帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの新撰髄脳 (一)

2014-11-17 06:37:30 | 古典

       



                   帯とけの新撰髄脳



 『新撰髄脳』の著者、四条大納言藤原公任は、
清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人である。藤原道長も、公任を詩歌の達人と認めていた。江戸の学者たちの国学とそれを継承した国文学の和歌解釈は、その公任の歌論を無視したまま行われたのである。この新たな学問的解釈によって、和歌は味気も色気もない歌になってしまった。明治時代に正岡子規よって、「古今集はくだらぬ集に有之候」「無趣味」「駄洒落」「理屈っぽい」のみと罵倒されるまでもなく、「古今集」の歌は「くだらない」のである。
 公任のいう「心深く、姿清げで、心におかしきところがあるのを優れた歌というべきである」とはどういうことなのか。公任の歌論をあらためて紐解き、和歌の帯を解き、「心におかしきところ」を蘇らせようと思う。


 

『新撰髄脳』 (四条大納言公任卿 著)

 

歌のさま、三十一字惣して五句あり上の三句をば本と云下の二句をば末といふ。一字二字のあまりたれども、うちよむに例にたがわねばくせとせず。

歌の様式、三十一字、すべてで五句あり、上の三句を本と云い、下の二句を末と云う。一字・二字余っていても、読みあげるのに、普通と違和感がなければ欠点としない。

 

(歌の定型について述べたもので、字数などは時がたっても紛れようがないので、現代の短歌と全く変わっていない)。

 

凡歌は心ふかく姿きよげにて心におかしき所あるをすぐれたりといふべし。事多く添えくさりてやとみゆるがいとわろきなり、一筋にすくよかになんよむべき。

およそ歌は、心が深く、姿は清そうに見えて、心におかしきところが有るのを、優れていると言うべきである。おかしき・事を、多く添えつらねてあるなあと思えるのは、まったく良くない。心におかしき事は・一筋に、素直で健全にだ、詠まなければならない。

 

優れた歌の定義が述べられ、表現についての注意事項が述べられてある。これらは、時代と共に衰退したり世に埋もれたり新たに編み出されたりして変化したため、近世以来の現代の文脈に居て、公任の歌論を理解することは不可能である。そのため公任の歌論は、無視するか、聞き流すか、曲解するしかないので、国学も国文学もそうしてきたのである。

三十一文字で表された和歌に三つの意味が有ることになる。1、心深いと感じさせる。2、一読・一聞して清く美しいと感じさせる。3、心におかしいと感じさせる。三つの意味を備えていなければ優れた歌ではないという。一つの言葉で三つの意味を表現するには、言葉にはそれぞれ必ず複数の意味が有る事を活用すれば可能である。清少納言は枕草子に、この言葉の事を「同じ言なれども、聞き耳異なるもの(其れは)法師の言葉、男の言葉、女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と述べているのである。例えば「はる」と云う言葉は、「季節の春」「暦の立春」「青春」「春情」「張る」などと聞き耳によって異なる意味に聞こえる。このやっかいな性質を逆手にとれば、仮名表記では複数の意味を一つの言葉で表現できる。   

その例を古今和歌集巻頭の一首で見てみよう。


 ふる年に春たちける日よめる  在原元方

(旧年中に立春となった日に詠んだ・歌……元服する前年中に心に春がきて身も張る立った日に詠んだ歌) 在原業平の孫

 
 としのうちに春はきにけりひととせを こぞとやいはむことしとやいはむ

 (年の内に暦の立春は来たことよ、残りの・一年を、去年と言おうか今年と言おうか……疾しのうちに・早いうちに、心に春がきて・ものも張る立つたことよ、ひとと背を・おとなの女と男の日を、来るなと言おうか、来い早くと言おうか)


 先に示した「春」の他に、次のような言葉も多様な意味がある。「とし…年…疾し…早過ぎ」「ひと…一…人…おとなの女」「せ…背…夫…おとなの男」「こぞ…去年…こそ…来そ…来る勿れ」「ことし…今年…来疾し…来い早く」

 

心に春を迎えた少年の惑いを表現して、心深いと言えば深い。

暦について少年らしい理屈を述べて、姿は純真で清げである。

「張るはきにけり」とはエロス(性愛・生の本能)で、心におかしいといえばおかしい。


 

心姿あひ具する事かたくは、まづ心をとるべし。つゐに心深からずは、姿をいたはるべし。そのかたちといふは、うちきゝきよげにゆへありて、歌ときこえ、もしはめづらしく添などしたる也。ともにえずなりなば、いにしへの人、おほく本に歌まくらを置きて、末に思ふ心をあらはすさまをなん。なかごろよりはさしもあらねど、はじめにおもふ事をいひあらはしたる。なをつらきことになんする。今の人のこのむ、これがさまなるべし。ここにいふ九首の風躰也。

心におかしきところ、清げな姿を共に添えることが難しければ、先ず心におかしきところを取り去るといいだろう。結局、心深くなければ、姿を大切にすると良い。その姿形というのは、ふと聞いて清げで風情があって、歌と聞こえ・定型通りで・なめらかで、ひょっとして、好ましく・心におかしきところを添えたりして有るのである。心姿・共に得られなくなれば、昔の人は、多く、本に歌枕を置き(上の句に名所などを詠み)、下の句に、思う心を表す様式で・詠んだのだ、そうするといい。遠くはない昔よりは、そうでもなくなったが、はじめに思うことを言い表したものもある。やはりこれは詠みづらいことになる。今の人の好むのはこれらの様式であろう。ここに言う九首の風体の歌である。

 


(以下、手本にすべき歌を九首撰んで掲げ、これらの心と詞を参考にするべしと述べられる。明日に続く)


「新撰髄脳」の原文は、続群書類従本による。