帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子〔九十〕上の御局

2011-06-12 00:15:23 | 古典

 



                                         帯とけの枕草子〔九十〕上の御局



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言 枕草子〔九十〕上の御局

 上の御局の御簾の前にて、殿上人が一日中、琴を奏で笛を吹き、遊びくらして灯火をともす頃、まだ御格子を下ろさないときに、灯火を宮の御前に差し出したので、戸が開いていてはっきり見えて、宮は琵琶の御琴を縦にして持っておられる。紅の御衣の、言いようのないほどの袿(内着)、それにのり張りした衣などを、多くお召しになられて、たいそう黒く艶々とした琵琶に、御袖をうち掛けてお持ちになっているご様子さえ愛でたいのに、琵琶のそばより、ご額のたいそう白く愛でたくくっきりとしたのを、全部はずしておいでになるのは、例えようもないことではないか、私は近くにおられる女房にさし寄って、「なかばかくしたりけんは、えかくはあらざりけんかし。あれはたゞ人にこそはありけめ(顔面を半分ほど隠していたというのは、このような様子ではなかったでしょうね。あの漢詩琵琶行の女は平凡な人だったのでしょうね)」と言うのを、この女房が通り道もないのに人を分けて行って申せば、わらはせ給て(お笑いになられて)、宮「わかれはしりたりや(彼の女人、別れは弁えているのかどうか…少納言、別れは承知しているか)」と、そのように仰せられるのも、いとをかし(とっても興味深くすばらしい)。

 琵琶を持っておられるご様子。近くの女房に言った言葉。宮がお笑いになったこと。そのお言葉。これらそれぞれの意味を当事者と同じように聞き、同じ感慨を得るには、まず白居易の漢詩『琵琶行』をわれわれと同じように聞くこと、それ以外に方法はない。「聞き耳(によって意味の)異なるもの、男の言葉」と知り、詩を聞きましょう。
 白居易が九江郡の司馬(遠国の介のような官職)に左遷された翌年の秋のこと、客(旅人)を見送る河船の上で、夜、琵琶の音を聞く。それは京(長安)の音色であった。主人は帰るのを忘れ客は発つのを忘れる。音を尋ね闇に問う、弾く者は誰か、「琵琶の声やんで語らんとすること遅し」、船を近づけ酒を追加し灯火をめぐらし重ねて送別の酒宴を開く。
 千呼萬喚始出来
 
(何度も何度も呼びかけると始めて弾き手の女が出て来た……司馬の心に千の嘆きと万の感慨がこみあげて来た)。
 猶抱琵琶半遮面
 
(女はなおも琵琶を抱きしめ琵琶で顔面を半ば遮っている……女はなおも琵琶を抱きしめ半遮面である、反斜面している)。

 
男の言葉も聞き耳異なるもの

「呼…よぶ…あゝと嘆く声」「喚…よぶ…さけぶ…憾…うらむ…くやむ」「始…はじまる…生じる」「出来…(弾き手が)いで来る…(感慨が)いでくる」「半遮面(顔面半ば遮っている)…反射面(灯火が反射している顔面)…反斜面(山ばの下り斜面を反対に上ろうとしている・過去の栄光に向かって逆行している)」。


 詩は、つづけて、昔、都で第一級の弾き手であった女の琵琶の曲の素晴らしさを描写する。更に猶も曲を所望し、司馬と客は聞き入り終わっても感動の余りしばし言葉もないほどであった。満座、重ねて聞き、皆感涙する、最も涙で衣を濡らしていたのは司馬その人であったという。


 宮とこの弾き手の女とは、「半遮面(反斜面)でない」と「半遮面(反斜面)している」の違い。宮は「別れ」を弁えておられて、一日中行われて来た管弦の遊びに、態度で、半遮面(反斜面)でないことによって、遊びの終わりを宣せられている。一方、半遮面の女の場合は、京の音楽と酒の、なおも、かさねて、さらにと「反斜面」が行われている。


 
長徳二年(996)五月、伊周は大宰府帥に、隆家は出雲国権守に左遷、旅人となった。中宮落飾。中宮の二条宮焼亡。別れの時がきたのである。
 張本人の道長や、中宮に対する心情は、ねたし(憎らしい、しゃくにさわる)、かたはらいたし(気の毒だ、心が痛む)、あさまし(意外だ、嘆かわしい)、口惜し(残念だ、悔しい)などという言葉で表すようなことである。事実に対して直接そのような表現はしない。枕草子は、以下しばらく「うそぶき(嘯き・そらとぼけて、あらぬ方に向かって、つぶやく)」になる。また、ささやかやな鬱憤晴らしになる。

 

 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず  (2015・9月、改定しました)


 原文は「枕草子 新日本古典文学大系 岩波書店」による