帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの三十六人撰 敏行 (二)

2014-08-19 00:05:54 | 古典

       



                    帯とけの三十六人撰



 四条大納言公任卿が自らの歌論に基づき、優れた歌人を三十六人選んで、その優れた歌を、それぞれ十首乃至三首撰んだ歌集である。


 藤原公任は清少納言、紫式部、和泉式部らと同時代の人で、藤原兼家も道長も、公任(きんとう)を詩歌の達人と認めていた。平安時代の歌論と言語観に帰り、改めて学びながら、和歌を聞き直しているのである。やがて、公任の歌論が無視できなくなるだろう。



 敏行 三首(二)


 久方の雲の上にて見る菊は あまつ星とぞあやまたれぬる

 (はるか遠い雲の上・宮中で、見る菊は、天つ星・天子の輝きと、見誤ってしまいました……久堅の心雲の、その上に見る君子は、女の欲しとぞ、あゝ待たれてしまうよ)


 言の戯れと言の心

 「ひさかたの…久方の…枕詞…遠方の、久しぶりの、久堅の(万葉集の表記)、久しく堅い」「雲…心に煩わしくも湧き立つもの…情欲など…広くは煩悩」「見…目ぐ合い…みとのまぐはひ(古事記の表記)…交情・交合…覯(詩経の表記)」「上…殿上…宮中…その上…さらに加えて」「菊…梅・竹と共に君子のこと…漢字(男の言葉)の影響。清少納言は、男どもが悪戯で呉竹をそよろと御簾に差し入れた時、おい子の君か、と言って大いに受けた後、竹が男なんて知らなかったと言い張ったが知っていたのである…長寿の花」「あま…天…女」「つ…の」「ほし…星…輝くもの…欲し…乞いし」「あやまたれぬる…誤ってしまう…見間違えてしまう」「あや…感嘆詞…おお…ああ」「またれぬる…待たれてしまう…(欲しと)期待されてしまう」「ぬる…完了した意を表す」


 

 古今集の詞書は「寛平の御時、菊の花を詠ませ給うける」敏行朝臣。左注に、この歌は、まだ殿上許されなかった時に、召し上げられて(宇多帝に)奉ったという、とある。


 「伊勢物語」によると、敏行は、若き頃、業平から女と恋と歌の手ほどきを受けた。


 古今和歌集 巻五 秋歌下の、この歌の前にある業平朝臣の菊の歌を聞きましょう。とうぜん、歌の様も言の心も同じ文脈にある。


 人の前栽に菊に結びつけて植へける歌  在原業平朝臣

 植へしうへは秋なき時や咲かざらむ 花こそ散らめねさへかれめや

(植えた上は、秋でない時は、咲きはしないだろう、花は散るだろうか・散らない、根は枯れるだろうか・枯れない……ひとの前にわに・植えたからには、飽きが来ない時は咲かないよ、おとこ花こそ、散らさない、根は涸れるだろうか、涸れない、上の声は嗄れるだろうよ)

 

 言の戯れと言の心

 「植う…苗を移し植える…種うえつける…填め込み立てる」「うへし…植へし…植えた…上し…女肢」「上…女の尊称…女」「秋…飽き満ち足り…厭き」「や…感嘆詞…疑問詞」「む…め…推量を表す…意志を表す」「花…菊…長寿花…君子花…男花…おとこ花」「ね…根…おとこ…音…声」「かれ…枯れ…涸れ…嗄れ」「や…反語の意を表す…疑問の意を表す」


 天下の色男に相応しい歌、色好み歌の一つの極みである。



 『群書類従』和歌部「三十六人撰 四条大納言公任卿」を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様(和歌の表現様式)を知り、言の心を心得る人は、古今の歌が恋しくなるだろう」と述べた。


 藤原公任は、『新撰髄脳』に「およそ歌は、心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義が述べている。一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。一つの歌に複数の意味があるのは、歌言葉は字義の他に、「戯れの意味」や「言の心」があるからである。歌は、一つの言葉の持つ多様な意味を利して、複数の意味が表現されてある。これが貫之のいう「歌の様」で、歌言葉の多様な意味を「言の心」と、貫之は言ったと思われる。「言の心」を心得るには、清少納言と藤原俊成の言語観を学ぶ必要がある。


 清少納言は、『枕草子』第三章に「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの、(それが)、法師の言葉・男の言葉・女の言葉(即ち我々上衆の言葉である)」と、重要な言語観を記している。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に「これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕れ、これを縁として仏の道にも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」と述べている。


 上のような歌論と言語観は、近世の国学以来、現代の国文学でも無視されるか曲解されているが、貫之と公任の歌論と清少納言と俊成の言語観を援用して、歌を紐解いて行けば、「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であると俊成はいう。