帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔百五十三〕心もとなき物

2011-08-25 06:32:31 | 古典

   



                                 帯とけの枕草子〔百五十三〕心もとなき物



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子
〔百五十三〕心もとなき物


気がかりでじれったいもの、人のもとに急な物を縫わせにやって、待つ間。

物見(祭り見物)に急いで出かけて、御輿は今か今かと苦しいほど座って居て、彼方を待ちわびている心地。

子を産みそうな人がその程過ぎるまでもその気配がない。

遠い所より思う人の文を得て、堅く封している飯糊など開ける間、とってもじれったい。

 物見に遅く出かけて、御輿は・おなりになっていた、先導者の・白く細い杖など見つけたとき近くに車を寄せる間、じれったくて降りてでも行こうという心地さえする。

知られたくないと思う人が居るので、前にいる人に教えてもの言わせている。

何時だろうかと待って、生まれ出た赤ん坊が、五十日の祝い、百日の祝いになっている。行く末、たいそう気がかり。

 急な物を縫う時に、うす暗くて、針に糸通らずやり過ごす。だけど、それはそうで(若くはない、いや、うす暗いからで)、そうあるべき所(明るいところの若い人)をつかまえて、人にすげさせるのに、それも急ぐからであろうか、すぐには差し入れないので、「いで、たゞ、なすげそ(さあ、ただ工夫もなく、すげるな!……いや、ひたすら、すげなくていいよ)」と言うのを、とはいってもどうしてか通せないのはと思い顔で、そうならないじれったさに憎ささえ添えている。

何事であっても急いで或るところへに行くときに、先に我がさる所へ行くということで、「たゞいまをこせん(たった今、よこすつもりよ)」と言って出た車を待つ間だけは、とってもじれったいことよ。大路通ったのをあれだと喜んでいると他の方へ行ってしまった、まったく残念。まして、物見にでかけようとしているのに、「ことなりにけり(こと成りにけり…いいところは終わったよ)」と人が言っているのを聞くのだけは、興ざめなことよ。

 子を産んだ産後のことが長くつづく。

物見、寺詣などに、一緒でなければという人を乗せるために行ったところ、車さし寄せて、早く乗らないで待たせるのも、たいそうじれったく、うち捨てて行っやろうという心地がする。

また急いで、煎り炭(火つき良くした炭)おこすのに、久しくかかっている。

 人の歌の返し早くするべきなのに詠めない間も、じれったい。恋人などはそうも急がないだろうけれど、まれにはそういう(急がなければならない)時もある。まして女同士でも、直接言い交わす歌では、すぐにと思う間に、間抜けな歌もてでくるでしょう。

 気分が悪く、物の怪などが恐ろしいとき、夜が明けるまでの間、とっても待ち遠しく、不安。


 「心もとなき…待ち遠しい…気がかりな…はっきりしない…不安な」。


 
宮の産後の突然の訃報に、霧中に投げ出された感じ、生まれた子、われわれ女房たちの行末が「心もとなし」。その気持を直に語ることは出来ないので、比喩となるべきものの羅列で、ほんとうの気持の幾分かは伝わるでしょう。一年間このまま喪に服す。その間も枕草子は書き続けた。

枕草子を、このような文芸として、今一度読み直される日の来ることを願う。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず   (2015・9月、改定しました)

 
 原文は「枕草子 新日本古典文学大系 岩波書店」による