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帯とけの枕草子(拾遺二十七)池ある所の
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、この時代の人々と全く異なる言語感で読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」だけである。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子(拾遺二十七)いけある所の
文の清げな姿
池ある所の五月の長雨の頃こそ、しみじみとした情趣を感じる。菖蒲、菰など密生して、水も緑に映えていて、庭も同じ緑一色に見え広がって、曇っている空をつくづくと眺め暮らしているのは、とっても風情がある。
いつもすべて池ある所は、しみじみとした感じで趣がある。冬も氷になっている朝などは言うまでもない。わざと手入れしてあるのよりも、うち捨ててあって水草がちになって荒れ、青いところの絶え間絶え間より月影ばかりは白々と(氷に)映って見えている。
すべて、月影は如何なる所にても、しみじみとした感慨がある。
原文
いけある所の五月ながあめのころこそいとあはれなれ。さうぶ、こもなどおひこりて、水もみどりなるに、にはもひとついろに見えわたりて、くもりたるそらをつくづくとながめくらしたるは、いみじうこそあはれなれ。
いつも、すべて、池ある所はあはれにおかし。冬もこほりしたるあしたなどは、いふべきにもあらず。わざとつくろひたるよりも、うちすてゝみくさがちにあれ、あをみたるたえまたえまより、月かげばかりはしろじろとうつてりて見えたるなどよ。すべて、月かげは、いかなる所にてもあはれなり。
心におかしきところ
逝けあるところの、さつきの淫雨のころこそ、しみじみとした情感がある。壮夫、子も、感極まり、こりかたまって、女は若やかで、にわも同じ若い色に見えつづいている。心に雲満ちている女を、つくづくとながめ暮らしているのは、とっても「あはれ」である。
いつもすべて逝けあるところは、「あはれ」で趣きがある。冬も、子堀りした朝はいうべきではない。わざとらしくとり繕うより(逝けではすべて)うち捨てて、女がちになって荒れ、吾お、見ている絶え間絶え間より、つき人をとこの色香だけは白々と移りゆくのが見えていることよ。すべて、月人壮士の照るのはどのようなところでも「あはれ」である。
言の戯れと言の心
「いけ…池…逝け…山ばより感情の落ち込んだところ」「あはれ…しみじみとした感概…しみじみとした風情…さみしい…悲哀を感じる」「おかし…趣がある」「こほり…凍り…氷…子掘り…まぐあい」「水草…女」「つきかげ…月光…男の威光…男の色香」「月…月人壮士…つき…おとこ」「あをみたる…青みたる…吾がお、見ている」「見…覯…媾…まぐあい」。
これは、宮仕えを辞して、我が里にひっそりと住まう悲哀を述べた文のようにみえる。それだけではなく、女の「逝けの心」を述べた文とも聞く。それには先ず、歌言葉の「いけ」などの「言の心」心得なければならない。
「土佐日記」一月七日の歌を聞きましょう。この歌は、「京」から土佐の国の「池」という所に男について下って来て住んだ若い女の歌である。
人の家の「いけ」と名ある所より、鮒などの食料を船の人々に差し入れがあった。若菜が入れられてあって、今日が七日の若菜摘み食す日であることを知らせている。歌が添えられてあった。その歌、
あさぢふののべにしあればみづもなき いけにつみつるわかななりけり
いとをかしかし、いけといふは所の名なり。よき人の男につきて下り来て住みけるなり。
(浅茅の生える野辺であれば、水もない池で摘みました若菜でございます……情浅い茅の極まるひら野ですから、見すもしない逝けにて詰みました、若い女でございますよ)。
「あさぢふ…低い茅が生えている…浅いおとこくさが極まっている」「浅茅…すすき(薄)と同じく薄情な男」「のべ…野辺…山ばではない」「みづ…水…見つ…見た」「見…覯…媾…まぐあい」「いけ…池…所の名…逝け…落ちくぼんだところ」「つみ…摘み…詰み…ゆきづまる」「若菜…若い女」。
女は自らの現状を若菜に託して伝えている。字義以外の「言の心」を心得えられるように、土佐日記は記されてある。「言の心を心得る人は歌が恋しくなる」と、貫之は古今集仮名序の結びに述べている。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。