帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰髄脳 (三)

2014-11-19 00:40:09 | 古典

       



                   帯とけの新撰髄脳



 『新撰髄脳』の著者、四条大納言藤原公任は、
清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人である。藤原道長も、公任を詩歌の達人と認めていた。


 和歌は鎌倉時代に秘伝となって歌の家に埋もれ木のようになった。「古今伝授」と称して相伝が行われたが口伝という。そのような継承は数代経てば形骸化してゆく。江戸の学者たちの国学とそれを継承した国文学によって論理実証的に和歌は解明されたが、味気も色気もない歌になってしまった。明治時代、正岡子規に、「古今集はくだらぬ集に有之候」「無趣味」「駄洒落」「理屈っぽい」のみと罵倒されるような歌になっていた。平安時代の人々はほんとうに、そのような「くだらぬ」歌と思っていたか、否である。


 「およそ歌は、心深く、姿清げで、心におかしきところがあるのを、優れているというべきである」などと、奇妙なことを言う公任の歌論を、無視し続けて来た結果、江戸時代以来、我々は和歌の解釈を間違えて、清げな姿しか見ていないのである。和歌の元の意味を蘇生するには、古今集が秘伝と成る以前に帰ればいいのである。あらためて公任の歌論を紐解き、和歌の帯を解き、「心におかしきところ」をよみがえらせようと思う。


 歌の帯が解ければ秘伝と成るべき妖しい意味のあることもわかる。

 

(以下、新撰髄脳では手本にすべき歌を九首撰んで掲げ、これらの心と詞を参考にするべしと述べられる)

 


 「新撰髄脳」

 

世中を何にたとへん朝ぼらけ こぎ行舟の跡の白波

(世の中を何に例えようか、ほのぼのとした夜明け、漕ぎ行く舟の跡の白波・の如し……女と男の・夜の仲を、何にたとえようか、朝、浅ほらけ、こき逝く夫根の、後の、白汝身・の如し)

 

言葉の多様な意味

「世中…女と男の世の中…夜中…夜の仲」「朝ぼらけ…ほのぼのと夜の明けるころ…浅ほらけ…浅く空虚な感じ…むなしい感じ」「ほら…洞…内が空虚」「こぎ…漕ぎ…押し分け進む…こき…放ち」「ゆく…行く…逝く」「ふね…船…夫根…おとこ」「あと…跡…後」「しらなみ…白波…立てば消えまた立つもの…白汝身…白々しい汝身」

 

深き心は、立った白波の跡がやがて消えるような世の無常。

清げな姿は、朝もやの中を漕ぎ行く舟の景色。

心におかしきところは、満たされたはずの夜の営みの朝の空虚な気色。

 

(拾遺集、法師の歌)。

 

 

天原ふりさけ見ればかすかなる みかさの山に出し月かも

(天の原、ふり隔て、異国より・見れば、あれは・春日の御笠の山に出た月かなあ……吾女の腹振り離れ見れば、微かである、三重なる山ばに出た、つきひとをとこだなあ)


 言葉の多様な意味

「あま…天…女…吾間」「はら…原…腹」「さけ…避け…隔て…離れ」「見…観察…覯…媾…まぐあい」「かすか…春日…地名…微か…貧弱」「みかさなる…三笠なる…三重なる…三度重ねの」「山…山場…感情の山ば」「月…つき人をとこ…壮士…おとこ」「かも…感嘆・感動の意を表す」


 深き心は、異国での望郷の念。

清げな姿は、異国の海辺で見た月の景色。

心におかしきところは、異国で妻を娶り三つ重なる営みの果ての、微かなるおとこの物語。

 

(古今集、帰国船の難破などにより異国に留まった昔の留学生の歌)。

 

 

和田の原八十島かけてこぎ出ぬと 人には告げよ海士の釣ふね

(海原を八十島めざして、流人を乗せて・漕ぎ出たと、人々には告げよ、漁師の釣舟……綿のような腹、多き肢間めざし、こぎ出たと、女あるじには告げよ吾女の吊りふ根)


 言葉の多様な意味

「わた…海…綿…柔い」「はら…原…腹」「八十島…多くの島…やそ肢間…多情な肢間」「肢間…おんな」「こぎ…押し分け進み…こき…体外に出し」「人…人々…女…女主人」「あま…海人…海士…海女…吾女…おんな」「つりふね…釣り船…吊り夫根…陰核…居付きの身やの童べなどともいう…おんなの具す童子」

 

深き心は、不本意ながら憤懣を抑制した心。

清げな姿は、女の使う童子に、無事出航の知らせ。

心におかしきところは、女の具す吊りふねに、こぎ出しを告げるさま。

 

(古今集、隠岐の島に流された時、舟に乗って出で立つと、京の女に知らせた流人の歌)

 


 これはむかしのよきうたなり。

これらは昔の良き歌である。

 


 「新撰髄脳」の原文は、続群書類従本による。