帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」(八十四) 藤原清輔朝臣 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-27 19:23:17 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 「百人一首」の和歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に従って、歌の「表現様式」を知り、「言の心」を心得て、且つ歌言葉は「浮言綺語に似て」意味が戯れることも知って、和歌を聞けば、
「心におかしきところ」や「言の戯れに顕れる深い主旨・趣旨」が心に伝わる。ものに「包む」ように表現されて有り、それは、俊成の言う通り、まさに「煩悩」であった。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (八十四) 藤原清輔朝臣


  (八十四)  
ながらへばまたこのごろやしのばれむ 憂しとみし世ぞ今は恋しき

(命・長らえれば、また、此の頃が懐かしく思うだろうか、憂しと思った世も、今は恋しいことよ……山ば・長らえれば、また、このごろが、乞いしくなるのだろうか、我は・憂しと見ていた夜ぞ、井間は乞い求めることよ)

 

言の戯れと言の心

「ながらへ…ながらふ…生き永らえる…長続きする…長く持続する」「また…又…復…ふたたび…股」「や…疑いの意を表す…感嘆・感動・詠嘆の意を表す」「しのばれむ…偲ばれるだろう…懐かしく思うだろう…(ひとは)乞い慕うのだろう」「憂し…つらい…いやだ…気が進まない」「みし…見し…見た…思った…みた」「み…見…覯…媾…まぐあい」「よ…世…夜」「ぞ…強く指示する」「いま…今…井間…おんな」「こひしき…恋しき…恋しいことよ…乞ひしき…求めていたことよ(連体形、体言が省略されてあるが、体言止めで余情が有る)」。

 

歌の清げな姿は、命長らえていれば、このごろの辛いことも、また懐かしく思えるだろうか、あの時のことも今は恋しいからなあ。

心におかしきところは、長らえると憂しと思うのはおとこのさが、また乞い求めるのは井間のさが、いずれも、人の煩悩。

 

新古今和歌集 雑歌下 題知らず 藤原清輔朝臣。

藤原清輔は、歌学書『袋草子』(歌に関する説話・歌合の作法など)がある。父は、左京大夫顕輔『詞花和歌集』の撰者。藤原俊成と歌学で並び立つ人である。



  清輔の歌をもう一首聞きましょう。新古今和歌集、恋歌二、「忍ぶ恋の心を」

人知れず苦しきものはしのぶ山 下はふ葛のうらみなりけり

(人知れず、恋する我が心を・苦しめるものは、信夫山、下這う葛の恨みだったのだなあ・他に何かあるのか……女に知られず苦しいものは、耐え忍ぶ山ばの、下這う屑おとこに、からみつくおんなの裏見のせいだったなあ)


 言の戯れと言の心

「しのぶ山…山の名…名は戯れる。忍ぶ山ば、耐えて持続すべき山ば」「山…山ば」「下はふ…下這う…地に伏す…起てない…立たない」「くず…屑…伏すおとこを自嘲することば…葛…つる草…生命力の強い草…草の言の心は女」「うらみ…恨み…怨念…裏見…二見…再見」「見…覯…媾…まぐあい」。

 

このような歌を、国文学的解釈はどのように解くのだろうか、「しのぶ山下這う葛の」を「裏見(葛葉の裏白を見せること)と掛詞の恨み」を導く序詞だというが。公任のいう「心におかしきところ」は何も伝わってこない。清輔の歌学も「貫之と公任」の歌論の範疇に在るのである。