだと思いました。

インドネシアの華僑のエージェントが中央、地方を問わず役人、軍人を水面下で丸抱えしているのと同じ雰囲気を感じたからです。

 

 3回ほど行ったボンベイ で インドの空気に触れ、人に触れ、食べ物に触れ、日本という風土や人間の暮らし方との違いは大きく感じましたが 

一方で「どこの国や土地で生きていても 人間という生物は みなちょぼちょぼ や」と  この地で 実感したのはのちのちに良かった気がします。 

 *画像はいずれも ネットから借用。出張時撮影した画像ではありません。      

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◎阿智胡地亭便り#52 コウベローカル噺④  インド料理を・・   2004.02.24記

 昭和55年ごろ、ボンベイ(ムンバイ)港湾局の施設部長を日本に呼んで四国の工場や神戸港に案内したことがある。

彼は、ベジタリアンの中でも厳密な方の菜食主義者で、東京のレストランで彼のために特注した焼き飯を、

「この焼き飯の前に肉を使った料理に使われたフライパンが、そのまま使われているようだ。米飯に肉の臭いがするから食べられない」と言ったりして、食事では大汗をかいた。

神戸で案内した「ゲイロード」にはさすがにベジタリアンメニューが普通にあって、案内したこちらもも施設部長もホットした。

彼は驚くほど沢山食べた記憶がある。成田到着から何日も、腹を減らしていたのかと、少し気の毒だった。

余談ながら、一緒に泊まった三宮のホテルの朝食で、私が和定食の白飯に生玉子をかけて食べだしたら目を丸くして驚いて見ていた。

聞くと生まれて始めてこういう食べ方を見たという。

後でなんかで読んだのだが、世界中でも、玉子をこうして食べるのは日本だけらしい。

それにしてもベジタリアンは海外に出るのは大変だなと思った。

  原理原則なき民である日本人の中でも、阿智胡地亭は、和洋・中華・印度・朝鮮・蒙古そのほか なんでも、

「うまければどこの料理でもいい」と思っているのだが。

 震災前に三宮の神戸市役所近くにあった「Gay lord(陽気な殿様)」は、当時ロンドンやパリにもチエーン店があって、

長身のインド人給仕頭が黒服に身を固め、広い店を笑顔で仕切っていた。ボーイも皆インド人で、店の雰囲気は高級レストラン風だった。

 

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昭和50年代の海外あちこち記   その25  アメリカ・ソルトレイク篇

2023年07月09日 | 昭和50年代の海外あちこち記

昭和58年の秋ごろか、貿易部門から自動倉庫など物流機器や設備の国内営業部門に異動しました。

 販売する機器や設備を学ぶために、アメリカ・ユタ州の州都ソルトレイクにある技術提携先の会社に出張を命じられました。

技術グループの出張に便乗して加えてもらいました。

 

  ソルトレイクはその名のとおり「塩の湖」で子供の頃から、映画館で見るニュース映画で車のスピード世界記録をこの「塩湖」で競っているのが、よく放映されたものです。

真っ白な雪煙ならぬ塩煙を巻き上げて時速300km?で走り、車の後部から、パラシュートを膨らませて止まるという車は往時の自分にとっては、夢の中の出来事でした。

1)この町はキリスト教の一分派モルモン教の本拠地で、砂漠の中に人工的に作られた町です。

住民は大半が教徒で酒、たばこ等は基本的に禁止で我がチームは滞在中大変でした。ロッキー山脈から引いた雪解け水で砂漠の中に緑の市街地が広がっています。

中心地から小一時間山の方に行けば一年中スキーが出来る高地にあります。どこまで行っても清潔な街並みが続き、うろんな下町の繁華街なるものはありません。

  ただ一個所、町外れに何となく懐かしい感じのバラック建の家並みが続く一角がありました。

道路に下水が溢れ、子供が裸足で遊んでいました。ベトナム難民を受け入れたゾーンとのことでした。

ヤキソバのソースの匂いが通りに流れ、腹がグウと鳴りました。ただこのゾーンと市街地との落差は何となく納得出来ませんでした。

2)会社から技提先に研修で派遣された後、アメリカに残る選択をし、会社を退職して技提先に移籍したKさんの自宅に招待されました。

彼は認めれてマネージャーとして働いていました。アメリカの会社で働くのは、評価がはっきりしていてやりやすいと彼は言っていました。

一戸建の家なので芝生をいつもきれいに刈り込んでおかないと、近所中からクレーム受けるのがかなわんと言っていたのが記憶に残ります。

住宅地としての価値が下がらぬよう住民が街並みのメンテに気を使って、日本人の感覚ではおせっかいと思われるけど「ご近所の中で共住する意識」 がしっかり生きているようでした。

3)日曜日に隣のアリゾナ州のカジノへ繰り出しました。

研修ですでにこの町に滞在経験のある和田さんが国際免許証を準備しており、彼の運転のレンタカーで2時間の行程でした。

その途中、ソルトレイクを通りました。厚く堆積した真っ白な塩の砂漠の上を走ります。前後左右どこを見ても白一色の世界です。

ただ上の空だけが真っ青で自分が地球以外のどこかにいるような不思議な奇妙な世界でした。

4)街中でも空港でも、モタモタした英語で用を足そうとすると、きれいな日本語が返ってくるので何度か驚きましたが、帰りの空港でその訳がわかりました。

モルモン教徒は高校を卒業すると最低一年間は全員が布教活動に従事することになっています。成績のいい人達は海外へ、

まあまあの人達はアメリカ国内の各地へ旅立ちます。空港で涙で抱擁し、別れがたい思いがこちらにも伝わる一団がいました。

両親、兄弟、親戚、友人たちの輪の中に、目を赤くした少年のような初々しい若者がいました。 彼は我々と同じ便で、故郷を離れこれから香港へ向かう青年でした。

JR広島や阪急六甲で、自転車に乗った黒い背広の若い外人に「チョットイイデスカ、キリスト教ノオハナシガ、シタイノデスガ」と声をかけられると、

ああ、あの若者がここでも頑張っているなとは思いますが、つい邪険に「いま忙しいので」と断ってしまうのも事実です。

それにつけてもイエズス会の宣教師たちが、スペインからこの極東の島々まで布教に来て以来、今に至っても継続するこのキリスト教の布教パワーは、凄いものです。

     ご参考までに、小室直樹著「日本人のための宗教原論」はキリスト教、イスラム教、仏教などのこのあたりを解き明かし、

能天気宗教無知の ボクにとっては 、目からウロコどころではない本でした。

 

  (2003年ごろ記憶を辿って書いた。   画像は全てネットから引用。)

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昭和50年代の海外あちこち記   その24  台湾/高雄篇      向田邦子さんの飛行機事故から一週間後のフライト。 高雄港のタクシー事故で死にかけた。

2023年06月28日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1、台北ー高雄

台北から台湾南部の工業・港湾都市の高雄には汽車(中国語では火車)もありますが、時間がかかるので高雄の「中国鋼鉄公司」へ行くときは飛行機に乗って移動しました。

離陸しすぐ上昇し、水平飛行なしですぐに下降するくらいの感じの飛行です。

 ある出張の一週間前、好きな小説家の向田邦子さんがこのルートで飛び、飛行機の空中分解で満員の乗客とともに亡くなりました。

後で上昇、下降のくり返しから来る機体の金属疲労が原因ではないかと新聞に出ました。一緒に行った人が今回は汽車で行こうと言いましたが、

今まで一週間後に同じ飛行機事故は統計的に起こってないから、飛行機で大丈夫と言いましたが彼は汽車、僕は飛行機と別れて乗りました。

当時日ごろは、どのフライトもチケットが取れるかどうかいつも満席で大変な頃でしたが、乗ったDC10は乗客が全部で5人か6人でした。

大丈夫とは思うものの着陸するまではさすがに落ち着きませんでした。

                           「父の詫び状」や「あ、うん」など、毎年恒例の正月の向田さん原作のテレビドラマは欠かさず見ます。

2、もう一つ高雄で。

港湾クレーンの件で高雄港に行った帰りに乗ったタクシーが、この国のいつものように飛ばしていました。  小雨がパラついてきて嫌な予感がしました。

向こうから鋼材を積んだ大型トラックがこれまた、飛ばしてくるのが見え、ウインカーを出さずに、タクシーの前で急に曲がりました。

ウンチャンが「アイヤー」と言って、ブレーキを踏みましたが、港への引込線なのか、車輪が濡れたレールの上を走っていたので、

タクシーはスリップしてゆっくりと回転しながらトラックの後ろにはみ出た鋼材の方に近寄りました。ああこれでオシマイと目をつぶったとき、

鼻の先をトラックが走り抜けました。 反対方向を向いて停まったタクシーのウンチャンはさすがに青い顔をして荒い息をしていましたが、

暫くして車をまわしてホテルに向かいました。ああいう時は床に伏せることも出来ず、ただ迫ってくる激突の瞬間をスローモーションのように待っているだけでした。

今は台湾でも車があんなスピードで走っていないと思いますが日本でも神風タクシーと言われた時代があったように、

モータリゼーションの初期の国はどこも交通ルールはあってないみたいなもので、結構交通事故にあった日本人も多かったです。

  2002年ごろ記す。画像はいずれもネットから引用。

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