帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (273)ぬれて干す山路の菊のつゆのまに

2017-09-27 19:59:08 | 古典

            

 

                         帯とけの「古今和歌集」

                       ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。

藤原俊成の歌論は、和歌の奥義を感じ、歌の善き、悪しき、深き心を知ろうとしても、言葉では述べ難い。仏法経典の奥の義を推しはかるのと同様であると、難しく述べられる。和歌の部分のみ取り出して見ると「和歌の言葉は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨(主旨・趣旨)が顕れる」という。それは、公任の歌論に従って見てきた「心におかしきところ」の事だろう。このエロス(生の本能・性愛の感情)を、俊成はあえて「煩悩」と捉えたようである。そしてその表現された「煩悩」は即ち「菩提(悟りの境地)」であるという。

「歌はただよみあげもし、詠じもしたるに、何となく艶にもあはれにも木こゆる事のあるなるべし」と述べる。我々は数百首の歌の「心におかしきところ」に、艶やかさや色っぽさ時には妖艶さを感じ、同時に女と男の性(さが)のあはれをを感じて来たので、充分に理解できるお言葉である。

 

古今和歌集  巻第五 秋歌下273

 

仙宮に、菊を分けて人の至れる形を詠める  素性法師

ぬれて干す山路の菊のつゆのまに いつか千歳を我は経にけむ

(仙人の宮に、菊を分けて人が到着した模型を詠んだと思はれる・歌……仙人の宮こに、奇具を分けて、男が到達したのを詠んだらしい・歌) 素性法師

(袖濡れては干し行く、山路の菊の露の間に・若返り、いつの間にか千歳を、我は経たのであろう・清浄な仙人の宮に入る……身の端濡れて、しつくす、山ばの通い路の、我が貴具の、ほんの少しの白つゆの間に、いつの間にか千歳を、我は過ごしたのだろう・厭き尽きたか清浄な境地に至る)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「仙宮…仙人の住む宮…俗界を離れた清浄な宮」。

「ほす…干す…(飲みほすの)ほす…し尽くす」「山路…山ばのおんな」「路…通い路…言の心はおんな」「菊…きく…き具」「つゆのま…(菊の)露に濡れている間…おとこ白つゆの間…ほんの少しの間」。

 

袖濡れては干し行く、山路の菊の露の間に、若返りつつ、千歳を我は経たのだろう・仙人の清浄な宮に至る――歌の清げな姿。

濡れて、しつくす、山ばの通い路の、我が貴具の、ほんの少しの白つゆの間に、いつの間にか千歳を、我は過ごしたのだろう・厭き尽きか、清浄な境地に至る――心におかしきところ。

 心深い歌のようである。

 

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)