帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 凡河内躬恒 (八)

2014-06-07 00:21:08 | 古典

    



                帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。公任(きんとう)は、清少納言、紫式部、和泉式部、道長らと同時代の人で、詩歌の達人である。この藤原公任の歌論を無視した近世以来の学問的な解釈と解釈方法(序詞・縁語・掛詞などという概念を含む)を棚上げしておき、平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直すのである。公任が「およそ、歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」ということの重要さを認識することになるだろう。



 凡河内躬恒 十首(八)


 心あてに折らばや折らむ初霜の 置きまどはせる白菊の花

 (思うがままに、折ろうかな、折ろう、初霜が降りていて、と惑わせる白菊の花・清楚な気品よ……心貴くて、折れゆくか逝こう、初しもの、贈り置きを惑わせる、移ろえば色増さる・汚れなき女花よ)

 

言の戯れと言の心

 「心あて…心当て…あて推量…思うがまま…あてすっぽう…心貴て…心上品」「に…で…により…原因理由を表す…手段方法を表す」「折る…(花の茎を)折り採る…折り逝く…(おとこはなを)折る」「折…逝」「初霜…初下…初めての白きもの」「置き…(霜など)降りている…(つゆなど)贈り置き」「白…無色…色気なし…色欲・邪気など無し…清楚」「菊…秋の草花…女花…移ろえば色が増さるという花…ひととせに再び色鮮やかとなる花…その露で身を拭えば老いを祓い長寿を得るとか、俗信のある花」「花…草花…女花」



 このように聞けば、藤原公任が撰ぶに相応しく「清げな姿」と「心におかしきところ」があることがわかる。また、余情妖艶をよしとする藤原定家(俊成の子)が『百人一首』に撰んだわけもわかる。


 この歌は、古今和歌集 秋歌下に「白菊の花をよめる 
凡河内躬恒」としてある。今の人々は、この歌をどのように聞けと教えられてきたのだろうか、どのように聞こえているのだろうか。高校生の用いる古語辞典にある歌の解釈を二点示す。


 

「当て推量で折るならば、折ることもできようか、初霜が一面に降りて、その白さで見分けがつかないようにしている白菊の花を」

 
 「あて推量で、もし折るのなら、折ろうか、初霜が降りて、私を惑わせている白菊の花は」


 このような解釈は、江戸の国学をはじめ明治の国文学も、現代の国文学をも踏まえたものである。専門的な解説書にある解釈も大差はない。はたして、
躬恒はこのように詠み、平安時代の人々はこのように清げな姿だけを見ていたのか、否である。

 
 字義通りに聞けば現れる、花を折りとまどう様の歌の
清げな姿は、躬恒の仕掛けた虚構である。

 

 貫之のいう「歌の様」と「言の心を心得」て、俊成のいう「言の戯れ」を知って聞けば、「心におかしきところ」が旨となって顕れる。そのエロス(性愛・生の本能・煩悩)こそ、歌の趣旨であり主旨である。公任から定家まで、平安時代の人々は皆それを享受していたに違いないのである。



 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。


 歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に訊ねた。公任は
清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で詩歌の達人である。優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。


 この言語観については、まず清少納言に学ぶ、枕草子(第三段)に言語観を述べている。「同じ言なれども、聞き耳(によって意味の)異なるもの、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(われわれの用いる言葉の全てが多様な意味を持っている)」。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。
それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。