帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」(九十六)木の葉降りしくえにこそありけれ

2016-07-22 18:56:03 | 古典

              



                           帯とけの「伊勢物語」



 在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を、原点に帰って、平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で読み直しています。江戸時代の国学と近代以来の国文学は、貫之・公任らの歌論など無視して、新たに構築した独自の方法で解釈してきたので、聞こえる意味は大きく違います。国文学的解釈では、歌や物語の「清げな姿」のみ顕れて「心におかしきところ」の無い味気ない物語になっています。


 伊勢物語
(九十六)このは降りしくえにこそありけれ


 むかし、おとこありけり(昔、男がいた…武樫おとこがあった)。女をあれこれと口説いて月日が経った。女は・岩や木ではないから、心苦しいとでも思ったのだろうか、やうやうあはれと思ひけり(ようやく心を動かした…さまざまに愛情を感じた)。そのころ、水無月(陰暦六月晩夏)の望月前後だったので、女、身に、かさ(腫れ物…瘡蓋)が一つ二つできたのだった。女は言ってよこした、「今は何の心もなし。身に、かさ(瘡蓋…天蓋)が一つ二つできている。時もたいそう暑い、少し秋風吹いて来くる時、必ずあいましょう」といった。秋待つころに、あちこちより、「その人のもとへいなむずなり(東宮のもとへ行くつもりらしい…業平のもとへ行くつもりらしい)」と口々に噂がたった。そうだったので、女の兄、急に、迎えに来た。それで、この女、楓の初紅葉を拾わせて、歌を詠んで書き付けてよこした。

 秋かけていひしながらもあらなくに この葉ふりしくえにこそありけれ

 (秋にはと言った通りではなく・秋も来ないのに、木の葉の降り敷くような君との縁だったわ……厭きはじめて言っているのではないけれど・飽き足りてもいないのに、汝、柄にもなくて、この端、降りしく、枝でしたのねえと書き置いて、「あの人のところより人をよこしたら、これをやれ」と言って去った。

 さて(あの東の五条の家でこんなことがあって)、やがて後、ついに今日まで、男は歌のことは知らないでいた。知らずにいてよかったのであろうか、わるかったのだろうか。女の行った所も、その時は・知らない。彼の男は「あまの逆手」を打って、呪っているというのだ。むくつけきこと(気味悪いこと…恐ろしいことよ)。人の呪いごとは、呪われた人は負うものであろうか、負わないものであろうか。「いまこそはみめ(今にみていろ…井間こそ見む)」と言っているそうだ。


 

貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう言の戯れを知る

 「かさ…瘡蓋…腫れ物…あせも…傘…天蓋…天子の為の大きな飾りかさ」「あき…秋…飽き満ち足りるとき…厭き」「ながら…汝柄…汝の本性…おとこの本性」「このはふりしくえ…木の葉降りしく枝…飽きてもいないのに尽きるような縁…飽きていないのに子の端白ゆき降りしくような身の枝…おとこを侮辱した言葉(女はあえて侮辱したのだろう、このおとこへの未練を断ち、入内を決意するために)」「枝…身の枝…おとこ」「あまのさかてをうつ…呪いの方法(詳細不明)」「いま…今…井間…おんな」「みめ…(ひどいめに)あうだろう…遭遇するだろう…見め…見む…見るつもりだ」「見…覯…媾…まぐあい」。

 

呪う人、呪われるひとは誰か、兄は誰か、呪う原因は何か、はっきりした描写はない。曖昧なままでもいい、作者業平の・この男の、心情だけは、身をもって感じられるように、歌は詠まれ、物語は語られてある。それは、言の戯れに顕われる。

 

言うべきことは、はっきり言わなければ通じない文脈になってしまった今の世に合わせて、以下のことを書く。

国文学的解釈では、「かさ…瘡…腫れ物」としか聞かないが、「傘…天蓋」と「聞く耳」を平安時代の人々は持っていた。やまと言葉には古代より「言霊」がある、貫之のいう「言の心」があったのである。天井に吊るす天蓋、野外でさしかける大傘など天子のためのもの、入内準備に制作していたものが二、三、出来上がったという。女御は局(御曹司)を与えられるが、その調度品は準備して行くのだろう。

「ながらもあらなくに」、(武樫おとこと、おっしゃるけれども)そんな汝の柄では無かったわねえ、並みの汝身だったと、おとこを侮辱した。

「このはふりしくえにこそありけれ」、(飽きてもいないのに)、子の端、(白ゆき)降りしきる、身の枝だったことよ。侮辱する原因理由を述べた。

国文学的解釈は、言語観を違えて、これらの言葉の意味は全く聞こえないのである。それが味気ない解釈になる原因である。

 

身も心も睦ましくなった十日目に、このような言葉を残して去った女を、この男が、憎悪し、呪うわけがわかるだろう。当て馬のように扱われ、使い捨てにされたと、さとった時、この女だけではなく、兄、従姉妹、叔母、叔父、この一門の側に立つ男への、哀しい抵抗が始まったのだった。それを書き綴ったのがこの物語である。


 
2016・7月、旧稿を全面改定しました)