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帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第一 春 (四十九)(五十)

2015-02-13 00:17:07 | 古典

        



                     帯とけの拾遺抄



 「拾遺抄」十巻の歌の意味を、主に藤原公任の歌論に従って紐解いている。

紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解して、この時代の和歌を解釈するのは無謀である。彼らの歌論によれば、和歌は清げな衣に包んで表現されてある。その姿を観賞するのではなく、歌の心を憶測するのでもなく、「歌の様(表現様式)を知り」、「言の心」を心得れば、清げな衣に「包まれた」歌の「心におかしきところ」が顕れる。人の心根である。言い換えれば「煩悩」であり、歌に詠まれたからには「即ち菩提(真実を悟る境地)」であるという。



 拾遺抄 巻第一 春 
五十五首


      題不知                       読人不知

四十九 我がやどの八重山吹はひとへだに ちりのこらなん春のかたみに
     
題しらず                     (よみ人しらず・女の歌として聞く)

(我が家の八重山吹は、一重だけでも、散り残ってほしい、春の形見に・思い出のよすがに……わが屋門の、八重の山ばに咲くお花は、一重だけでも、散り残していてほしいの、春の情、片見なので)


 歌言葉の「言の心」と言の戯れ

「やど…宿…家…女…屋・門…おんな」「八重山吹…八重に咲くおとこ花…珍しく愛でたいお花」「なん…なむ…してほしい…相手の動作の実現を希望する意を表す」「春…四季の春…春情」「かたみ…形見…思い出のよすがとなる物…片見…不満足な見」「見…覯…媾…まぐあい」「に…のために…目的を示す…によって…原因・理由を示す」

 

歌の清げな姿は、散り果てる山吹の花を惜しむ情景。

心におかしきところは、散り果てるお花に愛着する人の気色。

 

 

亭子院歌合に                    坂上是則

五十  花の色をうつしとどめよかがみ山 春よりのちのかげや見ゆると

亭子院の歌合に                  (坂上是則・古今集に七首入集)

(花の色を、映し留めよ、鏡山、春より後その姿が、また・見えるかと、思って……お花の色情を、衰えゆくのを止めよ、彼が身の山ば、張るより後の、陰りが見えるかと・思えて)


 歌言葉の「言の心」と言の戯れ

「花…山吹の花…男花…おとこ花」「色…(黄金)色…色香…色情」「うつし…映し…写し…移し(移動・変化)…衰え」「とどめよ…留めよ…止めよ」「かがみ山…鏡山…山の名…名は戯れる。鏡の山、彼が身の山ば、屈みやま」「春…四季の春…春情…張る」「かげ…影(姿)…陰…陰り」「見ゆる…見える…思われる」「と…のつもりで…と思えて」

 

歌の清げな姿は、花の色を映し留め置いてくれと鏡山に願う風流。

心におかしきところは、お花の果てを危惧する男のさが。


 両歌の深き心は、姿とおかしきところから自ずと見えてくる人間のさがだろう。


 

近代以来、現代の短歌の文脈に居る人々は、これらの歌を「叙景歌」とか「自然詠」と称する。そして自然観賞の歌として疑う事は無いけれども、実は、藤原公任の歌論にいう「清げな姿」が見えているだけなのである。「深き心」は有るとすれば、叙景から憶測するほかない。「心におかしきところ」は有るとしても自然観賞から一歩も出ない。人間性を詠む歌は別にあって、「人事詠」と称するようである。和歌(短歌)がそうなったとしても文芸の自然な活動力の所為であり、自由であるが、伝統的和歌をそのような文脈に取り込んで解釈するのは誤りである。和歌の文脈は、鎌倉時代以降に秘伝となって埋もれ断絶した。江戸時代の国学も近代以来の国文学も、その秘伝を解明したのではない。伝統的和歌の表現様式を新たに構築したのである。歌枕、序詞、掛詞、縁語などで説明されるが、これらは、歌の表面に顕れる「清げな姿」の衣の襞か織模様のようなもので、中身の人間性とは関係が無い。和歌の真髄ではない。

 

藤原公任の歌論『新撰髄脳』にある「優れた歌」の定義、「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし」に、この時代の和歌の表現様式のすべてが表われている。

 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。