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帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第二 夏 (六十一)(六十二)

2015-02-21 00:07:25 | 古典

        



                     帯とけの拾遺抄



 『拾遺抄』十巻の歌を、藤原公任『新撰髄脳』の「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って紐解いている。

紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、この時代の和歌を解釈するのは無謀である。彼らの歌論によれば、和歌は清げな衣に包んで表現されてあるものを、近代人は、清げな姿を観賞し歌の心を憶測し憶見を述べて歌の解釈とする。そうして、色気のない「くだらぬ歌」にしてしまった。

貫之の言う通り、歌の様(表現様式)を知り、「言の心」を心得れば、清げな衣に包まれた、公任のいう「心におかしきところ」が顕れる。人の心根である。言い換えれば「煩悩」である。歌に詠まれたからには「即ち菩提(真実を悟る境地)」であると俊成はいう。これこそが和歌の真髄である。


 

拾遺抄 巻第二 夏 三十二首


           題不知                      読人不知

六十一 はつ声のきかまほしさに郭公よぶかくめをもさましつるかな
         
題しらず                    (よみ人しらず・男の歌として聞く)

(初声が聞きたいばかりに、ほととぎす、夜深く目を覚ましてしまったことよ……発声が聞きたくて、ほと伽す・且つ乞う、夜深く、妻も・めも、めざめさせてしまったなあ)

 

歌言葉の「言の心」と言の戯れ

「はつ声…初声…発声…カッコウと聞こえる声」「郭公…かっこう…鳥の名…ほととぎすのこと…鳴き声や名は戯れる。渇つ乞う、且つ恋う、且つ乞う」「鳥…言の心は女」「め…目…おんな」「さましつる…覚ましてしまった…醒ましてしまった…めざめさせてしまった」「つる…つ…完了した意を表す」「かな…感動・感嘆の意を表す」

 

歌の清げな姿は、鳥の声を愛好する風流。

心におかしきところは、妻の煩悩魔か陰魔かを覚醒させてしまった男の感嘆。

 

 

なつ山をまかり侍るとて          くめのひろつな

六十二 いへにきてなにをかたらむあしひきの 山郭公ひと声もがな

夏山を仕事を終えて帰るとて       (拾遺集は久米広縄・万葉集は判官久米朝臣広縄、大伴家持と同じ時代の人)

(家に帰って、何を語ろうか、この山ほととぎす、一声、聞きたいなあ……井辺に来て、何を親しく交わろうか、あの山ばの、且つ乞うひと声が聞きたいなあ)

 

歌言葉の「言の心」と言の戯れ

「いへ…家…妻の許…井辺…おんなのあたり」「かたらふ…語らう…親しく交わる」「あしひきの…枕詞」「山郭公…山ほととぎす…鳥の名…名は戯れる。山ばの女、山ば且つ乞う」「鳥…言の心は女」「山…(ものごとの)山ば…絶頂」「ひと声…一声…人声」「もがな…願望の意を表す」

 

歌の清げな姿は、手土産にと山ほととぎすに鳴き声を所望する心。

心におかしきところは、おとこの生の願望。

 

万葉集巻第十九では、鳴かないほととぎすを恨む歌、判官久米朝臣広縄。

家にゆきてなにを語らむあしひきの 山霍公鳥一声もなけ

(家へ帰り何を語ろう・話の手土産にしたい、山郭公、一声でも鳴け・鳴いてくれ……)

 

この歌の山霍公鳥(やまほととぎす・やまかくこうとり)は、「やまほと伽す」「やまばの女」「やまば且つ乞う」などと戯れていただろうか。「かつ乞うと一声でも泣け、泣いてくれよ」という、男の願望のおかしさが有るか無いかは、「山霍公鳥」が鳥の名以外の意味に戯れていたかどうかに懸かっている。

藤原俊成は『古来風躰抄』上に、万葉集の歌について、次のように述べている。

「(万葉集の)歌どもは、まことに心もをかしく、ことばづかひも好もしく見ゆる歌どもは多かるべし」「また、まことに証歌にもなりぬべく、文字遣ひの証しにもなりぬべき歌どもも多く、おもしろく侍る」。このように述べられてあれば、万葉集の歌も、「清げな姿」だけではなく「心におかしきところ」があり、歌詞も同じように戯れていたと思っていいだろう。というよりは、この古歌は、「歌の様」や「言の心」の所在証明になるのではないか。「証歌」とは、同様の用例を示す証しとなる古歌のこと。



 『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。