帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 27 われを君思ふ心のけすのへに

2014-01-18 00:08:32 | 古典

    



               帯とけの小町集



 小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り、言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心にも伝わるでしょう。



 小町
27


    (つねにくれどえあはぬ女のうらむる人に)

 われを君思ふ心のけすのへに ありけばまさに逢ひみてましを

(わたくしを、君の思う心が、わが・下女の辺に移るならば、いまにも逢い見ていいでしょうよ……わたくしを、君の思う心が、下洲の重に有るならば、いまにも合い見ていいのよ)


 言の戯れと言の心

「けす…げす…下種・下衆・外衆…下女…下洲…おんな」「す…おんな」「へ…辺…辺り…重…二重三重と重ねること」「ありけば…移動すれば…移れば…有りけ(れ)ば…有りげであれば」「まさに…ほんとうに…いまや…今現に」「あひ…逢い…合い」「見…覯…めとり…まぐあい」「まし…何々ならばいいのに…仮想的に希望する意を表す」「を…のに…よ…なあ」。

 

常に言い寄る男に、「君の心がわが下女に移るならば、今にも逢い見ていい、望むところよ」は、手厳しい拒絶である。「心におかしきところ」が、それを、むしろ緩和している。
 「けす…げ洲…す…おんな」「へ…重…重ねて(見る)」などという戯れの、げすな意味を認めないかぎり、この歌の「心におかしきところ」は永遠に顕れない。


 

  『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり、同じではない。



 以下は、歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 古今集真名序には「彼の時、澆漓(薄ぺらい)歌に変わり、人々は奢淫(おごって・淫らな)歌を貴び、浮詞は雲と興り、艶流れ泉と湧く、歌の実皆落ち、その華独り栄える」とある。彼の時は、小野小町等が歌を詠んだ時代のことである。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、歌に詠まれたそれは、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。