帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 源宗于 (三)

2014-08-23 00:08:24 | 古典

       



                    帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 源宗于 三首(三)


 山里は冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬと思へば

 (山里は、冬こそ、寂しさ増すことよ、人目も離れ、草も枯れてしまうと思えば……山ばの女は、飽き過ぎ終えた時こそ、寂しさ増さるのだなあ、ひとめも、くさむらも涸れてしまうと思えば)

 

言の戯れと言の心

「山里…山のふもとの村…山の女…山ばのおんな」「山…山ば…感情の山ば」「里…女…さ門…おんな」「冬…季節の冬…心の冬…ものの終わり…飽きの果て」「人…人々…男…女」「め…目…おんな」「草…言の心は女、若草の妻などと用いられた(伊勢物語)…くさむら」「かれぬ…離れてしまう…枯れてしまう…涸れてしまう」「ぬ…完了した意を表す」

 


 この歌は、古今和歌集 巻第六 冬歌にあるが、冬の風情や景色を詠んだ歌とのみ聞くのは、近世以来の大間違いである。この歌の同じ巻にある、よみ人しらずの歌を聞きましょう。女歌として聞く。同じ歌の様で、同じような言の戯れに歌の趣旨が顕われる。


 ふるさとは吉野の山し近ければ ひと日もみゆきふらぬ日はなし

 (故郷は、吉野の山が、近いので、一日たりとも、お雪の降らない日はないわ……古妻は、身好しのの好しのの山ばがよ、近くて・早いので彼は、一日もおとこ白ゆき降らない日はないわ)


 言の戯れと言の心

「ふるさと…故郷…古里…古妻」「吉野…山の名…名は戯れる、見良しの、身好しの」「山…山ば」「し…強調」「近ければ…(距離が)近いので…(時間が)早いので…敏感なもので」「み…御…見…身」「見…覯…まぐあい」「雪…白雪…白ゆき」

 


 宗于は、心身ともに、とっても
細やかなお人だったようである。「大和物語」によると、亭子の帝に、叔父甥の関係でもあったので、この手の歌で何か窮状を訴えたけれども、面倒みきれないと思われて、「何を言いたいのかわからん(出家したいのかと思われてか)」、僧都の君に歌をお見せになられたという。その歌は、「武蔵野の草にでも生まれればよかった・哀れという人もいるでしょうから」とか「時雨降る山里の木の下ですよ・われは、もれてばかり」というような姿をしているのである。



 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様(和歌の表現様式)を知り、言の心を心得る人は、古今の歌が恋しくなるだろう」と述べた。


 藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。


 清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。

 藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。


 上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているが、貫之と公任の歌論と清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。