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帯とけの枕草子〔二百十〕八月つごもり
言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」のみ。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。
清少納言枕草子〔二百十〕八月つごもり
八月つごもり(秋も深まった頃)、うづまさ(太奏の広隆寺)に詣でるときに見れば、穂となった田を人が大ぜい見て騒いでいるのは、稲刈りだったのだ。「早苗とりしか、何時の間に――」。先ごろ賀茂に詣でるときに見たものが、あはれにもなりにけるかな(しみじみと思うころになったなあ…哀れなあきになったことよ)。
これは、をのこどものいとあかきいねのもとぞあをきをもたりてかる(男たちがたいそう赤い稲穂の根元の青いところを持って刈る…おとこどもが、とっても元気色のい根の、もともと青き木を、もっていてかりする)。何なのでしょうそれでもって、根元を刈る様子なのよ。たやすそうで、してみたくなるように見える。いかでさすらん(どのようにしてそうするのでしょう…おとこって・どうしてそうするのでしょうね)。
ほをうちしきてなみおるもおかし(穂を無造作に敷き並べて居るのもおかしい…おを撃ち頻て汝身折るのもおかしい)。いほのさまなど(庵の様など…井ほの様など…女の様などもおかしい)。
言の戯れと言の心
「ほ…穂…帆…抜きん出たもの…お…おとこ」「いね…稲…い根…おとこ」「折る…刈る…逝く」「いほ…庵…井ほ…やど…おんな」「あかき…赤き…元気な」「赤…元気色」「青…若い色」「しき…敷…頻…度重ね」「おる…居る…折る…逝く」。
なぜ「稲刈り」が「あはれ」なのか、古今和歌集秋歌上の歌を聞きましょう。よみ人知らず
昨日こそさなへとりしかいつのまに いなばそよぎて秋風のふく
(昨日だよ早苗採ったのは、何時の間に、稲葉そよいで秋風が吹くか……きのうよ、さ汝枝取りいれたのは、君は・いつの間に、い寝端ぞ、避けて厭き風吹かすのよ)。
「さなえ…早苗…さ汝枝」「さ…接頭語…小」「枝…身の枝…おとこ」「いな…稲…井な…井の」「は…葉…端…身の端」「そよぎて…そそそよとそよいで…ぞ、避けて」「あき…秋…飽き…厭き」「かぜ…風…心に吹く風」。
なぜ「庵の様など」が「おかしい」のか、古今和歌集秋歌下の歌を聞きましょう。忠岑
山田もる秋のかりいほにおく露は いなおほせどりの涙なりけり
(山田守る秋の仮庵におりる露は、いなおほせ鳥の涙だったのだ……山ば多盛る飽き満ち足りた、かり井ほにおく白つゆは、否と仰せの女の涙だったのだ)。
「田…女…多」「かり庵…かり井ほ」「かり…仮…刈り…めとり…まぐあい」「井…おんな」「つゆ…露…白つゆ…あさつゆ…贈りおいて去るおとこの涙…厭きは否、別れは否の女の涙」「いなおほせ鳥…稲負背鳥…鳥の名…否仰せ鳥…いやと泣く女」「鳥…女」。
伝授 清原のおうな
聞書 かき人知らず (2015・9月、改定しました)
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。