帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔二百八十六〕うちとくまじき物

2012-01-24 00:04:56 | 古典

  



                                            帯とけの枕草子〔二百八十六〕うちとくまじき物



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子〔二百八十六〕うちとくまじき物


 うちとくまじき物、ゑせもの、さるは、よしと人にいはるゝ人よりも、うらなくぞみゆる。うち解けられそうにないもの、見かけだけの者。それは、良しと人に言われている人よりも、裏がないと思える……言葉や心に裏、即ち本心があれば、それをわかり合えた時にうちとけられる・言動に裏のない人はいつまでもうち解けられそうにない)

 
 言の戯れと言の心

 「うちとくまじき…うち解けられそうにない…心許せそうもない…安心できそうにない」「ゑせもの…似て非なるもの…普通に見える偽物…見かけだけの裏のないのもの」「うら…心…心の裏…本心…言葉の裏…文や歌の裏の意味」。


 船のみち(船の海路・安心できない…夫根の路・女…うらを見せないので、うちとけ難いでしょう)。

 日がとってもうららかなときに、海の面、たいそうのどかで、浅緑の布を光沢だして敷き広げたようで、いささかも恐ろしい気配もないので、若い女らが袙、袴などを着て、侍の者の若々しい者らは櫓というもの押して、歌を盛んに唄っているのはとっても趣があって、高貴なお方にもお見せしてさしあげたいと思って行くと、風がひどく吹き、海の面がただ悪く悪くなるので何も思えず、停泊するべき所に漕ぎ着く間に、船に波のかかっている様子など、さっきは、あれほどなごやかだった海とも見えない。
 おもへばふねにのりてありく人ばかりあさましうゆゝしき物こそなけれ(思えば船に乗りまわる人ほど驚くほど大変なものはないことよ…思いを思えば夫ねに勢いづく男ほど浅ましくひどいものはないことよ)。適当な深さだって、さるはかなき物(あのような儚いものに…夫ねなどに)のって漕ぎ出すべきではないのでは、まして、そこゐもしらずちひろなどあらむよ(底知れず千尋ほどあるでしょうよ…女の情の深さもおとこにはわからない、千尋もあるの
よ)。

 荷船は物をたいそう多く積み入れているので、水際はだだの一尺もないのに、げ衆たちが、いささかも恐ろしいとも思わずに、船上を走りまわり、ちょっとでも荒くすると沈むのではと思うけど、大きな松の木などの二、三尺の丸太を五つ六つ、ぼんぼんと(船に)投げ入れたりするのは、いみじけれ(ひどいことよ)。

 屋形船は屋形というものの傍らで櫓を漕ぐ、だけど奥に居るのは心強い、船べりに立っている者は目もくらむ心地がする。

はやお(はや緒…早お)と名づけて櫓とかにすげた物の弱々しさよ。それが絶えればどうなるのでしょう。ふとおちいりなんを(さっと櫓が海に落ち入るでしょうに…夫、門、山ばから逝けに落ちるでしょうよ)。それだにふとくなどもあらず(それさえ太くも強くもないのよ)。

我が乗っているのは清げに造ってあって、屋形の妻戸を開け、格子上げたりして、あの荷船のように水面と等しく下がりぎみではないので、ただ家の小さいのなのよ。

 小舟を見ているとたいへんよ。遠くのは、ほんとに笹の葉で作ってさっと散らしたのにとってもよく似ている。停泊している所で舟毎に灯した火は、また、たいそう趣があるように見える。
 はし舟(はしけ…端夫根)と名づけて、とっても小さいのに乗って漕ぎまわる。つとめてなどいとあはれなり(早朝などしみじみとした風情がある…夜努めた翌朝、夫根はあわれでいとしいよ)。

あとの白浪(航跡の白波…後の白々しい心波)は、まことにこそきえもてゆけ(ほんとなのよ消えてゆく…ほんとうに白々しく心波は消えてゆく)。

(身分など)よろしき人は、やはり(船など)乗りまわらないことだと思える。徒歩の路もまた、恐ろしそうだけれど、それは何と言っても足が土についているので、いとたのもし(とっても心強い)。

 海はやはり大変だと思うのに、まして、海女が潜るために海に入るのは、うきわざなり浮き仕事なのよ憂き稼業なのだ)。腰につけている緒が絶えでもすれば、どうするのでしょう。男がするのならば、そうあっていいけど、女はやはり並大抵の心地ではないでしょうに、舟に男は乗っていて、ちょいと歌など唄って、この桍縄(樹皮の繊維の縄)を海に浮かべてまわる。危なくて海女が心配ではないのかしらね。(海女は舟に)上ろうとして、その縄を引くのだとか。男がとまどい縄を繰り入れるさまよ、とうぜんでしょう。舟の縁を押さえて海女の吐く息は、ほんとに聞いている人さえ、しほたるゝに(塩垂れて・涙が出てしまうのに)、(海女を)海に落とし入れて、(舟で)漂いまわる男は、めもあやにあさましかし(見て驚くほど浅ましいのよ)。


 言の戯れと言の心

 「舟…夫根…おとこ」「みち…路…女」「のる…船などに乗る…調子にのる…勢いづく」「お…緒…おとこ」「なわ…縄…緒…男…おとこ」「うみ…海…生み…産み…女」「うき…浮き…憂き」「ほ…帆…穂…抜きんでたもの…おとこ」「め…目…女」。



 小舟は「笹の葉を作りてうち散らしたるにこそいとよう似たれ」は、父元輔の赴任に同行した清女九歳から十二、三歳ごろ瀬戸内海を船旅した実体験の語り聞かせ。紀貫之「土佐日記」では、「春の海に秋の木の葉しも散れるやうにぞありける」と記されてある。言葉は違うが同じことが述べられてある。、


 「あとの白浪」の歌を聞きましょう。拾遺和歌集 哀傷 沙弥満誓

世の中を何にたとへむ朝ぼらけ こぎゆく舟のあとの白波

(世の中を何にたとえようか、朝ぼらけに漕ぎ行く舟の跡の白波・生まれては消えてゆく……夜の中の女と男を何にたとえようか、朝ぼらけこぎ逝くふ根の後の白々しい心なみ)。


 「世の中…男女の仲…夜の中」「白波…おとこ白波…白無見」「見…媾」「舟…おとこ」「白…色の果て…おとこの色」。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)

 
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。