帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 信明(三)

2014-08-27 00:16:43 | 古典

       



                    帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 信明 三首(三)


 あたら夜の月と花とを同じくは 心知られむ人に見せばや

 (惜しいほどのすばらしい夜の月と花とを、同じことなら、情趣を知っているだろう人に、見せたいなあ……殊に立派な夜のつき人壮士とおとこ花とを、同じことなら、情感、知っているだろう女に見せたいなあ)


 言の戯れと言の心

 「あたら…もったいないほどの…惜しいほどの…特にすばらしい…殊に立派な」「月…大空の月…月人壮士…つくよみをとこ…ささらえをとこ…立派なおとこ」「花…春の花…梅・桜…木の花…男花…おとこ花」「こころ…心…感情・知識…情趣…表面に表れない意味…情感」「見…(月見・花見)の見…覯…あう…まぐあい」「ばや…したいものだ…願望する意を表す」


 この歌は、後撰和歌集 巻三 春下に、詞書「月のおもしろかりける夜、花を見て」詠んだ歌とある。(月のすばらしかった夜、花を見ていて……つき人おとこのすばらしかった夜、おとこ花咲かせて)。「て…つ…完了した意を表す…そうして(詠んだと接続する)」

 

 古今和歌集 春歌下に「花見る」歌がある。 題しらず よみ人しらずながら、女性の歌として聞く、男との違いが出ている。


 春ごとに花の盛りはありなめど あひ見むことはいのちなりけり

 (季節の春毎に、花の盛りはあるでしょうけれど、君と・逢って花見しようとすることは、命の拠りどころなのよ……春情に・張る毎に、おとこ端の盛りはあるでしょうけれど、合い見ることは、女の・命なのよ)


 言の戯れと言の心

「春…季節の春…春情…張る」「花…梅・桜…男花…おとこ端」「あひ…相…逢い…合い…和合」「見る…(花)見する…顔を見る…対面する…まぐあう」「命…生きるよりどころ…生命そのもの」


 

  源信明(みなもとのさねあきら)は、肥後、越後等、国守を歴任して帰京後、四位となる。誕生したのは延喜十年(910)で、古今和歌集は、ほぼ完成していただろうか、彼の父母が最初の読者に当たる。

 

 

 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。

 

 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。

 
 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様(和歌の表現様式)を知り、言の心を心得る人は、古今の歌が恋しくなるだろう」と述べた。

 
 藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。

 
 清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。

 
 藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。

 
 上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているが、貫之と公任の歌論と清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。