帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第六 冬歌 (342)ゆく年のをしくもあるかなます鏡

2017-11-29 19:11:16 | 古典

            

                       帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)を心得るべきである。

 

古今和歌集  巻第六 冬歌342

 

歌奉れとおほせられし時によみて奉りける  紀貫之

ゆく年のをしくもあるかなます鏡 見る影さへにくれぬと思へば

(歌奉れと仰せられた時に詠んで奉った・歌……訴ふ、立てまつれと奥方が申された時に、詠んで絶てまつわった・歌)つらゆき

(行く年が惜しまれることよ、真澄の鏡、映り見る姿までも、暮れ老いてしまったと思えば……逝く疾しが惜しまれるなあ、真澄みの彼が身、見るべき陰小枝も絶えてしまい、繰れぬと思えば)。

 

「たてまつり…奉り…献上…立て奉り…絶てまつわり」。

「ゆく…行く…逝く」「年…とし…疾し…早過ぎ…おとこのさが」「かな…哉…感嘆の意を表す」「ます鏡…真澄鏡…本来ならば増す彼が身…真澄みの彼が身…すっかり澄んでしまったわが身」「見…目で見ること…めんどう見ること…覯…媾…まぐあい」「かげ…影…映った姿…陰…隠れたもの…おとこ」「さへ…さえ…までも…さ枝…小枝…おとこ」「くれぬ…暮れてしまう…果ててしまう…繰れぬ…繰り返せない」。

 

過ぎゆく年を惜しみ、鏡に映るわが身の老を思う――歌の清げな姿。

逝く疾し、惜しまれるなあ、増して見るべきわが身なのに、果てて繰り返せないと思うと――心におかしきところ。

 

立てて献上してよという奥方の訴えも空しく、絶え、まつわりついたという歌のようである。

 

以上で、巻第六 冬歌を終わる。

 

以下は、繰り返しになる部分もあるが、平安時代の言語観と歌論について述べる。

 

清少納言は、枕草子の初めに言語観を示している。


 われわれの言葉は、「聞き耳」によって(意味の)異なるものであるという。言葉の意味は、受け手にゆだねられるという言語観に従えば、一つの言葉に多様な意味があり、歌に多重の意味があることなど当然のこととなる。歌の「心におかしきところ」は、聞き耳を持つものだけに聞こえ、枕草子の「をかし」も、聞き耳があれば「いとおかし」と笑えるのである。枕草子に、笑ひ給ふや笑ふと言った言葉が百箇所程あるが、今の読者は一笑もできない。「聞き耳」が異なって、ほんとうの意味が聞こえないからである。

(枕草子一本、一八)「鏡は八寸五分」とあるのも、「彼が身は八寸五分(28㎝)」と聞いて「うまか…馬か?…旨か?」と言って笑ってやってください。また、枕草子(三段)には、「ころは、正月、三月、四月、五月,七八九月、十一二月、すべておりにつけつゝ、ひととせながらおかし」とあるのも、「頃合いは、睦突き、や好い、う突き、さ突き、なゝやあ此処の突き・長突き、とほゝ余りひとふた突き。全て、折りに・逝くに、つけつつ、女人と背の君の人柄おかし」とでも聞けばおかしい。枕草子は隅から隅まで「おかしい」ことが、書き散らしてある。

 

藤原俊成は、清少納言と同じ言語観で歌の様を捉えている

 

「歌の言葉は、浮言綺語の戯れは似たれども、ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に」云々と『古来風躰抄』で述べている。
 ほぼ次のように読める。「歌の言葉は、浮言綺語のように戯れているけれども、そこに、ことの深い主旨や趣旨も顕れる。これを縁にして仏道に通じさせると(顕れたエロスは言わば)煩悩であるが(歌に詠むほどに自覚したならば)即ち菩提(悟りの境地)である」。

ここに歌の様は、明確に示されてある。国文学は、歌の言葉の戯れを「掛詞」と捉えて、いかにも学問的成果と思っているように見える。もはや、次元が異なってしまっているので、清少納言と俊成の言語観と歌論を全て無視しても、何とも思わないようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)