帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (269)ひさかたの雲のうへにて見る菊は

2017-09-23 19:42:32 | 古典

           


                      帯と
けの「古今和歌集」

                    ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古典和歌を紐解き直している。仮名序の結びにある貫之の歌論は、数百首の歌を解いてきた今、次のように読むことができる「歌は多重の意味を表現する様式であると知り、言の心(当時の歌の文脈で通用していた意味)を心得る人は、大空の月(つき人をとこではない)を見るが如く、いにしえの歌を仰ぎて、今の歌を、恋しがらないだろうか、きっと恋しがるだろう」。

原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下269

 

寛平の御時、菊の花をよませ給うける 敏行朝臣

久方の雲のうへにて見る菊は 天つ星とぞあやまたれける

この歌は、いまだ殿上許されざりける時に、めしあげられてつかうまつれるとなむ。

 

(寛平の御時、菊の花を詠ませられた・歌)   藤原敏行

(久方の、雲の上・宮中にて、見る菊は、天の星かと見誤ったことよ・雲を背景に見る菊花はきら星の如し……久堅の、ものの思いの上にて見る、長寿のおんな花は、あま津、欲しとぞ、吾や待たれていることよ)

(この歌は、敏行がいまだ殿上許されていなかった時に、召しあげられて、献上したという)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「ひさかた…久方…枕詞…久堅(万葉集の表記)…長寿のおとこ」「雲のうへ…雲の上…宮中…色欲のうえ…煩悩のうえ」「雲…煩わしくも心に湧き立つ思い…色情…煩悩」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」。

「菊…長寿の草花(女花)…花の名…名は戯れる。奇具・貴具・おんな・おとこ…菊の露で身を拭えば若がえりにきくとか(俗信あり)」(しばらく菊の歌が続くが全ての歌に共通する言の心である)。

「天つ…天の…あま津…あ間津…おんなの」「星…殿上人をきら星にたとえた…立派な人々が大勢いるさま…ほし…欲し…欲求」「あやまたれける…見誤ったことよ…吾や待たれていることよ」。

 

久方の雲の上にて見る菊の花は・雲の上にて見る人々は、天の綺羅星かと見誤ったことよ。――歌の清げな姿。

久堅の、ものの思いの上にて見る、長寿のおんな花は、あま津、欲しとぞ、吾や待たれていることよ。――心におかしきところ。

 

業平に女と歌の手ほどきを受けた敏行、さすがに、ぬかりなく、「清げな姿」のお世辞と、エロスに関わる「心におかしきところ」のある歌を詠んだのである。漢詩の知識「菊…星」をも披露して、この場では、これ以上は無い歌だろう。

帝が人を召して歌を奉るよう仰せになられるのは、その人物の人となり(賢し、愚かし)を御覧になられるためという(仮名序)

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)