帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 信明 (二)

2014-08-26 00:22:57 | 古典

       



                    帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 信明 三首(二)


 恋しさはおなじ心にあらずとも 今宵の月を君見ざらめや

 (恋しさは、同じ心ではなくても、今宵の月を、あなたは、見ていないだろうか・見ているだろう……乞いしさは、同じ此処ろではなくても、こ好いのささらえおとこを、き身、見ないだろうか・見るよね)

 

 この歌は、拾遺集 巻十三 恋三にある。詞書月あかかりける夜、女のもとにつかはしける」(月がとっても明るかった夜、女の許に遣った……つき人壮士がとっても元気だった夜、女のもとにやった)歌。


 言の戯れと言の心

 「恋…乞い」「こころ…心…此処ろ」「ろ…接尾語」「こよひ…今宵…こ好い」「こ…接頭語…小…子」「月…月人壮士(万葉集の歌言葉)…男…おとこ…ささらえをとこ(万葉集以前の月の別名)」「きみ…君…あなた」「見…目で見る…覯…媾…目が合う…まぐあい」「ざらめや…(見)ないだろうか、(見る)だろう…打消・推量・反語の意を表す」「赤…血気盛んな色…燃えている色」

 


 古今和歌集 恋歌四に、題しらず、よみ人しらずの月の歌がある。女歌として聞く。


 月夜よし夜よしと人に告げやらば、来てふに似たり待たずしもあらず

 (月夜良し、いい夜ねと告げやれば、来てよと言ってるみたい、待っていないわけではないけれど……つき人壮士好し、夜好しと、君に告げ遣れば、来てよと言ってるみたいね、待たずしもあらずよ)

 

 信明(さねあきら)には関係のない昔の女人の歌であるが、信明は、若いころ、流布していた古今集を読んだに違いない。



 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 
 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様(和歌の表現様式)を知り、言の心を心得る人は、古今の歌が恋しくなるだろう」と述べた。


 藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。


 清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。


 上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているが、貫之と公任の歌論と清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。