二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


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知らなかった、女の一生の話だろう。

2021年11月22日 01時36分25秒 | ニ言瓦版
この記事、知らなかった。
子供は、捨てるか、育てるか。
いや、子供作るか、作らないか。
その後、恋愛は、他人事より、自分のことかもしれない。





「【追悼】瀬戸内寂聴さん 「子どもを捨てて後悔してきた」 生前明かしていた「過剰な欲」と捨てる哲学〈AERA〉

作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが9日、死去した。99歳だった。寂聴さんは、これまでに400冊以上の本を出版。ベストセラー作家として駆け抜けた一方で、その恋愛は波乱万丈だった。 
これは貴重!剃髪前の若かりし頃の瀬戸内さんの一枚
 20歳で最初の夫と見合い結婚。5年後、年下の男性との恋愛に奔走した。そして、作家の井上光晴との道ならぬ恋を終わらせようと、51歳で出家を選ぶ。  寂聴さんは、本誌(AERA)に出家が人生最大の「捨てること」だったと振り返り、こうつづっていた。 <捨てることは、手に入れることよりもエネルギーがいる>  そして、「捨てて後悔したもの」については、こうも明かしていた。 <私がこれまで生きてきて「捨てて」後悔してきたのは、子ども。私はもともと、お手本のようないい嫁だった。だけれど25歳の時、3歳の娘と夫を置いて、家を出た。小説を書きたい、才能を生かしたい、無知な女のままでいたくない。そういう一心で、不倫相手のもとに向かった> <男と女の間のことは五分五分だからどちらが悪いということはないけれど、無力で非力な子どもを捨てることはやってはいけない。当時も本当は連れて行きたかったけれど、女が一人で食べさせることはあの時代にできなかった。父親のもとにおいておけば、娘が食うに困ることはないと考えてのことだったけど、いまでも後悔は尽きない>  人間はなぜ、多くのものを持ちたがるのか。過剰な欲は、なぜ生まれるのか。当時91歳だった寂聴さんが明かした「捨てる哲学」とは。 *  *  *   
人間は生まれてきたときから欲の塊。より良い豊かな暮らしをしたい、よりいい相手に巡り合いたいと、欲や煩悩が尽きないのは当たり前。それを捨てたら、穏やかな日常を送ることはできるかもしれないけれど、豊かな人生だとは言えないわね。  だから、捨てられないのは、人間だからとしか言いようがない。  だれかを愛するということにしても、無償の愛というのはなかなかないもの。無私を装いながら、根底では、相手に尽くしたい自分の欲を満たしているのに過ぎない。親から子どもへの愛も、期待にこたえてくれないと怒りに変わったり、なんらかの将来の見返りを期待していたり。でも、そんな欲深い人間だからこそ、それも含めていじらしい存在なの。

ただ、最近は、欲が過剰でとどまることを知らないようね。例えば、子どもを産むことについても、卵子凍結、精子提供など、とにかく何でも技術を使って目的を達しようとしている。若くきれいになりたいという欲も、整形技術を使えばいくらでもかなえられちゃう。昔だったら、整形をしたところで失敗して後悔もしたけれど、今では技術が進んで完璧にでき上がるから、後悔も生まれない。そうやって、欲がコントロールできないところまで膨らんでいるんじゃないかしら。  その最たるものが、原発。人間は何でもできるという思い上がりがある。原発があるのも、より良い暮らしやより便利な社会を手に入れたいという欲の結果。だけれど、これだけの事故が起こって、これだけの被害が出ているという事実があるのだから、目をそらしちゃいけない。原発には絶対に反対。再稼働なんてもってのほか。捨てるべきは原発で、原発事故で困っている人たちのことを絶対に忘れてはいけません。  過剰な欲はなぜ生まれるのかしら。  それは、その欲が、本当に自分がほしいものではなく、他人の目や流行を気にした結果だからね。洋服一つをとっても、本当に自分に似合うものはこの1枚なのに、流行がコロコロ変わるからそれに合わせるたびに増える。結婚相手を選ぶときも、自分が好きな人はこの人のはずなのに、世間的に言えばこんな要素があったほうが聞こえがいいと、会社名や学歴まで気にする。自分が満足したらそれでいいはずなのに、他人の目が入ってくるから欲にきりがなくなる。  人間は自分が本当にほしいものだけではなく、他人の目を気にして過剰に手に入れないと気が済まない。でも、そういう過剰なものは、手に入れるときの欲だけ満たされれば、持っていてもしかたなくなって、すぐに飽きて捨てたくなる。自分がほしくて仕方なくて買った洋服なら、ほつれを直してでも大事に大事に長く着ようとする。たとえ着られなくなっても、捨てるのではなくて、だれかにあげてでも生かしたいと思うもの。でも、流行に流されて買った服なら、流行が終わればすぐに捨てたくなる。  流行や周囲の目ほどいい加減なものはないでしょ。すぐに変わる。だから、捨てたくなかったら、自分の好みだけを厳選して手に入れること。それはモノでも人間関係でもみな同じです。 

最近は、インターネットや携帯電話があるから、いろんな情報が入ってくるようになって、ますます他人の目が気になる。あんなものがあるから悪い、と批判する年配者もいるけれど、それは使いこなせない人のヒガミ。技術の発達や発展を悪く言うことはできません。  きっと10年後には、今では思いもつかないようなものや新しい技術ができているでしょう。それだけ、欲望を掻き立てられる状況や選択肢が増えている。だから、他人に流されない、自分の好みを強く持つことが大事でしょう。それが、欲を適度にコントロールし、捨てるものを過剰に増やさない秘訣じゃないかしらね。  私がこれまで生きてきて「捨てて」後悔してきたのは、子ども。私はもともと、お手本のようないい嫁だった。だけれど25歳の時、3歳の娘と夫を置いて、家を出た。小説を書きたい、才能を生かしたい、無知な女のままでいたくない。そういう一心で、不倫相手のもとに向かった。  男と女の間のことは五分五分だからどちらが悪いということはないけれど、無力で非力な子どもを捨てることはやってはいけない。当時も本当は連れて行きたかったけれど、女が一人で食べさせることはあの時代にできなかった。父親のもとにおいておけば、娘が食うに困ることはないと考えてのことだったけど、いまでも後悔は尽きない。  そして51歳の時に出家。あの時が人生最大の捨てることだった。当時、私は流行作家で、寝る間もなく売れる小説を書いていた。私の書きたかったものはこれなのか、求められる売れる小説を書くことがしたかったのか、疑問がわいたのね。だから、自分が納得する小説を書くために、小説のバックボーンになるような思想を身につけるために出家した。家財道具も何もかもいっさい捨てて。  捨てることは、手に入れることよりもエネルギーがいる。世間の批判に遭うかもしれない。それに、新しい靴がなければ、裸足で歩くことになるから。捨てるとは、それも覚悟の上で、いてもたってもいられなくなって起こるもの。そういうことじゃないかしら。 ○せとうち・じゃくちょう/1922年、徳島市生まれ。作家、僧侶。『夏の終り』で女流文学賞、『花に問え』で谷崎潤一郎賞など著書多数。73年に天台宗東北大本山の中尊寺で得度。2006年に文化勲章 ※AERA 2014年3月31日掲載」



凄いな、古い記事でも、記録されて、読まれ、考える。
本当、高僧だ。

どこかに、寺と博物館でも、できないものか。
いや、公園のように、アンパンマンの作家のように、墓と公園。

有名人の墓で、入る、公営墓地でいい。

忘れない、寺、墓でも、できないものか。

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