帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 藤原清正 (二)

2014-08-29 00:09:27 | 古典

       



                    帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、あらためて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 藤原清正 三首(二)


 天つ風ふけひの浦にゐるたづの などか雲ゐにかへらざるべき

 (天の風評、吹け非の浦に居る鶴が、どうして雲居に帰らないだろうか・天晴れてきっと帰れるよ……あまの心風、吹いている心に居る女が、どうして、煩悩の山ばの上に、返らないだろうか・繰り返し返るよ)


 言の戯れと言の心

 「あま…天…女」「つ…の」「風…風評…心に吹く風」「ふけひ…浦の名…名は戯れる。吹け飯、吹け非、吹け居」「浦…うら…心」「たづ…鶴…鳥…鳥の言の心は女」「などか…疑問を表す…反語を表す」「雲居…天上…殿上」「雲…心に煩わしくも湧き立つもの…情欲など、広くは煩悩」「かへらざる…帰えらない…繰り返えさない」「ざる…ず…打消しの意を表す」「べき…べし…可能の意を表す…確信のある推量の意を表す」

 

 新古今和歌集 雑歌下にある詞書によると、「殿上離れはべりて詠み侍りける」歌とある。天歴元年(956)正月、紀の国の守を任じられて、殿上から遠退いたので詠んだ歌。国守の任期は普通四年なのにわずか十箇月で召還されたという。不当な人事に対する懸命の抗議の歌だったのかもしれない。いかなる場合でも「心におかしきところ」があってこそ歌である。

 

今の人々も「あま」「風」「雲」等の言の心を同じくすると、次の有名な歌の聞こえ方が様変わりして、平安時代の人々に近づけるだろう。古今和歌集 巻第十七 雑歌上 良岑宗貞(僧正遍照)、五節の舞姫を見て詠んだ歌。


 天つかぜ雲の通ひ路吹き閉じよ をとめの姿しばしとどめむ

 (天の風、天上に通じる雲の中の通路を、吹き閉じよ、天女に見紛う舞姫たちの姿、しばし地上に留めておきたい……女の心風よ、煩悩の通路を吹き閉じよ、天女に見紛う乙女のすがた、しばし其のまま留めておきたい)


 このように聞くと、貫之の仮名序での評価、「僧正遍照は、歌の様(心深く、姿清げで、心におかしきところある)は得たれども、まこと(色好みなところ)少なし、たとえば絵に描ける女を見て、いたずらに心を動かすが如し」と読めて、その意味が理解できるだろう。

 

 
 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。

 

 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 
 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様(和歌の表現様式)を知り、言の心を心得る人は、古今の歌が恋しくなるだろう」と述べた。

 
 藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。

 
 清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。

 
 藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。

 
 上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているが、貫之と公任の歌論と清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。