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帯とけの拾遺抄
「拾遺抄」十巻の歌の意味を、主に藤原公任の歌論に従って紐解いている。
紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解して、この時代の和歌を解釈するのは無謀である。彼らの歌論によれば、和歌は清げな衣に包んで表現されてある。その姿を観賞するのではなく、歌の心を憶測するのでもなく、「歌の様(表現様式)を知り」、「言の心」を心得れば、清げな衣に「包まれた」歌の「心におかしきところ」が顕れる。人の「心根」である。言い換えれば「煩悩」であり、歌に詠まれたからには「即ち菩提(真実を悟る境地)」であるという。
拾遺抄 巻第一 春 五十五首
管家の万葉集に 読人不知
二十五 あさみどりのべのかすみはつつめども こぼれてにほふ山さくらかな
管家の万葉集に (よみ人しらず)
(浅緑、野辺の霞は包み隠しても、こぼれでて色鮮やかな山桜だなあ……若い延べの彼済みは、つつみ隠しているけれども、もれ出て匂う、山ばの、おとこ花だことよ)
歌言葉の「言の心」と言の戯れを紐解く
「あさみどり…浅緑…新緑の頃…山桜が浅緑の葉とともに薄紅色の花を咲かせる頃…若々しい」「のべ…野辺…山ばではない…延べ…延長」「かすみ…霞…彼済み…彼澄み」「つつめども…包めども…隠せども…慎めども…慎重ても」「こぼれて…零れて…はみ出して…あふれ出て」「にほふ…鮮やかに色ずく…匂う」「山桜…野辺が浅緑の頃咲く八重桜…山ばのおとこ花…遅く咲くので愛でたいお花」「かな…感動・感嘆の意を表す」
歌の清げな姿は、新緑、春霞、山桜の景色。
心におかしきところは、若くてなおも零れる如く咲いた山ばのお花。
百人一首に撰ばれた伊勢大輔の歌「いにしへのならのみやこの八重桜 けふ九重ににほひぬるかな」、この八重桜は興福寺の僧から宮中への恒例の贈り物で、その御礼の歌である。「桜」などは、同じ「言の心」で詠まれてある。「かな」もほぼ同じ感動を表している。
歌の清げな姿は「古き奈良の都の八重桜、今日、宮中に・九重に色鮮やかに咲いたことよ」、心におかしきところは「いにしえの寧楽の宮この、八重に咲くおとこ花、今日・京・絶頂に、九重に匂ったことよ」。この喜びの感動は、感謝の心となって伝わるだろう。この歌は、公任の歌論にてらしても「優れた歌」である。女房たちを代表して今年は伊勢大輔が詠めと、中宮の仰せによって詠んだという。伊勢大輔の祖父は後撰集撰者大中臣能宣。赤染衛門、紫式部、和泉式部の歌にも学んだエリートである。この時代の文脈のただ中に居ることは間違いない。
定文家の歌合に 忠峯
二十六 はるはなほ我にてしりぬ花ざかり 心のどけき人はあらじな
平定文家の歌合に (壬生忠岑・古今集撰者)
(春の季節は、やはり自分で感じてしまう、花盛り、心穏やかでのどかな人はいないだろうな……張るは、汝お、自分で感じてしまう、お花の盛りに心のどかな男はいないだろうなあ)
歌言葉の「言の心」と言の戯れを紐解く
「はる…春…四季の春…春情…張る」「なほ…猶…やはり…なお…汝お…わがおとこ」「な…汝…親しいものをこう呼ぶ」「われにてしりぬ…自分で感知してしまう…きっと自覚する…確かに自覚する」「ぬ…完了した意を表す…強調する」「花…木の花…桜…男花」「な…感動の意を表す…なあ」
歌の清げな姿は、春の花盛りの景色。
心におかしきところは、張ると春の情は、身と心の内からやってくる、その盛りの男の気色。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。
以下は、当時の人たちの捉えた和歌の真髄である。あらためて、原文を掲げる。
紀貫之の歌論の表われた部分を古今和歌集『仮名序』より書き出す。
○やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと(事・言)、わざ(業・ごう)繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞くものに付けて、言ひ出せるなり。
○歌の様(表現様式)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへ(古)を仰ぎて、今を(今の歌を)恋いざらめかも(きっと恋しがるであろう)。
藤原公任の歌論は『新撰髄脳』の「優れた歌の定義」にすべてが表われている。
○およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし。
それに、清少納言は『枕草子』に、歌について、このようなこと言っている。
○その人(後撰集撰者の父元輔)の後(後継者)と言われぬ身なりせば、今宵(こ好い)の歌を先ずぞ詠ままし。つつむこと(慎ましくすること・清げに包むこと)さぶらはずは、千(先・千首)の歌なりと、これより出でもうで来まし。
藤原俊成は『古来風躰抄』に、よき歌について、次のように述べている。
○歌は、ただ読みあげもし、詠じもしたるに、何となく、艶(艶めかしいさま・色っぽいさま)にも、あはれ(しみじみとした情趣を感じるさま・同情同感するさま)にも、聞こゆることのあるなるべし。
上のうち、「ことの心」「心におかしきところ」「包まれてある慎むべき内容」「艶に聞こゆるところ」が、近世以来の国学と近代の国文学的解釈では消えている。国文学的方法で解明できたのは、和歌の孕む意味の氷山の一角である。和歌の真髄は埋もれたままである。