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帯とけの拾遺抄
『拾遺抄』十巻の歌を、藤原公任『新撰髄脳』の「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」に従って紐解いている。
紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視して、この時代の和歌を解釈するのは無謀である。彼らの歌論によれば、和歌は清げな衣に包んで表現されてあるものを、近代人は、清げな姿を観賞し歌の心を憶測し憶見を述べて歌の解釈とする。そうして、色気のない「くだらぬ歌」にしてしまった。
貫之の言う通り、歌の様(表現様式)を知り、「言の心」を心得れば、清げな衣に包まれた、公任のいう「心におかしきところ」が顕れる。人の心根である。言い換えれば「煩悩」である。歌に詠まれたからには「即ち菩提(真実を悟る境地)」であると俊成はいう。これこそが和歌の真髄である。
拾遺抄 巻第二 夏 三十二首
題不知 読人不知
六十一 はつ声のきかまほしさに郭公よぶかくめをもさましつるかな
題しらず (よみ人しらず・男の歌として聞く)
(初声が聞きたいばかりに、ほととぎす、夜深く目を覚ましてしまったことよ……発声が聞きたくて、ほと伽す・且つ乞う、夜深く、妻も・めも、めざめさせてしまったなあ)
歌言葉の「言の心」と言の戯れ
「はつ声…初声…発声…カッコウと聞こえる声」「郭公…かっこう…鳥の名…ほととぎすのこと…鳴き声や名は戯れる。渇つ乞う、且つ恋う、且つ乞う」「鳥…言の心は女」「め…目…おんな」「さましつる…覚ましてしまった…醒ましてしまった…めざめさせてしまった」「つる…つ…完了した意を表す」「かな…感動・感嘆の意を表す」
歌の清げな姿は、鳥の声を愛好する風流。
心におかしきところは、妻の煩悩魔か陰魔かを覚醒させてしまった男の感嘆。
なつ山をまかり侍るとて くめのひろつな
六十二 いへにきてなにをかたらむあしひきの 山郭公ひと声もがな
夏山を仕事を終えて帰るとて (拾遺集は久米広縄・万葉集は判官久米朝臣広縄、大伴家持と同じ時代の人)
(家に帰って、何を語ろうか、この山ほととぎす、一声、聞きたいなあ……井辺に来て、何を親しく交わろうか、あの山ばの、且つ乞うひと声が聞きたいなあ)
歌言葉の「言の心」と言の戯れ
「いへ…家…妻の許…井辺…おんなのあたり」「かたらふ…語らう…親しく交わる」「あしひきの…枕詞」「山郭公…山ほととぎす…鳥の名…名は戯れる。山ばの女、山ば且つ乞う」「鳥…言の心は女」「山…(ものごとの)山ば…絶頂」「ひと声…一声…人声」「もがな…願望の意を表す」
歌の清げな姿は、手土産にと山ほととぎすに鳴き声を所望する心。
心におかしきところは、おとこの生の願望。
万葉集巻第十九では、鳴かないほととぎすを恨む歌、判官久米朝臣広縄。
家にゆきてなにを語らむあしひきの 山霍公鳥一声もなけ
(家へ帰り何を語ろう・話の手土産にしたい、山郭公、一声でも鳴け・鳴いてくれ……)
この歌の山霍公鳥(やまほととぎす・やまかくこうとり)は、「やまほと伽す」「やまばの女」「やまば且つ乞う」などと戯れていただろうか。「かつ乞うと一声でも泣け、泣いてくれよ」という、男の願望のおかしさが有るか無いかは、「山霍公鳥」が鳥の名以外の意味に戯れていたかどうかに懸かっている。
藤原俊成は『古来風躰抄』上に、万葉集の歌について、次のように述べている。
「(万葉集の)歌どもは、まことに心もをかしく、ことばづかひも好もしく見ゆる歌どもは多かるべし」「また、まことに証歌にもなりぬべく、文字遣ひの証しにもなりぬべき歌どもも多く、おもしろく侍る」。このように述べられてあれば、万葉集の歌も、「清げな姿」だけではなく「心におかしきところ」があり、歌詞も同じように戯れていたと思っていいだろう。というよりは、この古歌は、「歌の様」や「言の心」の所在証明になるのではないか。「証歌」とは、同様の用例を示す証しとなる古歌のこと。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。