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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。
紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。そして曲解され無視されて現代に至る。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (307)
題しらず よみ人しらず
ほにもいでぬ山田をもると藤衣 いなばのつゆにぬれぬひはなし
題知らず (詠み人知らず・匿名で詠まれた女の歌として聞く)
(穂も出ない山田を守っていると、粗末な衣、稲葉の露に濡れない日はない……おに穂も咲かない、山ばのおんな盛り上がると、粗末な貴身とその心、否端のつゆに濡れない日は無い・いつも山ばで濡れるのねえ)
「ほ…穂…お…おとこ」「山…やまば」「田…言の心は女…多」「もる…守る…盛る」「藤衣…粗末な衣…粗末な心身」「衣…心身を被うもの…身と心の換喩」「いなば…稲葉…否端…厭きの来た男の身の端」「つゆ…露…おとこ白つゆ…厭きの果て」。
いまだ穂を出さない山田を守る人の、粗末な衣、稲葉の露にいつも濡れている――歌の清げな姿。
彦はえに穂がでない、山ばの多情女が盛り上がると、粗末な貴身とその心、いつも否端の白つゆに濡れてしまう――心におかしきところ。
古今和歌集 巻第五 秋歌下 (308)
題しらず よみ人しらず
刈れる田に生ふるひつちのほにいでぬは 世を今更に秋はてぬとか
題知らず (詠み人知らず・匿名で詠まれた女の歌として聞く)
(刈った田に生える、稲株の新芽が、穂になって出ないのは、世を、いまさら再び同じ秋を、迎え果てたくないとでも、言うのか……かれる多情おんなに、感極まるい根の新芽の、ほが咲き出ないのは、夜を、今更に、厭き果てないとでも、おっしやるの)。
「ひつち…刈つた稲株に生える新芽…ひこばえ…繰り返そうとする小枝」おふる…生える…極まる」「いでぬ…出ず…出ない」「秋…飽き…厭き」「はてぬ…果てず…果てない」「か…疑問…詠嘆」。
この世に、ひこばえが、穂を出さないのは、いまさら、再び刈り取られる秋に、果てないとでもいうのだろうか――歌の清げな姿。
涸れる多情のおんなに、感極まる彦ば枝が、穂に咲かないのは、夜を、今更、厭き果てないとでも。言うのか――心におかしきところ。
両歌は、男のさがに対する、女のご不満の表出のようである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)