弓道部の先輩Tさんは既に四国八十八箇所を歩き遍路で通し打ちされていますが、
それ以降も毎年神戸から区切り打ちで四国に渡っておられます。
今年は宇和島方面を歩かれたそうです。
「18日に宇和島遊子水荷浦(ゆうす みずがうら)の段畑と
19日に宇和島から約1.5時間の愛南町北泊(きたどまり)の石垣の里
を訪問した際の写真を添付します。
昔懐かしい素朴な田舎風景と民宿での地元の魚づくし料理に満喫し
1泊2食で6000円には、大満足でした。少し遠いですが、お薦めいたします。」
水荷浦の全景
♪Tさん、お話を伺って想像した以上に段々畑の規模が大きくて驚きました。
ここで取れる甘藷のカンコロ飯(クリック)しか食べる物がなかったと、獅子文六の小説「大番」の主人公ギューちゃんが言っていたのを思い出しました。日本弁護士会の新任会長である宇都宮(クリック)さんは、この地方の出身で段々畑を耕した体験者です。それにしても残っているのはお年寄りばかりで、畑の後継者はみな他所へ出てしまったというのも、重労働を考えると時代の流れなんでしょうね。
学生時代の弓道部からの友人Hさんが、1月9日から2泊3日で上高地のスノートレッキングに行ってきたそうです。厳しい寒さながら素晴らしい天気だったとメールにありました。
「釜トンネルから河童橋までのトレッキングでしたが、写真は主に大正池からの風景です。
○釜トンネル入り口
○雪の焼岳
○大正池ホテル(冬季閉鎖中)ツララを見て下さい。
○大正池の朝
トップの写真
○雪の穂高岳連峰
○化粧柳の霧氷」
☆2008年の9月、諏訪湖の花火大会を見た後、上高地に行きました。夏の大正池(クリック)を楽しみましたが雪の大正池の写真は初めてです。それにしても冬のさなかの安曇野・上高地をスキートレッキングする体力・気力は素敵ですね。また各地の旅行画像を見せてくださいね。
事前に美濃市に国の「重要伝統的建造物群保存地区」があることを調べないないままに、グループ旅行の世話役の後について街並みに入った。
徳島県美馬市の脇町と同じように「うだつ」が上がっている商家が並んでいた。どの店も間口は狭いが、奥行きはどこまで深い。江戸幕府の「商家の造りのお達し」は、京都からはじまり全国共通で威令が及んでいる。
美濃は和紙で有名だが、「美濃和紙あかりアート館」にはクールなぼんぼり作品が並んでいた。
美濃市駅の手前に、1999年3月末に廃線になった名鉄美濃町線の終着駅美濃駅が、当時の車輌と共に保存されていた。
長良川鉄道の美濃市駅の花壇でひさしぶりに鶏頭の花を見かけた。
関市、美濃市からもう少し長良川鉄道に乗ると、「郡上おどり」で知られる郡上八幡に着く。次回は足を伸ばしたい所だ。つい先日、東京青山の御幸通りを歩いて根津美術館へ行ったばかりだが、あの界隈の「青山」の地名は郡上八幡のお殿様だった青山家の江戸上屋敷があった場所だそうだ。
◎ネットによると文化財保護法で言う「伝統的建造物群」とは、城下町、宿場町、門前町、寺内町、港町、農漁村などの、周囲の環境と一体をなして歴史的風致を形成している伝統的建造物群を指す。この制度は、文化財としての建造物を「点」(単体)ではなく「面」(群)で保存しようとするもので、保存地区内では社寺、民家、蔵などの建築物はむろん、門、土塀、石垣、水路、墓などの「工作物」、庭園、生垣、樹木などの「環境物件」を特定し、保存措置を図ることとされている。
市町村は都市計画の地域地区または条例により「伝統的建造物群保存地区」を定め、文部科学大臣は市町村の申し出に基づき重要伝統的建造物群保存地区の選定(「指定」ではない)を行うこととされている。2009年6月現在、日本全国で85地区が選定されている。
朝早く目が覚めて、宿のあたりを散歩したら、昨夜の余韻を残した鵜匠の舟が長良川の岸辺につながれていました。「小瀬の鵜飼」
YouTubeの後半に鵜への給餌や翌朝の運動なども。
画面の真ん中の→をクリックするとスタートします。
神戸市灘区にお住まいのOさんから次のようなメールを頂きました。
「先日、但馬竹田の山城に行って来ました。山名宗全が治めた国内屈指の山城跡です。
写真は天守台から南千畳を望んだものです。」
弓道部の先輩Oさんからの、眺望のきいた名画のような写真です。
ありがとうございました。
城の詳細は→竹田城
篠島の海水浴場は良く整備されていました。ホテルは海水浴場に面していて一晩中波音が心地よく聞こえました。
夕食の付き出しからなかなか美味しいものが出ました。
翌朝チエックアウトして島内を歩きました。松が生えた小島の向こうを外航船が往来していました。
ホテルの親戚の土産物屋を紹介されましたが・・・・。
船で師崎港に戻り、名鉄で名古屋駅まで戻りました。
地下街で味噌煮込みうどんを食べた後、私は名古屋・難波間の近鉄特急で帰りました。神戸のチケット屋でもその回数券は3200円で売られています。つい数年前まで車内でおしぼりサービスがあった近鉄特急も乗客減でコスト切り詰めに走っており、おしぼりサービスはおろかワゴンの車内販売もなくなっています。しかし安全に安価で、定時運行を維持し目的地まで行ってくれれば交通機関としてそれで充分なサービスだと思います。
篠島はそういう島があることも知りませんでしたが、2000人の人が住みその7割の住人は
漁業に従事しているそうです。篠島には知多半島の先端の師崎港からフェリーに乗ります。
夏には海水浴客で賑わうというのも納得のきれいな水と海岸がありました。
画像は、宇治川と木津川に挟まれた京都府久御山町にお住いの玉木英雄先輩が撮影されたものです。
上はホテルのロビーから見た海岸。
泊まったホテル。設備が新しくていいホテルでした。
海水浴場
島内を歩きました。
大きな外航船も見えました。
魚貝中心の料理はなかなかのものでした。
(以下2枚は管理人撮影)師崎港から船に乗りました。
結構民宿があるようです。
阿智胡地亭が生れた三重県の四日市は伊勢湾を挟んで知多半島の対岸に位置します。
その四日市の港中学校で同級だった鈴木くんの便りでは、小学校時代、
そろばん塾からの遠足で、篠島へ四海丸という400トンぐらいの船で
遊びに行ったことがあるそうです。彼の便りには続いて
「その後もう少し大きくなってからも行きましたが、まったく
田舎の漁師の島でした。今は、結構なリゾートになっているのでしょうか。」
とありました。しかも彼は知多郡大高町から四日市に引越して来たのだそうです。
瀬戸内海を海上の道にして伊予の国と安芸の国が往来していたように、きっと
古来から伊勢湾が海上の道になって伊勢と知多は親しく往来していたのでしょう。
焼き物を利用して作られた散歩道の一部。
こちらにもこんな道がありました。
オロ○ミンやボン△レーの懐かしい琺瑯びきの看板がそのまま残っていました。
新建材がなかった昭和20年代30年代の家屋はみなこんな感じでした。懐かしくてつい1枚撮りました。
窯跡の煙突群。歩いているとこういう場所がいくつもありました。
☆トップの画像は旅行をご一緒した神戸市のT先輩の撮影。Tさんは長年写真をやっておられますが、そのなかの「四国八十八ケ所歩き遍路の記録」が、個性的で美しい画像と共にこちらに掲載されています。このページからTさんの他の作品のページにも入れます。お勧めします。
住人の生活路地でもあり、作品の展示場でもあり・・。結構長く続く不思議な空間にピンキリの焼き物が展示されていました。道の順序でなくランダムに画像を並べます。
上は今は使われていない煙突のある路地。
こちらは売る気はなかろうと思える大きな甕。
なんかこっちも笑いたくなる空間でした。
あちこちこんな感じで無造作に作品を置いている店が沢山あります。
時間を作って1日好きなものを探すと自分に合うものがあるかもしれません。
毎年ここで雛が孵るツバメの巣に大きな口が3つ見えました。
当地の大きな廻船問屋だった瀧田家の屋敷が復元工事を終え、公開されていました。蒸し暑い日だったので屋内のヒンヤリした空気はご馳走でした。
江戸時代の道具類などの展示と共に、一族の「瀧田あゆち」さんが創業期の日本航空で活躍した頃の写真が多く展示されていました。こちらです。
上のHPから一部引用;
瀧田家は、およそ150年前の江戸末期から明治10年代後半まで約40年間にわたり海運業を営んだ常滑を代表する船主です。また、明治初年より木綿業を開業し、昭和35(1960)年代まで実質的な営業を行っていました。また、あゆちさんの父・英二さんは、焼き物を中心とした常滑の歴史に詳しく「常滑史話索隠」などの著書があります。あゆちさんの兄・文彦さんは東京大学仏文科を卒業し、東京大学教養学部の仏文科の教授となり、フランス文学の研究を行うとともに、多くの翻訳に携わりました。
瀧田家の屋敷は、嘉永3年(1850年)に建てられた町家造りの住居です。平成12(2000)年に「旧瀧田家住宅」として常滑市指定文化財となりました。現在、江戸末期の常滑の豪商の家に復元・整備した「廻船問屋瀧田家」として公開しています。