帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百三十七)(四百三十八)

2015-10-08 00:23:08 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。

公任の撰んだ歌には、品の上中下はあっても、「清げな姿」「心におかしきところ」時には「深い心」の三つの意味が有るにちがいない。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

天暦御時に内裏にて為平親王のはかまぎ侍りけるとき   参議小野好古

四百三十七  ももしきにちとせのことはおほかれど けふのきみにはめづらしきかな

天暦御時に内裏にて為平親王の袴着(三歳の儀式)をなさったとき (参議小野好古・小野篁、流罪後復帰した宰相の孫)

(百敷に・宮中に、千年つづく事は多くあるけれど、今日の君は、かってないすばらしい儀式だなあ……桃しきに、久しき事は多くあるけれども、京の貴身には、驚嘆する珍しいことだなあ)

 

言の戯れと言の心

「ももしき…百敷…宮中…桃しき…桃のような…桃肢器…おんな」「ちとせのこと…千年続く事…久しく続く事」「けふ…今日…京…ものの極み…おとこにはほんの一時」「きみ…君…貴身…君の貴身…おとこ」「めづらしき…すばらしい…愛でたくなる…珍しい…希有な…初めて出会う」「かな…であることよ…感動の意を表す」

 

歌の清げな姿は、千年に一度の素晴らしさと、袴着の儀式を言祝いだ。

心におかしきところは、成人の暁には、千年つづくかと思える、桃しきのさがに合われるかな。


 

すがはらの大臣の元服し侍りけるよ、ははがよみ侍りける

四百三十八  ひさかたの月のかつらもをるばかり いへの風をもふかせてしかな

菅原道真・右大臣が、十五歳で・元服した夜、母が詠んだ

(久方の月の桂も折るばかり、学問のわが家風を、この世に・吹かせてほしいなあ……久堅のつき人おとこの桂木も折れるばかりに、井への心風をも吹かせる、おとこに・なって欲しいものよ)

 

言の戯れと言の心

「ひさかたの…久方の…枕詞…久堅の(万葉集の表記)」「月…月人壮子(万葉集の表記)…ささらえをとこ(万葉集の注にある月の別名)…月の言の心は男・おとこ」「かつら…桂…月に生えている木」「木…言の心は男・おとこ」「いへ…家…言の心は女…井辺…おんな」「風…国風・家風…心に吹く風…有頂天で吹く荒の心風」「てしかな…願望を表す…してほしいものだなあ」

 

歌の清げな姿は、わが家の学問で一世風靡せよ・成人の日の母の願い。

心におかしきところは、久堅のささらえ壮子よ、井への心風が有頂天に上り、月の桂を折るほどに吹かせてほしいものだなあ。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌の解釈について述べる(以下は再掲載)


  紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って、平安時代の
和歌の表現様式を考察すると次のように言える。「常に複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸である。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様子なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式である」。

万葉集の人麻呂、赤人の歌は、この様式で詠まれてある。彼らが高め確立して広めた様式である。ゆえに彼らを「歌のひじり」と貫之は言う。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落し、「色好みの家に埋もれ木」となった。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の根本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。その解釈と方法は世に蔓延して現在に至る。

公任の云う「心におかしきところ」と、俊成の云う「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」という言葉にあらわされてある、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。