帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (307)ほにもいでぬ山田を (308)刈れる田に生ふる

2017-10-25 19:39:03 | 古典

            

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。そして曲解され無視されて現代に至る。

 

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下307

 

題しらず              よみ人しらず

ほにもいでぬ山田をもると藤衣 いなばのつゆにぬれぬひはなし

題知らず                (詠み人知らず・匿名で詠まれた女の歌として聞く)

穂も出ない山田を守っていると、粗末な衣、稲葉の露に濡れない日はない……おに穂も咲かない、山ばのおんな盛り上がると、粗末な貴身とその心、否端のつゆに濡れない日は無い・いつも山ばで濡れるのねえ)

 

「ほ…穂…お…おとこ」「山…やまば」「田…言の心は女…多」「もる…守る…盛る」「藤衣…粗末な衣…粗末な心身」「衣…心身を被うもの…身と心の換喩」「いなば…稲葉…否端…厭きの来た男の身の端」「つゆ…露…おとこ白つゆ…厭きの果て」。

 

いまだ穂を出さない山田を守る人の、粗末な衣、稲葉の露にいつも濡れている――歌の清げな姿。

彦はえに穂がでない、山ばの多情女が盛り上がると、粗末な貴身とその心、いつも否端の白つゆに濡れてしまう――心におかしきところ。

 

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下308

 

題しらず                よみ人しらず

刈れる田に生ふるひつちのほにいでぬは 世を今更に秋はてぬとか

題知らず                  (詠み人知らず・匿名で詠まれた女の歌として聞く)

(刈った田に生える、稲株の新芽が、穂になって出ないのは、世を、いまさら再び同じ秋を、迎え果てたくないとでも、言うのか……かれる多情おんなに、感極まるい根の新芽の、ほが咲き出ないのは、夜を、今更に、厭き果てないとでも、おっしやるの)。

 

「ひつち…刈つた稲株に生える新芽…ひこばえ…繰り返そうとする小枝」おふる…生える…極まる」「いでぬ…出ず…出ない」「秋…飽き…厭き」「はてぬ…果てず…果てない」「か…疑問…詠嘆」。

 

この世に、ひこばえが、穂を出さないのは、いまさら、再び刈り取られる秋に、果てないとでもいうのだろうか――歌の清げな姿。

涸れる多情のおんなに、感極まる彦ば枝が、穂に咲かないのは、夜を、今更、厭き果てないとでも。言うのか――心におかしきところ。

 

両歌は、男のさがに対する、女のご不満の表出のようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)