帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (272)秋風のふきあげに立てるしらぎくは

2017-09-26 19:16:11 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                        ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

清少納言の言語観について、もう少し述べる。枕草子第二段に、次のような文章がある。「ころは、正月、三月、四月・五月・七八九月・十一二月、すべてをりにつけつつ、ひととせながらをかし」。文字通りに聞き取るならば、ほとんど無意味である。清少納言からは「げす」呼ばわりされるだろう。近世以来、我々は平安時代の言語圏外に出てしまったのである。

「ころ合は、睦つき、みつつき、よつつき、いつつつき、なゝ、やァ、此処のつき・長つき、とほゞ、あまりひとふたつき。すべて折りにつけつつ、女と背の君の人柄、おかしい」。このように読めば、清少納言のご意向に近いだろう。匿名の女歌に近いだろう。文章にも、時の移ろいを示したらしい「清げな姿」と「心におかしきところ」があったのである。

「正月…むつき…睦ましいつき…ひとつ突き」「月…歴の月…つき人をとこ…つきよみをとこ…月の言の心は男…おとこ…突き」「をり…折り…時…逝」「せ…背…夫君…男」。このような意味候補より、どの意味に聞き取るかは、受け手の聞き耳に任される、結局、この文章の真髄の意味は、「言の心」を心得ない言語圏外の人々には聞こえない。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下272

 

同じ御時、せられける菊合に、州浜を作りて、菊の花

植へたりけるに加へたりける歌。

吹上の浜の形に菊うへたりけるをよめる  菅原朝臣

秋風のふきあげに立てるしらぎくは 花かあらぬか浪のよするか


 同じ寛平の御時、行われた菊合に、台に州浜を作って、吹上の浜の模型に菊植えたのを詠んだと思われる・歌……心に飽き風が吹き上げる嬪の姿に、貴具植えてあったのを詠んだらしい・歌   菅原道真

(秋風の、吹上げに立っている白菊は、花か、ではないのか、浪が寄せているのか……心に吹く厭き風の、吹き明けに、立っている白い貴具は、おとこ花ではないのか、汝身が・吾妻の身が、寄せているのか)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「洲浜…す・端・間…言の心はおんな」。

「秋風…飽き風…厭き風」「吹上…浜の名…名は戯れる。吹き上げ・吹き明け・吹き終わり」」「白菊…白貴具…白いおとこ…白いおんな」「白…おとこのつゆの色」「菊…きく…きぐ…貴具…奇具」「花…おとこ花…おとこ白つゆ」「か…疑い…感動」「なみ…浪…汝身…親しい者の身…おんなの身」「な…汝…親しいものをこう呼ぶ」。

 

秋風の、吹上浜に立っている白菊は、花か、ではないのか、白浪が寄せているのか。――歌の清げな姿。

心に吹く厭き風の、吹き明けに、立っている白い貴具は、おとこ花ではないのか、汝身が・女の身が、寄りついているのか。――心におかしきところ。

菅原道真が右大臣になる前の歌だろう。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)




帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (271)うへし時花まちどをにありしきく

2017-09-25 19:00:46 | 古典

           

 

                     帯とけの「古今和歌集」

                         ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

清少納言は天才である。枕草子の初めの方に、言語観を次のように示した。「おなじ言なれども、きき耳異なるもの、法師のことば、男のことば、女のことば。げすのことばにはかならず文字あまりたり」。同じ一つの言葉であっても、聞き耳によって、意味が・異なるもの、それが・法師の言葉、男の言葉、女の言葉・即ち我々の用いる言葉である。この言語圏外の人の言葉には、必ず、文字の意味が余っている。さらに翻訳すれば、一つの言葉に複数の意味候補があるが、結局、受け手の聞き取った意味が、その言葉の意味であるという。

20世紀の初め頃より、西洋の哲人達を悩ましはじめた言語という合理的思考では捉きれない不思議なものについて、1千年前に、清少納言はズバリ結論を述べていたのである。言語の意味はどのように伝達されようと、「受け手の聞き取った意味が、その言葉の意味である」とは、清少納言の哲学的言語観である。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下271

 

寛平御時后宮歌合の歌        大江千里

うへし時花まちどをにありしきく うつろふ秋にあはむとや見し

(寛平の御時、后宮の歌合の歌)       大江千里

(植えた時、花咲くのが待ち遠しかった菊、萎え衰える秋に逢うだろうと思っただろうか・思わなかったなあ……うえつけた時、お花咲くのが待ち遠しかった、貴具、衰え萎える厭きに、遇うだろうと見ていたかなあ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「うへし…うゑし…植えし…(菊を)植えた…植え肢」「し…過去…強調…肢…身の枝…おとこ」「花…菊の花…貴具のお花…おとこ花」「うつろふ…変化する…悪い方に変化する…色情などが衰える」「や…疑問の意を表す…反語の意を表す…詠嘆の意を表す」」「見る…思う」「見…覯…媾…まぐあい」。

 

植えた時、花咲くのが待ち遠しかった菊、萎えて色衰える秋に逢うだろうと思っただろうか・思わなかったなあ。――歌の清げな姿。

ものうえた時、おとこ花咲くのが待ち遠しかった、わが貴具、衰え萎える厭きに、遇うだろうと見ていたかなあ・みるのに無我夢中よ。――心におかしきところ。

 

無我夢中で、みとのまぐあひの山ばに達して、厭きと共に、みずのない池に堕ち逝き、ものには果てがあることを知る。

 
 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)




帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (270)露ながらおりてかざゝむ菊の花

2017-09-24 19:10:39 | 古典

            

 

                        帯とけの「古今和歌集」

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

藤原公任は、藤原道長もその兄たちも認める学問・詩・歌の達人である。貫之のいう「うたのさま」を歌の表現様式と捉えて、優れた歌の定義を、次のように述べた。「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりというべし(新撰髄脳)」。一つの歌言葉で、三つの意味を表した歌が優れていると言うべきであろうというのであるが、全ての歌に清げな姿と心におかしきところがあることは、数百首解き直してわかったが、深き心の解明には、なかなか至らない。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下270

 

是貞親王家歌合の歌           紀友則

露ながらおりてかざゝむ菊の花 老いせぬ秋のひさしかるべく

 (是貞親王家歌合の歌)              紀友則

(露のついたまま折って、頭飾りに挿そう、菊の花・長寿の花よ、老いせぬ秋の久しく在るように……白つゆと共に逝って、彼、挿していよう、貴具のお花、感極まらぬ飽きが久しくあるように)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

 「露…菊の露(若返りの妙薬とか、紫式部も綿に付けた菊の露で身を拭ったようである・紫式部日記)…つゆ…汁…白つゆ…おとこ白つゆ」「おりて…折って…枝折って…身の枝おって」「折…逝」「かざさむ…挿頭としょう…わがものの頭の飾りとしよう…彼、挿していよう」「菊…長寿の草花(女花)…花の名…名は戯れる。奇具・貴具・おんな・おとこ」「老い…年齢の極み…おひ…追い…ものごとの極み…感の極み」。

 

露のついたまま折って、頭飾りに挿そう、菊の花、老いせぬ秋の久しく在るように・菊の露は若返りの妙薬。――歌の清げな姿

おとこ白つゆと共に逝って、あれ、挿したままでいよう、貴具のおとこ花、感極まらぬ飽きが久しくあるように。――心におかしきところ。

友則は、病弱だったようで、古今集の完成を待たず、亡くなったようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)


帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (269)ひさかたの雲のうへにて見る菊は

2017-09-23 19:42:32 | 古典

           


                      帯と
けの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古典和歌を紐解き直している。仮名序の結びにある貫之の歌論は、数百首の歌を解いてきた今、次のように読むことができる「歌は多重の意味を表現する様式であると知り、言の心(当時の歌の文脈で通用していた意味)を心得る人は、大空の月(つき人をとこではない)を見るが如く、いにしえの歌を仰ぎて、今の歌を、恋しがらないだろうか、きっと恋しがるだろう」。

原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下269

 

寛平の御時、菊の花をよませ給うける 敏行朝臣

久方の雲のうへにて見る菊は 天つ星とぞあやまたれける

この歌は、いまだ殿上許されざりける時に、めしあげられてつかうまつれるとなむ。

 

(寛平の御時、菊の花を詠ませられた・歌)   藤原敏行

(久方の、雲の上・宮中にて、見る菊は、天の星かと見誤ったことよ・雲を背景に見る菊花はきら星の如し……久堅の、ものの思いの上にて見る、長寿のおんな花は、あま津、欲しとぞ、吾や待たれていることよ)

(この歌は、敏行がいまだ殿上許されていなかった時に、召しあげられて、献上したという)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ひさかた…久方…枕詞…久堅(万葉集の表記)…長寿のおとこ」「雲のうへ…雲の上…宮中…色欲のうえ…煩悩のうえ」「雲…煩わしくも心に湧き立つ思い…色情…煩悩」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」。

「菊…長寿の草花(女花)…花の名…名は戯れる。奇具・貴具・おんな・おとこ…菊の露で身を拭えば若がえりにきくとか(俗信あり)」(しばらく菊の歌が続くが全ての歌に共通する言の心である)。

「天つ…天の…あま津…あ間津…おんなの」「星…殿上人をきら星にたとえた…立派な人々が大勢いるさま…ほし…欲し…欲求」「あやまたれける…見誤ったことよ…吾や待たれていることよ」。

 

久方の雲の上にて見る菊の花は・雲の上にて見る人々は、天の綺羅星かと見誤ったことよ。――歌の清げな姿。

久堅の、ものの思いの上にて見る、長寿のおんな花は、あま津、欲しとぞ、吾や待たれていることよ。――心におかしきところ。

 

業平に女と歌の手ほどきを受けた敏行、さすがに、ぬかりなく、「清げな姿」のお世辞と、エロスに関わる「心におかしきところ」のある歌を詠んだのである。漢詩の知識「菊…星」をも披露して、この場では、これ以上は無い歌だろう。

帝が人を召して歌を奉るよう仰せになられるのは、その人物の人となり(賢し、愚かし)を御覧になられるためという(仮名序)

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)